第18話 では、宴で決着をつけよう
「それで、宴では何を見るつもり?」
朱莉は、卓の上に置かれた招待状へ目を落とした。
蔵前屋から届いたそれには、朱莉だけでなく、志堂恒一郎の名まできっちりと書かれている。
「蔵前屋本人。それと、あいつの周りだ」
「あなたを名指しで招いた理由は?」
「それも本人に聞く」
恒一郎が答えると、横で聞いていたおかみさんが眉を寄せた。
「相手は蔵前屋だよ。この町じゃ、金も顔も利く。宴の席で何かあっても、あっちの味方をする人間はいくらでもいる」
「だから宴なんだろ」
恒一郎は招待状を指先で軽く押さえた。
「人の多いところなら、まずは向こうの出方を見られる。それに、誰とどう付き合ってるかも分かる」
朱莉が小さく息をつく。
「あの人、表では感じがいいわよ」
「そうなのか?」
「気前もいいし、声を荒らげるところも滅多に見せない。困っている商人に金を貸したり、祭りに金を出したりもする。あの人を立派な人だと思ってる人は少なくないわ」
「なるほど」
蔵で見た大量の紙と、娘たちへ伸びていた黒い糸。
それを知らなければ、恒一郎も同じように見たかもしれない。
「ただし」
朱莉が続ける。
「あの人は、自分の思い通りにならない相手にはしつこいわ」
「お前のことか」
「ええ」
朱莉の顔から笑みが少し薄れた。
「たぶん、あなたを怒らせようともするでしょうね」
「それなら助かる」
「どうして?」
「人を怒らせようとする奴ほど、自分の方がよく喋る」
朱莉が一瞬きょとんとし、それから吹き出した。
「あなた、そういうことばかり覚えてるのね」
「役に立った経験は忘れないようにしてる」
「嫌な人生だったのね」
「そこは否定しにくいな」
恒一郎が肩をすくめると、朱莉は少しだけ目を細めた。
宴は三日後だった。
◇
日が暮れ始めた頃、宴の開かれる大店の前には何台もの駕籠が並んでいた。
暖簾の向こうからは、三味線の音と笑い声が漏れている。
恒一郎は入口の前で足を止めた。
隣に立つ朱莉へ、何人もの視線が集まっていた。
華やかな着物に身を包み、髪には艶やかな簪が差されている。
普段、店の奥で恒一郎と軽口を交わしている時とはまるで違った。
姿勢も、表情も、歩き方まで隙がない。
「やっぱり目立つな」
朱莉が横目で見る。
「何が?」
「顔が」
「……あなた、本当にそこは正直ね」
「嘘をつくところでもないだろ」
「少しくらい気の利いた言い方を覚えたら?」
「綺麗だ」
朱莉が足を止めた。
恒一郎も止まる。
「これならいいか?」
「先に言いなさいよ」
朱莉はそう言って歩き出したが、口元にはわずかに笑みが残っていた。
宴席へ入ると、今度は朱莉だけではなく恒一郎へ向けられる視線も増えた。
商家の主人らしい男。
羽織姿の役人。
見覚えのない大店の者たち。
誰も露骨には見てこないが、こちらの様子を窺っているのは分かる。
「人気者ね」
朱莉が小声で言った。
「この前は女ばかりだったんだがな」
「今日は男に大人気ね」
「嬉しくないな」
「贅沢」
二人が案内された席につく。
しばらくすると、宴席の奥で人の流れが変わった。
座っていた者が腰を浮かせ、何人かが自分から挨拶に向かう。
その中心に、一人の男がいた。
五十を少し越えたほどだろうか。
上等な着物を着ているが、これ見よがしな派手さはない。
柔らかな笑みを浮かべ、近寄る者一人一人に言葉を返している。
笑っているのに、誰もその男の前では気を抜いていなかった。
「蔵前屋宗兵衛よ」
朱莉の声が低くなる。
宗兵衛の視線がこちらを向いた。
笑みが少し深くなる。
やがて人の間を抜け、まっすぐ恒一郎たちの席へ歩いてきた。
「これはこれは。朱莉殿」
「お久しぶりです、蔵前屋様」
朱莉が仕事の顔で微笑む。
宗兵衛も穏やかに笑った。
「相変わらずお美しい。こうして宴に来てくださっただけでも、今夜は良い席になりました」
「それはどうも」
宗兵衛の目が恒一郎へ移る。
「そして――志堂恒一郎様ですな」
「俺のことを知ってるのか」
「もちろん。最近はずいぶん噂になっておりますから」
「どんな噂だ?」
「朱莉殿がお気に召した男がいる、と」
恒一郎は朱莉を見る。
「そっちの噂か」
「他にもあるの?」
朱莉が涼しい顔で聞く。
宗兵衛が笑った。
「いやいや。なかなか興味深い方だと聞いております」
その笑みのまま、宗兵衛は恒一郎を見る。
「先日は、ずいぶん夜遅くまで町を歩いておられたとか」
朱莉の目がわずかに細くなった。
恒一郎は表情を変えない。
「この町は見るものが多いからな」
「なるほど。好奇心がお強い」
「目につくものが多くて困る」
一瞬だけ、宗兵衛の笑みが深くなった。
「それは時に、厄介なことでしょうな」
「そうでもない」
「ほう?」
「見えた方が楽なことも多い」
二人の間に短い沈黙が落ちた。
周囲では三味線が鳴り、酒を勧める声が飛び交っている。
宗兵衛が先に笑った。
「面白い方ですな」
「よく言われる」
「朱莉殿が気に掛けるのも分かる気がいたします」
朱莉の眉がわずかに動いた。
「さて、どうでしょう」
宗兵衛は悪びれずに笑い、朱莉へ向き直った。
「ただ、私は以前から思っているのですよ。朱莉殿ほどの方が、いつまでも客に呼ばれて席へ出る暮らしを続ける必要はない、と」
朱莉の目が細くなる。
「それはどういう意味でしょう?」
「そのままの意味です」
宗兵衛は穏やかに続ける。
「住まいも用意できます。着物も、使用人も、好きなだけ。店に迷惑が掛かるなら、その分も私が持ちましょう」
「前にもお断りしたはずです」
「ええ。ですから、条件が足りなかったのかと」
朱莉が宗兵衛を見る。
「私が欲しいかどうかは、聞かないのね」
宗兵衛は少し目を細めた。
「欲しいと思えるだけのものを用意すればよいのでしょう」
恒一郎が宗兵衛を見る。
「ずいぶん金があるんだな」
「幸い、困ったことはございません」
「金で買えないものはない?」
宗兵衛は笑った。
「そこまでは申しませんよ」
「でも、大抵は買える」
「世の中、金で解決できることは多いですからな」
「そうだな」
恒一郎はうなずく。
「だから、買えないものが分からないのか」
宗兵衛の笑みが、一瞬だけ消えた。
「……これは手厳しい」
「そうか?」
「若い方は、思い切ったことをおっしゃる」
「分からないことを分からないって言っただけだ」
朱莉が恒一郎を見る。
その横顔に、小さな笑みが戻っていた。
宗兵衛は二人を順に眺めた。
それから、ふっと笑う。
「なるほど。ぜひ、もう少しお話ししたくなりました」
「ここじゃ駄目なのか?」
「人の多い席では、落ち着きませんからな」
宗兵衛が宴席の奥へ目を向けた。
「別に部屋を用意しております。少しだけお付き合いいただけませんか」
朱莉の表情が変わる。
「恒一郎」
「大丈夫だ」
恒一郎は立ち上がった。
その時、給仕の男が宗兵衛へ近づき、小さく折った書付を差し出した。
宗兵衛はそれを受け取ると、懐から紙入れを取り出す。
紙入れが開いた。
恒一郎の視線が止まる。
内側の端に、見覚えのある黒い染みが付いていた。
蔵で見たものと、よく似ている。
「どうされました?」
宗兵衛が微笑んでいる。
恒一郎は視線を上げた。
「いや」
そして、宗兵衛が示した奥の廊下へ向く。
「話そう」
「ええ。では、ゆっくりお話ししましょう」
恒一郎は一歩踏み出した。
「ああ」
宗兵衛の後を追いながら、もう一度だけ紙入れへ目を向ける。
「俺も、そのつもりで来た」




