第19話 俺を買うには、少し足りない
宴席のざわめきが、襖一枚を隔てたところで遠くなった。
宗兵衛に案内された部屋は、それほど広くない。
床の間に掛け軸が一幅。脇には小ぶりな花入れ。置かれた調度はどれも上等だが、これ見よがしな派手さはなかった。
「どうぞ」
宗兵衛が座を勧める。
恒一郎が腰を下ろすと、すぐに女が酒と肴を運んできた。
女が下がると、宗兵衛は自ら徳利を手に取った。
「一献、いかがです?」
「ああ」
差し出した盃に酒が注がれる。
「警戒なさらないのですな」
「何を?」
「私と二人きりになることを、です」
恒一郎は盃を口へ運んだ。
「本気で俺を消すつもりなら、こんな目立つ誘い方はしないだろ」
宗兵衛が小さく笑った。
「ずいぶん物騒なお話ですな」
「そっちから始めたんだろ」
宗兵衛は否定しなかった。
自分の盃にも酒を注ぐ。
「私は、志堂殿に興味があるのですよ」
「俺に?」
「ええ。この町へ来てまだ日が浅い。それなのに、花街ではずいぶん名が知られている」
「勝手に噂されてるだけだ」
「荒くれを何人も一人で黙らせたとも聞きました」
恒一郎は黙って宗兵衛を見る。
「それだけではない。娘たちの話を聞き、面倒事にも首を突っ込む。それでいて、妙な見返りを求めない」
「よく調べてるな」
「商売をしておりますから。人を見るのは仕事のうちです」
「それで?」
「使える方だと」
宗兵衛はあっさり答えた。
「私は、使える方を嫌いではありません」
恒一郎が盃を置く。
「仕事の話か?」
「話が早い」
宗兵衛の笑みが少し深くなった。
「私のところで働きませんか」
「何をする?」
「人と話す。揉め事を収める。必要なら、少々荒っぽい方々にも納得していただく」
「ずいぶん幅が広いな」
「志堂殿なら、どれもお出来になるでしょう」
「買いかぶりじゃないか?」
「そうは思っておりません」
宗兵衛は懐から紙入れを取り出した。
紙入れが開いた瞬間、恒一郎の目がその内側へ向いた。
黒い染み。
宴席で見えたものが、やはりそこにある。
宗兵衛は中から一枚の紙を抜き、広げて恒一郎の前へ置いた。
「まずは、この程度で」
恒一郎は書かれた金額を見る。
「高いな」
「志堂殿には、それだけの価値があると考えております」
「毎月これだけ?」
「ええ。住まいもこちらで用意しましょう。必要なら、この町で商いを始める手助けもできます」
「役所絡みで面倒が起きたら?」
「それも、ある程度はこちらで」
「顔が利くのか」
「多少は」
宗兵衛は何でもないことのように盃を持ち上げた。
「長く商売をしておりますと、自然と付き合いも増えますので」
杉浦の顔が恒一郎の頭に浮かんだが、恒一郎は何も言わなかった。
「なるほど」
恒一郎はもう一度、紙に書かれた額を見る。
「金は嫌いじゃない」
「それは何よりです」
「むしろ、あった方がいい」
宗兵衛の笑みが深まった。
「でも、その金をもらうために、お前の言うことを聞くほど困ってない」
宗兵衛は笑ったまま盃を口へ運んだ。
「金では足りませんか」
「そういう話じゃない」
「では、何がお望みです?」
「別に、何か欲しくて動いてるわけじゃない」
「人は、何か欲しいから動くものですよ。金でなければ、立場か、安全か。欲しがるものが違うだけです」
「そういう奴は多いだろうな」
「志堂殿も同じでしょう」
「欲しい物がないわけじゃない」
「ならば――」
「そのために、やりたくないことまでやるかは別だろ」
宗兵衛が恒一郎を見る。
やがて、口元の笑みを少し深くした。
「面白い方だ」
「そうか?」
「ええ」
宗兵衛は前に置いた紙を取り上げる。
「役に立つ者には、私は十分に報います」
「役に立たなくなったら?」
「それは、その時考えます」
宗兵衛は笑ったままだった。
紙入れが再び開く。
恒一郎の視線が、その奥へ入った。
何枚か重ねられた紙の間に、折り畳まれた別の紙があった。
その端にも、黒い染み。
蔵で見たものとよく似ている。
だが、そこから黒い糸は伸びていない。
宗兵衛自身からも、黒い糸は見えなかった。
「何か?」
恒一郎は視線を上げた。
「ずいぶん使い込んだ紙入れだと思ってな」
「これですか」
宗兵衛が手元を見る。
「商売をしておりますと、紙ばかり増えましてね」
「そういうものか」
「志堂殿は、あまり物を持たない方のようですな」
「増やすと面倒だからな」
「それはそれで羨ましい」
宗兵衛は紙入れを懐へ戻した。
「そういえば」
今度は宗兵衛が恒一郎を探るように見る。
「近頃、花街の娘たちをずいぶん気に掛けておられるとか」
「具合を悪くした娘が何人かいた」
「花街では珍しい話でもないでしょう」
「いなくなるのも?」
徳利を持つ宗兵衛の手が、ごくわずかに止まった。
すぐに酒が盃へ注がれる。
「人の出入りが多い場所ですからな」
「荷物を置いたまま?」
「さあ。そこまでは存じません」
「詳しいと思ったんだが」
「私も万能ではありませんよ」
「それはよかった」
「なぜです?」
「万能な奴が相手だと面倒だからな」
宗兵衛が静かに笑う。
「志堂殿は、ずいぶん私を警戒しておられる」
「そっちも俺を調べてただろ」
「これは失礼」
まったく悪びれた様子はなかった。
その時、廊下から足音が近づいてきた。
「旦那様」
襖の向こうから男の声がする。
「入れ」
襖が開いた。
宴席でも見かけた男だった。
恒一郎を見ると軽く頭を下げ、宗兵衛のそばへ寄る。
「失礼いたします」
小さく折られた書付が差し出された。
宗兵衛が開き、目を通す。
「西の荷ですが」
男が低い声で言う。
「今夜のうちに出せるそうです」
「そうか」
「いかがいたします?」
「予定通りでいい」
「承知しました」
男が一礼する。
懐から、薄い紙包みがわずかに覗いていた。
恒一郎は何も言わない。
昨夜、蔵で捕まえた男の言葉が頭に浮かぶ。
町の外。
「商売の話でして」
宗兵衛が言う。
「忙しいな」
「ありがたいことです」
宗兵衛は恒一郎を見ていた。
恒一郎も表情を変えなかった。
男が部屋を出る。
襖が閉じた。
「さて」
宗兵衛が向き直る。
「先ほどのお話ですが、今すぐ決めていただく必要はありません」
「そうか」
「気が変わりましたら、いつでも」
「覚えておく」
「志堂殿は賢い方です。いずれ、ご自分にとって何が得かお分かりになるでしょう」
恒一郎は立ち上がった。
「俺を買う話なら、たぶん時間の無駄だぞ」
宗兵衛は笑みを崩さなかった。
「それも、いずれ分かることでしょう」
別室を出ると、宴席の音が一気に戻ってきた。
三味線と笑い声。
行き交う給仕の女たち。
その少し先に朱莉がいた。
恒一郎を見つけると、こちらへ歩いてくる。
「ずいぶん長かったわね」
「買われそうになってた」
朱莉が眉を上げる。
「いくら?」
「かなり高かった」
「売ったの?」
「値段だけ聞いた」
「聞いたのね」
「気になるだろ」
朱莉が呆れたような目を向ける。
「あなた、そういうところだけ妙に俗っぽいわね」
「金は大事だからな」
「で?」
「断った」
「でしょうね」
朱莉はそれ以上聞かなかった。
恒一郎が宴席へ目を戻す。
その時、一人の給仕の女が料理を載せた盆を持って横切った。
まだ若い。
足取りはしっかりしている。顔色も悪くない。
だが。
恒一郎の目が止まった。
女の身体から、細い黒い糸が伸びている。
「朱莉」
「何?」
「あの娘、知ってるか?」
朱莉が視線を追った。
「ええ。今夜、宴の手伝いに来てる娘よ」
恒一郎は黒い糸を目で追う。
宴席の向こう。
先ほど別室へ書付を持ってきた男が、廊下の奥へ歩いていく。
懐から、先ほどの紙包みが覗いていた。
黒い糸は、その男のいる方へ伸びている。
恒一郎が立ち上がった。
「少し見てくる」
「何かあったの?」
「たぶんな」
男が消えた先は、荷を運び出す勝手口だった。




