第14話 味方と敵くらい、見れば分かる
その日の夕方。
お梅の店では、いつもより早く戸を閉めることになった。
表向きは、お梅の具合が悪いから。
本当の理由は違う。
あの男が、もう一度来るかもしれない。
おかみさんは店の女たちを集めると、短く言った。
「知らない男が来ても、一人で話すんじゃないよ。金も受け取らない。何か書けと言われても書かない。いいね」
「はい」
不安そうな返事が重なる。
「それと、しばらく一人で外へ出るのもなしだ」
「おかみさん、それじゃ仕事が」
「命と仕事、どっちが大事だい」
「……命です」
「なら決まり」
強い。
恒一郎は少し感心した。
「何だい」
視線に気づいたおかみさんが睨む。
「いや。頼もしいなと思って」
「今さらかい」
「昨日会ったばかりだから」
「そればっかりだね、あんた」
横で朱莉が笑った。
◇
「それで、どうするの?」
店の奥。
朱莉、おかみさん、恒一郎の三人で覚え書きを囲んだ。
「待つ」
恒一郎が答える。
「待つ?」
「向こうから来るなら、その方が早い。お梅を訪ねてきた男が、また来る可能性がある」
「来なかったら?」
「他を当たる」
「随分のんびりしてるのね」
「闇雲に走るよりいいだろ」
恒一郎は覚え書きへ目を落とした。
お梅。
お菊。
お絹。
それ以外にも、金を受け取った娘がいる。
調べたいことはいくらでもある。
だが、相手もこちらの動きを知った可能性がある。
お梅を連れ出そうとした男は、おかみさんに追い返された。
そのまま何も考えず、もう一度やって来るだろうか。
「それより」
朱莉が言った。
「あの紙の黒い跡。蔵前屋の使いが落としたものにも、似たのがあったのよね」
「ああ」
「なら、蔵前屋に直接聞けば?」
「聞いて答えると思う?」
「思わない」
「だろ」
「でも、反応は見られる」
恒一郎が朱莉を見る。
「なるほど」
「何よ、その顔」
「俺より大胆だなって」
「あなたに言われたくない」
おかみさんが呆れたように二人を見る。
「蔵前屋へ乗り込むのはやめな」
「まだ行かないよ」
「まだ?」
「恒一郎」
「言葉の綾」
「本当かい?」
「たぶん」
「余計に信用できないね」
◇
その時だった。
表から、戸を叩く音がした。
三人の視線が向く。
「誰だい?」
おかみさんが声を張る。
「榊だ」
朱莉と恒一郎が顔を見合わせた。
「また役人?」
「早いな」
おかみさんが戸を開ける。
立っていたのは、昼間の役人――榊だった。
ただし、今回は一人ではない。
後ろに、別の男がいた。
五十前後。
榊より上等な着物。
腰には刀。
ふっくらした顔に、柔らかな笑みを浮かべている。
「こちらが志堂恒一郎殿ですか」
男が言った。
「そうですけど」
「私は役所勤めの杉浦と申します」
榊が横で何とも言えない顔をしていた。
恒一郎はそれを見る。
嫌そうだ。
少なくとも、喜んで連れてきたようには見えない。
「今日は何の用です?」
「先ほど、妙な話を耳にしましてね」
「妙な話?」
「花街の娘が、誰かに連れ去られているとか」
朱莉の表情が変わる。
榊は黙ったままだった。
「誰から聞きました?」
恒一郎が尋ねる。
「役所には色々と話が入ってきます」
「便利ですね」
「お役目柄です」
杉浦は穏やかに笑う。
「それで、少し事情を聞かせていただければと思いまして」
「事情?」
「消えた娘についてです」
「探してくれるんですか?」
「もちろん」
間髪入れずに答えた。
杉浦は懐から一枚の紙を取り出す。
「まずは、分かっている娘の名を」
役所で使う覚え書きだろうか。
その紙の端。
恒一郎の目に、薄い黒い染みが映った。
これまで見たものほど濃くはない。
だが、よく似ている。
「……」
「どうしました?」
「いや」
恒一郎は杉浦の顔を見る。
笑っている。
穏やかに。
親切そうに。
「ぜひ協力したいんですよ」
「そうですか」
「ですから、皆さんが何を調べ、何を知っているのか。最初から話していただけますかな」
恒一郎は一度、榊を見る。
ちょうど目が合った。
一瞬だけ。
榊の表情が僅かに固くなる。
答えを促しているようには見えなかった。
「……なるほど」
恒一郎が言う。
「何か?」
「いえ。役人って親切なんだなと思って」
朱莉が横から恒一郎を見る。
声だけは普通だが、目が変わった。
気づいたらしい。
「それで?」
杉浦が促す。
「どの娘が金を受け取ったとか、何か妙なものを見たとか。全部話していただきたい」
「全部?」
「ええ」
「どうして?」
「探すためですよ」
「何を?」
杉浦の笑顔が僅かに止まる。
「……娘たちを、です」
「そうでした」
「志堂殿」
「はい」
「あなたは、少々疑り深いようだ」
「よく言われます」
杉浦の笑顔が薄くなる。
「遊んでいる場合ではないのですが」
「すみません」
恒一郎は謝った。
だが、何も話すつもりはなかった。
「消えた娘については、俺たちもまだ分からないことばかりです」
「分かっている範囲で構いません」
「それなら、役所が調べたことを先に教えてもらえます?」
「何?」
「消えた娘は何人いるのか。最後に誰と会ったのか。役所でどこまで調べたのか」
杉浦の眉が僅かに動く。
「こちらが聞いているのですよ」
「情報交換じゃないんですか?」
「……」
「俺たちだけ全部喋れってことなら、それは協力じゃないでしょう」
朱莉が口元を隠す。
「恒一郎」
「何?」
「口が悪いわよ」
「丁寧に言ったつもりなんだけど」
「内容の問題よ」
杉浦が恒一郎を見つめる。
さっきまでの柔らかな空気は薄れていた。
「余計なことに首を突っ込むと、ろくなことになりませんよ」
「昼にも聞きました」
榊が僅かに顔をしかめる。
「ほう」
杉浦が横を見る。
「榊。もう話したのか」
「忠告だけです」
「そうか」
それだけ。
だが、榊の肩が僅かに固くなったのを恒一郎は見逃さなかった。
「では、改めて言っておきましょう」
杉浦が恒一郎へ向き直る。
「花街で娘がいなくなることなど、珍しくありません」
「そうですか」
「借金から逃げる者。男と逃げる者。故郷へ帰る者。それぞれです」
「熱を出したあとでも?」
一瞬。
杉浦が黙った。
「それが何か?」
「いえ」
少なくとも。
何も知らない人間の反応には見えなかった。
「杉浦さん」
「何です?」
「その紙、見せてもらえます?」
空気が止まった。
杉浦の指が、紙の端を握る。
「……何のために?」
「気になるものが見えたから」
「気になるもの?」
「黒い跡」
杉浦の目が細くなる。
朱莉も黙った。
「役所の書付を改めるおつもりで?」
「嫌ならいいです」
「何?」
「見せたくないなら、それも一つの判断材料になる」
杉浦の笑顔が完全に消えた。
「志堂殿」
「はい」
「身の程という言葉をご存じですかな」
「一応」
「なら」
「そういう言葉は、昔から嫌というほど聞いた」
「……」
「だから、あんまり好きじゃない」
杉浦はしばらく恒一郎を見ていた。
やがて、紙を懐へ戻す。
「帰るぞ、榊」
「はい」
踵を返す。
恒一郎は追わなかった。
あの黒い跡が何なのか。
杉浦が何を知っているのか。
まだ、何も証明できない。
ただ。
昼よりはっきりしたことがある。
「榊」
杉浦が先に外へ出る。
榊も続こうとした。
「ちょっと」
恒一郎が呼び止める。
「何だ」
「昼の忠告」
榊は振り返らない。
「何の話だ」
「聞いておけばよかったかも」
「……今さら遅い」
「だよな」
榊は小さく息を吐いた。
「志堂」
「何?」
「今夜は外へ出るな」
「どうして?」
榊は答えなかった。
そのまま杉浦のあとを追っていった。
◇
戸が閉まる。
しばらく、誰も喋らなかった。
最初に口を開いたのは朱莉だった。
「ねえ」
「何?」
「あの杉浦って人」
「うん」
「黒いの、あったの?」
「あった」
朱莉の顔が強張る。
「蔵前屋の使いと同じ?」
「似てる」
「また『似てる』?」
「同じだって断言できないから」
「もう慣れたわ」
おかみさんが腕を組む。
「で、榊は?」
「何が?」
「あいつは敵なのかい」
恒一郎は少し考える。
昼に忠告した。
杉浦の前で、こちらに話を促すこともなかった。
そして。
今夜は外へ出るな。
「味方かどうかは分からない」
「またそれ?」
朱莉が言う。
「でも、少なくとも俺たちを杉浦に売りに来たわけじゃない」
「じゃあ杉浦は?」
「かなり怪しい」
「そこも?」
「今度は相当強めの『かなり』」
「段階が増えてるじゃない」
おかみさんが呆れた。
「結局、誰が味方で誰が敵なんだい」
恒一郎は少し笑った。
「全部は分からないよ」
人間の心の中まで、何でも見えるわけじゃない。
それでも。
何を言ったか。
何を隠したか。
誰の前で黙ったか。
そういうものは、見ていれば分かる。
「まあ」
恒一郎は言った。
「味方か敵かなんて、言葉より見てた方が分かるだろ」
「それ、あなたが言うと別の意味に聞こえるわ」
「そう?」
「ええ」
朱莉が呆れたように笑った。
その時。
ふと、恒一郎の頭に杉浦の最初の言葉が蘇った。
――花街の娘が、誰かに連れ去られているとか。
連れ去られている。
杉浦は、そう言った。
恒一郎たちが役所へ訴えたわけでもない。
この店で話していたのも、娘たちが「消えた」ということまでだ。
なのに。
どうして杉浦は、最初から誰かが関わっていると知っていた?
それだけで、杉浦が何か知っているとは言い切れない。
でも、覚えておく価値はある。
その時。
表の戸の向こうから、小さな音がした。
カタ。
三人が黙る。
もう一度。
カタ。
誰かが戸に触れた音。
「……恒一郎」
朱莉が声を落とす。
「うん」
榊の言葉が蘇る。
――今夜は外へ出るな。
どうやら、忠告には理由があったらしい。
恒一郎は立ち上がった。
「朱莉」
「何?」
「どうやら今夜は、寝かせてもらえないらしい」




