第15話 悪党の蔵ほど、よく開く
カタ。
戸の向こうで、もう一度音がした。
誰かがいる。
恒一郎が立ち上がった、その時。
表の戸の向こうから、足音が離れていった。
「逃げた」
「え?」
「裏から回る」
恒一郎はおかみさんへ目を向けた。
「裏口は?」
「あっちだよ」
「朱莉はここにいて」
「嫌。あなた一人で行かせる方が危ないもの」
「……分かった。俺より前には出るな」
「それ、命令?」
「お願い」
「なら聞く」
おかみさんが二人を睨む。
「いちゃつくなら後にしな」
「してない」
「してないわ」
「息ぴったりじゃないか」
二人とも黙った。
◇
恒一郎は店の灯りを落とした。
「女の子たちは奥に集めて。誰が来ても戸を開けないで」
「ああ」
おかみさんは迷わず動いた。
恒一郎と朱莉は裏口へ回る。
外へ出ると、夜の花街にはまだ明かりが残っていた。
遠くから三味線の音と、酔客の声が聞こえる。
だが、店の裏手は静かだ。
「いる?」
朱莉が声を落とす。
「まだ分からない」
「見えないの?」
「何でも見えるわけじゃないって、何回言えば覚える?」
「一応聞いただけ」
恒一郎は周囲を見る。
路地の角に、人影が一つ。
こちらを振り返った。
そして、走り出す。
「いた。右だ」
二人が動いた瞬間、男もさらに速度を上げた。
「待て!」
恒一郎が走る。
後ろから朱莉も続いた。
◇
男は速かった。
だが、恒一郎には、どこへ曲がったかが妙によく分かる。
倒れた桶。濡れた土についた足跡。壁についた手の跡。
「こっち」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんなの?」
「走りながら聞くな」
男が振り返る。
一瞬、顔が見えた。
「……あ」
「何?」
「昼の男じゃない」
「お梅のところに来た人?」
「違う」
「じゃあ誰?」
「知らない」
「役に立たないわね」
「それは仕方ないだろ」
男は大通りへ出ず、さらに細い道へ入った。
逃げ慣れている。
恒一郎はそう思った。
やがて、前方に大きな塀が見えた。
商家の裏手らしい。
男が小さな木戸を開け、中へ滑り込む。
恒一郎は足を止めた。
「入った」
朱莉が息を切らしながら追いつく。
「どこ?」
「あそこ」
高い塀には小さな木戸があるが、表札までは見えない。
「誰の屋敷?」
「分からない」
「花街の外れに、こんな大きな商家……」
朱莉が周囲を見回し、ふっと表情を変えた。
「ちょっと待って。ここ、見覚えある」
「来たことある?」
「表の方なら」
朱莉が低く言った。
「蔵前屋よ」
恒一郎が塀を見る。
「やっぱり?」
「やっぱりって何」
「そうかなとは思った」
「だったら先に言いなさい」
「断定できなかったから」
「本当に便利ね、その言葉」
◇
「どうする?」
朱莉が木戸を見る。
「帰る」
「え?」
「今は。逃げた男が蔵前屋に入った。それだけでも収穫だ」
「中に何があるか見たくない?」
「見たい」
恒一郎は、男が消えた木戸をもう一度見た。
逃げた男は、わざわざここへ戻ってきた。
何もない場所とは思えない。
「……少しだけ見るか」
「そうこなくちゃ」
「正面から入ったら絶対面倒だろ」
「正面から?」
朱莉が恒一郎を見る。
「それ以外を考えてる顔ね」
「そんな顔ある?」
「ある」
恒一郎は塀を見上げた。
高い。
ただ、木戸の横には荷を積み降ろしするためなのか、壁際に木箱が重ねてある。
「登れるな」
「私も行くわ」
「……だと思った。俺より前には出るな」
「分かった」
◇
二人は塀を越えた。
恒一郎が先に下り、朱莉の手を取る。
「降りられる?」
「子ども扱いしないで」
「じゃあ離す」
「待って」
「どっちだよ」
「こういう時くらい黙って支えなさい」
恒一郎は苦笑しながら、朱莉が音を立てないよう支えた。
そこは屋敷の裏庭だった。
母屋と使用人の建物、それに大きな蔵が二つ並んでいる。
「広いわね」
「金持ちなんだろ?」
「嫌になるくらいね」
人の気配はある。
だが、裏庭までは誰も来ていない。
「さっきの男は?」
「分からない」
恒一郎は地面を見る。
土の上にはいくつもの足跡が重なっている。
「見つけられる?」
「足跡が混ざってる」
「……そう」
朱莉の声から、いつもの余裕が少し消えていた。
恒一郎は横顔を見る。
「怖い?」
「少し」
「帰ってもいいぞ」
「嫌。ここは蔵前屋の場所よ。私には関係ないって言える場所じゃない」
恒一郎は何も言わなかった。
それを止めるのも、代わりに決めるのも違う気がした。
「分かった。一緒に行こう」
朱莉が少しだけ笑った。
◇
二人は大きい方の蔵へ近づいた。
太い錠前がぶら下がっている。
「閉まってるわね」
「そうだな」
恒一郎が錠前へ手をかける。
カチャ。
「……ん?」
「何?」
扉がわずかに動いた。
「開いてる」
「そんな不用心な蔵ある?」
「さっきの男、慌てて入ったからじゃないか?」
錠前は掛かっているように見えただけで、金具がきちんとはまっていなかった。
「運がいいわね」
「悪党の方が慌ててるだけだろ」
「それを運がいいって言うのよ」
恒一郎は周囲を確認する。
人の気配は近くにない。
「入るぞ」
「ええ」
扉をゆっくり開けた。
◇
中には米俵や布、木箱などが積まれていた。商家の蔵としては、どこもおかしく見えない。
「何もない?」
「待って」
恒一郎は目を凝らした。
積まれた荷や縄、木箱を順に見ていく。
その中で、一か所だけ妙に目につくものがあった。
奥の小さな棚。
何十枚もの紙が置かれている。
「朱莉、あれ」
二人で近づく。
紙は束になっていた。
どれも小さく、同じくらいの大きさだ。
「何の紙?」
「分からない」
恒一郎は一番上を見る。
名前。
女の名前。
その下にも。
名前。
名前。
名前。
朱莉の表情が変わった。
「これ……」
「たぶん」
恒一郎は触らずに見る。
紙の多くには、黒い染みが残っていた。
薄いもの。
濃いもの。
そして。
何枚かから、黒い糸が伸びている。
恒一郎は息を止めた。
「……見える」
「何が?」
「糸」
朱莉の顔が強張る。
「この紙から?」
「そう見える」
黒い糸は何本も、蔵の外へ伸びている。
それぞれ違う方向へ。
その中の一本が、花街――お梅のいる店の方角へ伸びていた。
「……あっち」
「何?」
「お梅の店の方だ」
朱莉が糸の先を見るように視線を向ける。
「じゃあ」
「たぶん。この中のどれかが、お梅につながってる」
「どれか?」
「一本ずつ、はっきり見分けられるわけじゃない。でも、紙と糸がつながってるように見える」
それ以上は、まだ分からない。
この紙が原因なのか。
何かを通す道なのか。
ただの印なのか。
何も確定していない。
だが、これまで身体から外へ伸びるだけだった黒い糸が、ここでは紙から外へ伸びている。
無関係とは思えなかった。
朱莉が棚を見渡す。
「こんなに……全部、娘の名前?」
「みたいだな」
その中には、糸が伸びていない紙もある。黒い染みがないものさえ混ざっていた。
「全部が同じじゃない?」
「そうみたいだ」
「何なの、これ」
「俺も知りたい」
その時。
朱莉が一枚の紙を見て、動きを止めた。
「……恒一郎」
声が違った。
恒一郎が視線を向ける。
朱莉の目の先に、一枚の紙がある。
そこに名前が書かれていた。
――朱莉。
恒一郎の表情が消えた。
「……お前、これ書いた?」
「書いてない」
即答だった。
「筆跡は?」
「私の字じゃない」
恒一郎は紙を見る。
黒い染みはない。
糸も伸びていない。
ただ、朱莉の名前だけがある。
「何で……」
朱莉が呟く。
「まだ分からない」
「そうね」
今までの紙と同じものなのか。それとも、これから何かをする相手の名を記しただけなのか。
判断する材料はなかった。
だが。
朱莉の名前が、蔵前屋の蔵にある。
それだけは事実だった。
◇
蔵の外で足音がした。
二人が振り返る。
一人ではない。
複数だ。
「誰か来る」
「分かってる」
恒一郎は棚を見る。
持っていくか。
残すか。
一瞬だけ迷った。
ここには、これまで探していたものがある。
だが、この束を持ち出せばすぐに気づかれる。
しかも、何が証拠になるのかさえまだ分からない。
恒一郎は棚の位置と、紙の並びを目に焼きつけた。
朱莉の名があった場所も。
「戻す」
朱莉が、自分の名前の紙を見る。
「これも?」
「ああ」
「……分かった」
紙を元通りにする。
扉の向こうから声が聞こえた。
「誰か入ったのか?」
「錠が開いてるぞ」
朱莉が恒一郎を見る。
「どうする?」
恒一郎は周囲を見回した。
窓は小さい。
裏口はない。
入口には人がいる。
逃げ道はなさそうだ。
恒一郎は少し笑った。
「何笑ってるの?」
「こういうの、昔なら最悪だったなって」
「今は?」
「今もそこそこ最悪」
「でしょうね」
外から扉が開く音。
恒一郎は朱莉の前へ出た。
「下がってて」
「それ、命令?」
「今回はお願いじゃない」
朱莉が一瞬だけ恒一郎を見た。
「……分かった」
扉が開く。
男が三人。
手には棒。
その後ろに、見覚えのある男がいた。
昼。
お梅を訪ねてきた男。
男の顔が恒一郎を見た瞬間、歪む。
「……お前」
恒一郎は笑った。
「どうも」
男が叫ぶ。
「捕まえろ!」
三人が動く。
恒一郎はゆっくり息を吐き、開いたままの錠前を横目で見た。
「悪党の蔵ほど、よく開くな」




