第13話 その鎖ごと、壊してやる
少しずつ、つながってきた。
金。名前。黒い跡。病。失踪。
そして、蔵前屋。
恒一郎は、お梅の身体から伸びる黒い糸を見つめていた。
「恒一郎」
朱莉に呼ばれる。
「何?」
「考え込むのはいいけど、お梅を怖がらせないで」
見ると、お梅が不安そうにこちらを見ていた。
「ああ。悪い」
恒一郎は表情を緩めた。
「もう聞かないから、休んで。何か思い出したら、朱莉かおかみさんに言ってくれ」
「……はい」
お梅が小さく頷く。
千代がすぐそばへ寄った。
「お梅ちゃん、寝よ」
「うん……」
朱莉と恒一郎は部屋を出た。
◇
「それで?」
廊下を歩きながら、朱莉が聞く。
「何が?」
「さっきから難しい顔してたでしょう」
「難しい顔なんてしてた?」
「してた」
「悪いこと企んでる顔じゃなくて?」
「今日はそっちじゃない」
「使い分けがあるのか」
「あるわよ」
朱莉が少し笑ったが、すぐに真顔へ戻った。
「名前が関係してると思う?」
「分からない。でも、調べる価値はある」
お菊。お春。消えたお絹。
それから、他にも話を聞ける娘はいる。
確認することは増えた。
「まず、お菊とお春に聞こう」
「ええ」
「名前を書いたかどうか」
「もし二人で違ったら?」
「また考える」
「二人とも書いてたら?」
「もっと気になる」
「慎重なのか大胆なのか分からないわね」
「俺にも分からん」
階段を下りる途中で、朱莉がふと足を止めた。
「どうした?」
「……別に」
「別にって顔じゃないけど」
「また見るの?」
「見えるものはな」
「本当に厄介な人」
朱莉はそう言ったが、怒ってはいなかった。
◇
お菊の店へ戻ると、彼女はまだ横になっていた。
「また来たんですか?」
「悪い」
「別に嫌じゃありませんけど」
お菊が恒一郎を見る。
「朱莉姐さん、この人、ずっとこんな感じなんですか?」
「昨日会ったばかりだから知らないわ」
「そうでした」
「そこ、忘れるところか?」
少し笑いが起きる。それだけでも、昨日よりお菊の顔色がよく見えた。
「一つだけ、聞き忘れたことがあるの」
朱莉が言う。
「お金をもらった時、何か書かなかった?」
お菊が目を瞬く。
「書きました」
朱莉と恒一郎が顔を見合わせる。
「何を?」
「名前です」
「自分の?」
「はい」
恒一郎の目が細くなる。
「どうして?」
「受け取った印が必要だからって」
お梅と同じだ。
「その紙は?」
「男の人が持っていきました」
これも同じ。
朱莉の表情が強張る。
「お菊。その男、お金以外に何かくれなかった?」
「いいえ」
「名前を書いた以外に、何か言われた?」
「あとで頼み事をするかもしれないって」
これも同じだった。
恒一郎は黒い糸を見る。細く、胸元から身体の外へ続いている。
「……恒一郎?」
「うん」
「同じ?」
「かなり」
だが、まだ二人だ。
もう一人、確認したい。
◇
お春の店へ行くと、運よく本人はまだいた。
「またですか?」
少し怯えたような顔をしている。無理もない。
「ごめんなさい」
朱莉が先に謝った。
「これだけ聞いたら、今日はもう何も聞かないから」
「……はい」
「お金を受け取った時、名前を書いた?」
お春は首を傾げた。
「いいえ」
二人とも一瞬、黙った。
「書いてない?」
「はい」
「紙とか出されなかった?」
「何も」
恒一郎は、お春を見る。
黒い糸はない。
今も何も見えない。
「なるほど」
朱莉が恒一郎を見る。
「やっぱり?」
「まだ」
「まだなの?」
「お春は昨日、金を受け取ったばかりだ」
「時間の違いかもしれない?」
「ああ。それもある」
名前を書いたかどうか。
時間が経ったかどうか。
他に何かあるのか。
まだ決められない。
「ただ、比べる価値はかなり上がった」
「その言い方、好きね」
「便利だからな」
お春が不安そうに恒一郎を見る。
「私、大丈夫なんでしょうか」
恒一郎は少し考えた。
「今のところ、俺には変なものは見えない」
「じゃあ……」
「でも、もしあの男がまた来たら、何か書けって言われても書かないで」
お春が息を呑む。
「分かりました」
「それと、一人でついていかない」
「はい」
朱莉が横から言う。
「必ず誰かに知らせて」
「はい」
今度は力強く頷いた。
◇
店を出たあと、朱莉はしばらく黙っていた。
「どうした?」
「……名前」
「うん」
「お梅も、お菊も書いた。お春は書いてない」
「ああ」
「それで、お春には黒い糸がない」
「今のところは」
朱莉が恒一郎を見る。
「かなり怪しいじゃない」
「かなりな」
「でも断定はしない」
「しない」
「頑固」
「褒めてる?」
「今日は褒めてない」
「今日は?」
「そこ拾わなくていい」
朱莉が少しだけ笑った。
「ねえ。名前って、そんなに大事なものなのかしら」
「この世界では?」
「私に聞いてる?」
「俺より知ってるだろ」
「普通は、名前を書いたくらいで熱なんか出さないわよ」
「だよな」
それ以上は分からない。
ただ、本人の名前を自分で書き、男がその紙を持ち帰っている。
そこに何かがある。
「……本人が書くことに意味があるのかもな」
朱莉が振り返る。
「どうしてそう思うの?」
「名前だけ欲しいなら、本人に書かせる必要はないだろ。わざわざ書かせるってことは、本人が書くこと自体に意味がある可能性はある」
「なるほど」
「可能性だけど」
「もう分かってるわよ」
朱莉が笑う。
「何?」
「最後に必ず逃げ道を作るでしょう」
「断定しないだけだ」
「はいはい」
◇
昼過ぎ。
二人は、お絹がいた店へ向かった。
おかみさんから話を聞いていた娘は、店の裏で待っていた。
名は小鈴。恒一郎には二十歳くらいに見えた。
「朱莉姐さん」
「ごめんなさいね」
「いえ」
小鈴は少し緊張していた。
「お絹のことで聞きたいの」
「……はい」
「男から金をもらってるところ、見たんだって?」
「見ました」
「どんな男?」
「知らない人です」
「何を話してた?」
「そこまでは」
「紙に何か書いてた?」
小鈴が頷く。
「はい」
「何を書いてたか分かる?」
「遠かったから……」
小鈴が少し考える。
「でも、あとでお絹に聞きました」
恒一郎と朱莉が顔を上げる。
「何て?」
「『何書いてたの?』って」
「答えは?」
「名前だって」
朱莉の表情が変わった。
お梅。お菊。お絹。
三人とも、金を受け取り、自分の名前を書いている。
お梅とお菊には黒い糸。
そして、お絹は消えた。
「そのあと、お絹は?」
恒一郎が聞く。
「三日くらいして、熱を出しました」
「どれくらい?」
「一日寝て、次の日には少し良くなったんです」
「それから?」
小鈴の表情が曇る。
「二日後に、いなくなりました」
「荷物は?」
「ほとんど残ってました」
「誰か、出ていくところを見てない?」
小鈴は少し迷った。
「……一人、見た子がいます」
「お絹を?」
「夜明け前に」
朱莉が身を乗り出す。
「一人で?」
「いいえ」
「誰と?」
「男の人と」
恒一郎の目が細くなる。
「無理やり連れていかれた?」
「それが……違うんです」
「違う?」
「お絹、自分で歩いてたって」
朱莉が黙る。
「普通だったの?」
「そこまでは。でも、呼び止めたのに返事もしなかったそうです」
「返事をしなかった?」
「はい。その男について、そのまま……」
部屋に沈黙が落ちる。
「その男、前にも来てた?」
「前の日に、お絹を訪ねてきました」
「金を渡した男?」
「分かりません。でも、『頼み事の話だ』って」
恒一郎と朱莉の目が合う。
「お絹は会った?」
「はい」
「そのあと、変わった様子は?」
「普通に戻ってきました」
「何を頼まれたかは?」
「何も言いませんでした」
小鈴が俯く。
「それで次の朝には……男について出ていったんです」
「本人が出ていくって言ってた?」
「いいえ」
「荷物も置いたまま?」
「ほとんど」
朱莉の声が低くなる。
「それで、店では?」
「逃げたんじゃないかって言う人もいました。男と一緒だったから、駆け落ちじゃないかって」
恒一郎は眉を寄せる。
本人が歩いている。男と一緒にいる。
それだけ見れば、確かにそう見える。
だが、熱を出したばかりの娘が、荷物を残し、誰にも言わず、呼ばれても返事をせずに夜明け前の町を男についていく。
普通とは思えなかった。
「ありがとう」
朱莉が言った。
「もう十分よ」
小鈴が不安そうに顔を上げる。
「朱莉姐さん」
「何?」
「お絹、戻ってきますか?」
朱莉はすぐには答えなかった。
「……探すわ」
それだけ言った。
小鈴は小さく頷いた。
◇
店を離れてからも、二人はしばらく何も言わなかった。
最初に口を開いたのは朱莉だった。
「恒一郎」
「うん」
「どう思う?」
「かなり悪い」
「それだけ?」
「金を渡す。本人に名前を書かせる。何日かして倒れる。一度は少し良くなる。そのあと、男が来る」
恒一郎はそこで言葉を切った。
「そして、自分でついていく」
朱莉の顔が強張る。
「自分でって……」
「少なくとも、見た目は」
呼び止められても答えない。荷物も残している。
それを本人の意思と言っていいのか。
「お梅は、まだ男が来る前に倒れた」
「ああ」
「お菊も同じくらいかもしれない」
「だったら、次に男が来る?」
「可能性はある」
「いつ?」
「分からない」
「今日かもしれない?」
「ある」
朱莉が踵を返そうとする。
恒一郎が腕を掴んだ。
「待て」
「戻るわ」
「分かってる」
「なら離して」
「一人で行くな」
朱莉が恒一郎を見る。
「どうして?」
「相手が何人いるかも、何をするかも分かってない」
「でも、お梅が」
「だから俺も行く」
一瞬、朱莉が黙った。
「……あなた。背負うって決めてないんじゃなかった?」
恒一郎も少し黙る。
「今は」
「今は?」
お梅。お菊。お絹。小鈴の顔。
そして、朱莉。
恒一郎は考えてから答えた。
「放っておく方が、気分悪い」
「それ、答えになってる?」
「俺の中では」
朱莉は少しだけ笑った。
「本当に変な人」
「知ってる」
二人は急いで店へ戻った。
◇
店の前まで来た時、中が騒がしいことに気づいた。
「何?」
朱莉が走る。恒一郎も続く。
店の中では女たちが集まり、千代が泣きそうな顔で立っていた。
「朱莉姐さん!」
「何があったの?」
「お梅ちゃんのところに、男の人が来たんです!」
朱莉の顔が強張る。
「どこ?」
「もう帰りました。おかみさんが追い返して……」
「何て言ってたの?」
「お梅ちゃんに用があるって。『前に話してた頼み事の件だ』って」
朱莉と恒一郎が顔を見合わせた。
同じだ。
お絹の時と。
「お梅には会わせてない?」
「はい。おかみさんが駄目だって」
「男は?」
「怒ってました。でも、帰る時に……」
千代が床を指した。
「これを落としていきました」
小さな紙片。
恒一郎が拾おうとする。
「待って」
朱莉が言った。
「大丈夫なの?」
恒一郎の手が止まる。
「……そうだな」
「何?」
「昨日の俺なら、そのまま拾ってた」
「少しは学んだのね」
「誰かのおかげで」
「誰かしら」
恒一郎は近くにあった布を使い、紙片に直接触れないようにつまみ上げた。
「これなら?」
「最初からそうしなさいよ」
「はい」
紙片には文字がない。大きな紙の端がちぎれたようなものだった。
そして、そこに黒い染みがある。
「……ある」
「やっぱり?」
「ああ」
お菊の金を包んでいた紙。
蔵前屋の使いが落とした紙片。
お春の包み紙。
そして、今度の男。
同じものかどうかは分からない。
だが、似た黒い跡がまた出た。
「その男」
恒一郎が千代を見る。
「顔、覚えてる?」
「はい」
「お春に金を渡した男と同じかは?」
「私、その人は見てません」
「そうか」
朱莉が低く言う。
「でも、偶然じゃないわよね」
「かなり怪しい」
「またそれ?」
「今度はかなり強めの『かなり』」
「違いが分からないわ」
だが、朱莉は笑わなかった。
「お梅は?」
「中にいます」
二人は急いで部屋へ入った。
お梅は眠っていた。何もされていない。
恒一郎は少しだけ息を吐き、黒い糸を見る。
まだ、そこにある。
細く身体の奥から外へ伸び、どこかへ続いている。
恒一郎には、その先が見えない。
今拾った紙片とつながっているわけでもない。さっきの男とつながっているのかも分からない。
何なのか。
どうやって消せるのか。
まだ何一つ分かっていない。
「次は、お梅だったのね」
朱莉が言った。
「ああ」
「もし、おかみさんが会わせてたら」
「男について出ていったかもしれない」
朱莉の手が強く握られる。
「本人の意思で?」
恒一郎は、すぐには答えなかった。
「……分からない」
「でも、お絹は自分で歩いてた」
「ああ」
「なら」
「自分の足で歩いたからって、自分で選んだとは限らないだろ」
朱莉が恒一郎を見る。
その言葉を口にした瞬間、恒一郎自身も何かが引っかかった。
お梅から伸びる、細い黒い糸。
本人には見えない。
本人が望んだものでもない。
誰かが弱みにつけ込み、金を差し出し、名前を書かせる。
そのあとで何が起きているのかは、まだ分からない。
それでも最後には、本人がついていったように見える。
恒一郎は、ふと朱莉を見た。
蔵前屋から贈られたもの。
積まれた金。
何不自由なく暮らさせてやるという言葉。
本人が望んでもいないのに、相手のためだと言いながら少しずつ選べる道を塞いでいく。
形は違う。
だが、やっていることはよく似ていた。
「恒一郎?」
朱莉がこちらを見る。
「何?」
「怖い顔してるわよ」
「そう?」
「今度は本当に」
恒一郎は、もう一度黒い糸を見る。
誰が結んだのか。何のためなのか。
どう壊せばいいのかも、まだ分からない。
だから、まずは突き止める。
本人が自分で選んだように見せながら、実際には選べる道そのものを奪っている奴がいるなら。
それは、ひどく気に入らない。
「これが何なのか、ちゃんと分かったら」
朱莉が眉を上げる。
「分かったら?」
恒一郎は目を細めた。
「その時は――」
黒い糸。
蔵前屋。
金。
本人の意思を無視して、人を縛るもの。
「その鎖ごと、壊してやる」




