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第2話 黒瀬零は普通でいたい

「今回の任務、特務課は全滅するかもしれない」


異能犯罪対策局本部、地下。


黎明会強襲作戦開始まで、あと三十分。


零(ゼロ)は、コンクリートに囲まれた無機質な部屋で、その言葉を聞いた。


声の主は、会議室の奥に座る小さな少女だった。


白い髪。

色素の薄い瞳。

人形のように整った顔。


見た目だけなら、十歳にも満たない。


だが、その少女の周囲には、零(ゼロ)でも倒すのに難儀しそうな無数の影が控えていた。


壁際。

天井付近。

床下。

空間の隙間。


目には見えない。


だが、そこにいる。


護衛と呼ぶには、あまりにも過剰な戦力。


この国において、彼女はそれほどの重要人物だった。


異能発現以降の四十年間。


日本は何度も滅亡の危機を迎えてきた。


異能犯罪者の暴走。

都市単位の占拠。

異能テロ。

政府機能の停止。


そのたびに、日本は紙一重で滅亡を免れてきた。


その中心にいたのが、彼女だった。


彼女の功績を知る者たちは、太古の日本を導いたとされる巫女王の名を借り、こう呼ぶ。


異能犯罪対策局局長。


二代目卑弥呼。


名前も、年齢も、経歴も非公開。


その存在そのものが、国家機密だった。


「死ぬ、ですか」


零(ゼロ)は静かに聞いた。


「うん。君が出なければ、確実にね」


局長は、机の上に置かれた作戦資料を細い指で押さえた。


「僕の超越神託(オラクル)が、そう告げてる」


超越神託(オラクル)。


局長の異能。


対象に危機が降りかかる時、その危機と前後の未来を覗き見る力。


いつ。

どこで。

誰が。

どのように。


すべてが分かるわけではない。


だが、危機の輪郭と、そこから枝分かれする未来の大まかな結末は見える。


「市が落ちる。大伍が抜かれる。仁菜は行く手を阻まれる。弥次の目も役に立たない。志乃は動けず、睦美も止まる」


「全員ですね」


「全員だね」


局長は笑わなかった。


「そして、君が出た未来でも、危険を完全には払拭できないらしい」


零(ゼロ)は、そこで初めて目を細めた。


「私が出ても?」


「そう」


局長は言った。


「だから呼んだ」


「矛盾していますね」


「承知の上だよ。君が出なければ、六人は死ぬ。君が出ても、全員が助かるとは限らない」


「最悪ですね」


「まったくだよ」


局長は、作戦資料から指を離した。


「それでも行くんだろう?」


「はい」


返答に迷いはなかった。


局長は小さく息を吐いた。


彼は本来、前線に出る存在ではない。


公式記録上、特務課(ナンバーズ)は六人。


市(ファースト)。

仁菜(セカンド)。

弥次(サード)。

志乃(フォース)。

大伍(フィフス)。

睦美(シックス)。


零(ゼロ)の名は、どこにもない。


異能犯罪対策局が隠し続けてきた、最後の切り札。


本当に必要な時だけ、戦場に投入される存在。


それが、零(ゼロ)だった。


「局長」


「なんだい」


「今回の任務が終わったら、私は隊を離れます」


局長の薄い瞳が、零(ゼロ)を見る。


「理由は」


「心臓が持ちません」


零(ゼロ)は静かに言った。


「最近、出力を上げた時の負荷が大きくなっています。今回の任務で全力を使えば、以前のようには戦えなくなる可能性が高い」


「それでも、指揮はできるだろう」


「否定はしません」


零(ゼロ)は苦笑する。


「ですが、私が残れば、特務課(ナンバーズ)は今後、私を守りながら戦わなければならない」


局長は黙っていた。


「特務課(ナンバーズ)の強さは、異能だけではありません」


零(ゼロ)は続ける。


「家族も、友人も、恋人も、私たちには存在しない。ただ自分と仲間の命だけを繋げればいい。他に失うものが何もない」


局長の目が、わずかに細くなる。


「デザイナーズベイビーか」


「ええ」


零(ゼロ)は頷いた。


「強力な異能を生み出すためだけに人工授精によって生まれ、親の愛も、友人との交流もなく、ただ異能の研鑽だけを続けてきました」


「日本が無法地帯と化していた頃に行われた非人道的実験の産物か」


局長の声に、静かな怒りが混じった。


「本当に、反吐が出るな」


「僕らにとっては、それが当たり前ですから」


零(ゼロ)の声に、感情はほとんどなかった。


「特務課は、お互いがお互いを補完し合い、大きな一個体として動いているからこそ強い。だからこそ、私が弱点になるわけにはいきません」


局長は細く息を吐いた。


「最強と呼ばれた者が、翻って部隊の唯一の弱点になる。それが嫌か」


「はい」


即答だった。


「それに、彼らはもう、私がいなくても十分に最強の部隊です」


局長はしばらく零(ゼロ)を見ていた。


その顔に、子供らしさはなかった。


「もしそうなったら、彼らにはなんて言う」


「何も」


零(ゼロ)は答えた。


「戦火に焼かれ、殉職したとでも言っておけばいいでしょう」


局長は机の引き出しを開けた。


中から取り出したのは、黒縁の眼鏡だった。


何の変哲もない、地味な眼鏡。


「持っていって」


「これは?」


「認識阻害の眼鏡だよ」


零(ゼロ)は眼鏡を受け取った。


軽い。


だが、ただの眼鏡ではない。


指先に触れた瞬間、薄い膜のような異能の気配があった。


「高位の創造系能力者と、呪術系能力者に作らせた。技術と呪式の合わせ技だよ」


「ずいぶん大がかりですね」


「君の存在を隠すなら、それくらいはいる」


局長は言った。


「顔を覚えにくくする。印象を薄くする。人の記憶の中で、君という存在をぼやけさせる。監視カメラにも検知されにくい」


「便利ですね」


「万能ではないよ。君をよく知る者が近づけば、簡単に気づかれる。強い関心を向ける者にも、いずれ破られるだろう」


「十分です」


零(ゼロ)は眼鏡を見下ろした。


黒縁。

目立たない形。

どこにでもあるような、普通の眼鏡。


「もし隊を離れたら、どうするつもりだい?」


局長が聞いた。


零(ゼロ)は少しだけ考えた。


「普通の学生に戻ります」


「学生?」


「はい」


「君が?」


「年齢だけなら、問題ないはずです」


「そういう話じゃない」


局長は呆れたように目を細める。


「学校に通いたかったのかい」


「ええ」


零(ゼロ)は静かに続ける。


「授業を受けて、昼休みに購買へ行って、放課後に寄り道をする。試験前に勉強して、体育で手を抜いて、誰にも注目されずに帰る」


「ずいぶん具体的だね」


「よく考えていましたので」


局長は、しばらく零(ゼロ)を見ていた。


「名前はどうするんだい?」


「名前?」


「普通の学生として生きるなら、名前が要るだろう。認識阻害されているとはいえ、零(ゼロ)のままでは不便だ」


零(ゼロ)は少し考えた。


「……では、零(れい)で」


「コードネームそのままじゃないか」


「違います」


零(ゼロ)は静かに言った。


「零(これ)は、皆が考えてくれた名前なので」


局長は、少しだけ目を細めた。


「睦美の案だったな」


「はい」


コードネームだけじゃ味気ない。


ある日、睦美(シックス)がそう言った。


国の法整備が進み、零(ゼロ)たちがようやく施設から解放され、国の公的機関である特務課(ナンバーズ)として活動を始めてすぐの頃だった。


彼らの呼称は、無機質な番号だけだった。


ファースト。

セカンド。

サード。

フォース。

フィフス。

シックス。


そして、ゼロ。


睦美はそれを嫌がった。


皆にも、ちゃんと名前があった方がいい。


そこから、六人が勝手に盛り上がった。


市は静かに候補を出し。

仁菜は興味なさそうな顔で案を投げ。

弥次はふざけた名前ばかり挙げ。

志乃は真面目に悩み。

大伍は腕を組んで黙り込み。

睦美は楽しそうに笑っていた。


最後に残ったのが、零だった。


零。


もし、この作戦で部隊を抜けることになれば、今までのすべてを捨てて、普通の学生として生きなければならなくなるだろう。


けれど。


零(ゼロ)という名前だけは、捨てることができなかった。


「名字は?」


局長が聞く。


「特にこだわりはありません」


「なら、こちらで用意しよう。」


局長は一枚の書類を差し出した。


そこには、学生証用の仮登録情報が記されていた。


局長はペンにインクを湿らせると指名欄に文字を走らせた。


黒瀬零。


零(ゼロ)は、その名前をしばらく見つめた。


「悪くないですね」


「地味だろう?」


「はい」


零(ゼロ)は眼鏡をかけた。


世界が、わずかに変わった気がした。


部屋の中の人間の視線から、自分の輪郭が少しだけずれる。


そんな感覚があった。


「似合わないね」


「そうですか」


「うん。地味すぎる」


「なら、ちょうどいいですね」


零(ゼロ)は眼鏡を指で押し上げた。


局長は、椅子の上から彼を見上げる。


「特務課として帰ってくるんだよ、零(ゼロ)」


「努力します」


「命令だよ」


零(ゼロ)は、ほんの少しだけ笑った。


「はい。局長」


その返事だけは、いつもの隊長の声ではなかった。


少しだけ、普通の少年の声に聞こえた。


   ◇


数か月後。


「黒瀬、次の問題を読んでくれ」


教師の声に、黒瀬零は教科書から顔を上げた。


「はい」


東京第一異能高校。

二年三組。


窓際の席。


黒縁の眼鏡。

少し長めの前髪。

穏やかな表情。


黒瀬零は、クラスの中では目立つ生徒ではなかった。


かといって、暗く近寄りがたいわけでもない。


話しかければ普通に返す。

冗談には困ったように笑う。

頼まれたことは、無理のない範囲で手伝う。


困っている人がいれば、さりげなく手を貸す。


そんな、どこにでもいるような生徒だった。


成績は、まあいい方。


学年上位に大きく名前が載るほどではないが、試験前になると何人かにノートを見せてくれと頼まれる。


実技の評価は平均的。


異能も、反応速度を少し高めるだけの地味なもの。


教師から見れば、真面目で手のかからない生徒。

クラスメイトから見れば、話しやすくて感じのいいやつ。


それが、今の黒瀬零だった。


「異能の使用は、本人および第三者の生命、身体、財産に重大な危険を及ぼさない範囲に限り、個人の自由として認められる」


零が教科書を読み上げる。


教室のどこかで、誰かが小さく欠伸をした。


窓の外からは、グラウンドの掛け声が聞こえる。


退屈な授業。

眠そうな生徒。

チョークが黒板を叩く音。


零は、文章を読みながら少しだけ目を細めた。


あの日、黎明会はほぼ壊滅した。


世界から、巨悪の一つが消えた。


とはいえ、まだ世界のどこかで犯罪は起きている。

それを止める誰かもいる。


それでも確実に、世界はあの日、平和に大きく近づいた。


本当は。


特務課(ナンバーズ)の全員で、完全に平和になった世界でこういう日々を送りたかった。


そう思わなかったと言えば、嘘になる。


「そこまででいい」


「はい」


零は軽く頭を下げて、席に座った。


前の席の男子が振り返る。


「黒瀬、昨日の課題やった?」


「やったよ」


「あとで見せて」


「写すだけなら駄目」


「分かってるって。解き方だけ」


「じゃあ昼休みに」


「助かる」


だけど今の零には、この日常がかけがえのないものになっていた。


前の席の男子――東雲悠斗は、軽い調子で笑った。


入学してから、何かと零に話しかけてくるクラスメイトだった。


明るい。

距離が近い。

悪意がない。


零とは異なるタイプだった。


けれど、嫌ではなかった。


「そういえばさ」


東雲が声を潜める。


「白峰、また異能探偵局の仕事で昨日休んでたらしいぞ」


「そうなんだ」


零は教室の前方へ目を向けた。


白峰凛は、自分の席で次の授業の資料を読んでいた。


肩口で切り揃えられた黒髪。

整った姿勢。

まっすぐな目。


周囲が騒いでいても、ほとんど気にしていない。


「同じ高校生で政府組織のインターンって、すごいよな」


東雲が感心したように言う。


「うん。普通はできないと思う」


「しかも成績も学年トップクラスだろ。実技も強いし」


「すごい人だね」


「黒瀬も成績いい方じゃん」


「白峰さんと比べたら普通だよ」


「お前の普通、ちょっと基準高くない?」


零は困ったように笑った。


「そうかな」


「そうだよ」


東雲はそう言って、前へ向き直った。


零はもう一度だけ、白峰凛を見る。


白峰凛。


成績優秀。

実技も優秀。

異能も強力。


そして、すでに政府組織である異能探偵局にインターン生として所属している。


この学校の中でも、かなり有名な生徒だった。


零とは、違う意味で目立つ存在。


強く、優秀で、目的がある。


そういう人間に見えた。


「でもさ」


東雲がぽつりと言う。


「白峰って、なんかずっと急いでる感じするよな」


「急いでる?」


「うまく言えないけど。強くならなきゃいけない、みたいな」


零は答えなかった。


その感覚は、少しだけ分かる気がした。


目的がある。

理由がある。

止まれない。


そういう人間の目を、零は何度も見てきた。


「黒瀬?」


東雲に呼ばれて、零は視線を戻した。


「なに?」


「めっちゃ見てたぞ」


「珍しかったから」


「さては白峰みたいなタイプ好きだな?」


「違うよ」


「お、ちゃんと否定した」


「からかわないで」


零が苦笑すると、東雲は楽しそうに笑った。


こういう会話にも、少しずつ慣れてきた。


昼休み。


教室の空気は一気に緩んだ。


弁当を広げる者。

購買へ走る者。

机をくっつけて騒ぐ者。


零は席を立ち、財布をポケットに入れる。


購買へ行くつもりだった。


「黒瀬、購買?」


東雲が聞く。


「うん」


「俺も行く。今日メロンパンの日だし」


「そんな日あるんだ」


「購買の限定。知らないの人生損してる」


「大げさだね」


二人で教室を出る。


廊下には、同じように購買へ向かう生徒たちが流れていた。


騒がしい足音。

誰かの笑い声。

遠くから聞こえる教師の注意。


零はその中を、なるべく自然に歩く。


速すぎず。

遅すぎず。

人にぶつからず。

避けすぎず。


普通に歩く。


それだけのことに、少しだけ神経を使っていた。


「そういや黒瀬、異能って何系だっけ?」


東雲が何気なく聞いた。


「反応補助系」


「なにそれ」


「動体視力とか、判断速度が少し上がる」


「へえ。便利そうだけど、地味だな」


「うん。地味」


「黒瀬っぽい」


「それ褒めてる?」


「褒めてる褒めてる。地味にいいやつって意味」


「それはどうも」


零は笑った。


もちろん、偽装登録だった。


本来の異能名も、出力も、測定値も、すべて別物として処理されている。


黒瀬零という生徒は、どこにでもいる程度の異能しか持たない。


そういうことになっていた。


「白峰さんは?」


零が聞いた。


自分から聞くつもりはなかった。


だが、会話の流れとしては自然だった。


「白峰? たしか無効化系だったはず」


「無効化」


「触れた異能を消すとか、弱めるとか、そんな感じ。めちゃくちゃレアらしい」


零は一瞬だけ、視線を落とした。


異能無効。


相性としては、かなり悪い。


今の自分には、特に。


「すごいね」


「さっきから感想が全部それ」


「実際すごいから」


「まあな」


その時だった。


廊下の先が、少しざわついた。


白峰凛が、数人の生徒に囲まれていた。


絡まれているわけではない。


むしろ逆だった。


下級生らしき生徒が、手に持った資料を差し出している。


「白峰先輩、この前の実技記録、見てもらってもいいですか」


凛は資料に目を通す。


「ここ、異能出力に頼りすぎ。動き出しが遅い」


「え?」


「能力を使う前に、まず足を動かして。あなたの異能は初動が読まれやすいから」


「はい!」


下級生が慌てて頷く。


凛は資料を返す。


「あと、焦ると右肩が上がる。そこを狙われる」


「そこまで見てたんですか」


「見えるから」


短い会話。


それだけで、周囲の生徒たちは少し距離を取っていた。


尊敬。

緊張。

憧れ。


そういうものが、彼女の周りに薄く漂っている。


東雲が小声で言った。


「な? すごいだろ」


「うん」


零は頷いた。


今度は、本当にそう思った。


凛の観察眼は鋭い。


異能だけに頼っているわけではない。

相手の身体の使い方、癖、迷いを見ている。


「黒瀬?」


東雲に呼ばれて、零は視線を戻した。


「なに?」


「また見てた」


「参考になるなと思って」


「黒瀬、真面目だなあ」


「そうかな」


「そうだよ。普通そこで参考にするか?」


「人によるんじゃない?」


「絶対人によらない」


東雲が笑いながら歩き出す。


零もその後に続いた。


凛の横を通り過ぎる時、零は軽く会釈した。


同じクラスの相手にする、ごく普通の挨拶。


凛もそれに気づき、軽く頷き返した。


それだけだった。


会話はない。


疑いもない。


ただ同じ学校にいる、同じクラスの生徒。


今の零にとっては、それで十分だった。


   ◇


同時刻。


異能犯罪対策局本部、地下百五十メートル。


そこは、地上の本部とはまるで違う場所だった。


窓はない。


音もない。


白い照明だけが、均等に空間を照らしている。


部屋の中央には、一脚の椅子があった。


その椅子に、一人の男が拘束されている。


手首。

足首。

首。

胴体。


全身を固定され、指一本動かせない。


だが、男の顔には余裕があった。


「それで?」


男は笑った。


「政府の犬が、今さら俺に何を聞く?」


黎明会幹部、カノープス。


かつてそう呼ばれていた男だった。


本名は不明。

戸籍データにも該当なし。

能力登録も存在しない。


黎明会の壊滅作戦後、瓦礫の下から唯一生きたまま回収された幹部級の異能力者。


男の前には、六人が立っていた。


市(ファースト)。

仁菜(セカンド)。

弥次(サード)。

志乃(フォース)。

大伍(フィフス)。

睦美(シックス)。


特務課(ナンバーズ)。


公式記録上、現代最強と称される六人。


男はその六人を見回し、口の端を吊り上げた。


「全員揃ってお出ましか。光栄だな」


誰も答えなかった。


「質問があるなら聞けよ。答える気はないがな」


男は肩を揺らして笑う。


「痛みか? 毒か? 窒息か? 焼くか? 凍らせるか? 好きにしろ」


カノープスは、拘束具の中でゆっくりと首を鳴らした。


「死なない限り、俺は何にでも慣れる」


市(ファースト)が、一歩前に出た。


「黎明会の残存拠点」


声が落ちる。


カノープスの喉が、わずかに震えた。


だが、口は開かなかった。


「時間停止能力者の行方」


「無駄だ」


カノープスは笑った。


「お前の声は、もう俺には届かない」


市(ファースト)は表情を変えない。


「黒い星印を持つ構成員の名簿」


「だから無駄だって言ってるだろ」


カノープスは楽しげに笑った。


「あの施設の隅で、お前の声をずっと聞いていた。眠れ。伏せろ。傅け。何度もな」


男は歯を見せる。


「最初は少し効いた。だが、すぐに慣れた」


市(ファースト)は黙っていた。


「もうお前の声では、俺を動かせない」


短い沈黙。


その後、志乃(フォース)が一歩前に出た。


手には、細い注射器が握られている。


カノープスはそれを見て、さらに笑みを深めた。


「今度は毒か? やってみろよ」


志乃(フォース)は答えない。


針が、男の首筋に入る。


薬液が押し込まれた。


数秒。


カノープスの血管が浮き上がる。


皮膚が赤黒く染まり、呼吸が乱れる。


「っ、ぐ……」


男の身体が椅子の上で跳ねる。


だが、すぐに収まった。


荒い息を吐きながら、カノープスは笑った。


「ほらな」


誰も反応しない。


弥次(サード)は、男を見ていた。


ただ、じっと。


カノープスは眉をひそめる。


「なんだよ」


弥次(サード)は答えない。


大伍(フィフス)が無言で前に出る。


男の腕に、小さな刃を当てた。


浅く切る。


血が滲む。


だが、傷はすぐに塞がり始めた。


「無駄だって言ってるだろ」


カノープスは笑う。


「毒も、傷も、痛みも、異能も。俺は何にでも慣れる」


仁菜(セカンド)が静かに手を動かした。


空間がわずかに歪む。


男の腕から滲んだ血が、一滴だけ空中へ抜き出される。


透明な容器に収まったそれを、仁菜(セカンド)は志乃(フォース)へ渡した。


「……取れた」


志乃(フォース)は、血を確認する。


弥次(サード)が、男の身体を見つめたまま小さく頷いた。


「……うん」


「おい」


カノープスが顔を歪める。


「何をしてる」


誰も答えない。


志乃(フォース)は、別の注射器を準備していた。


弥次(サード)は男の内側を見ている。


仁菜(セカンド)は記録端末を操作する。


大伍(フィフス)は扉の前に立った。


市(ファースト)は、男から視線を外さない。


そして、睦美(シックス)が前に出た。


その手には、薄い刃が握られている。


カノープスの笑みが、止まった。


「おい」


睦美(シックス)は答えない。


「何の真似だ」


「実験」


睦美(シックス)は短く言った。


「は?」


次の瞬間。


男の視界が傾いた。


音が消える。


身体の感覚が遠ざかる。


生まれて初めて、カノープスは死を理解した。


一瞬の恐怖。


そして、暗転。


   ◇


次に目を覚ました時、カノープスは同じ椅子にいた。


「……は?」


喉が震える。


息がある。


視界がある。


心臓が動いている。


首も繋がっている。


志乃(フォース)が、空になった注射器を捨てた。


「蘇生完了」


男は目を見開く。


「何を……した」


誰も答えない。


「俺は、死んだはずだ」


志乃(フォース)は、男の脈を取る。


弥次(サード)は男の内側を覗く。


仁菜(セカンド)は記録を取る。


まるで、ただの検査だった。


カノープスの背筋に、初めて冷たいものが走った。


「お前ら、何をしてる」


市(ファースト)が一歩前に出た。


「黎明会の残存拠点」


声が落ちる。


カノープスは笑おうとした。


また無駄だと。


そう言おうとした。


「……北、旧第七倉庫群」


自分の口から漏れた言葉に、カノープス自身が凍りついた。


「は?」


市(ファースト)は続ける。


「時間停止能力者の行方」


「知らな――」


抵抗しようとした。


だが、喉が勝手に震える。


「……回収部隊が、連れて逃げた」


カノープスの顔から血の気が引いていく。


「なんで」


市(ファースト)が、さらに口を開く。


「黒い星印を持つ構成員の名簿」


だが、その瞬間。


カノープスの喉が止まった。


口元が歪む。


声が出ない。


次の瞬間、男は荒く息を吐き、笑った。


「……戻った」


震える声だった。


「戻ったぞ。お前の声が、また弾ける」


市(ファースト)は表情を変えなかった。


弥次(サード)が小さく頷く。


「二つくらいッスね」


仁菜(セカンド)が端末を見る。


「……蘇生直後、反応が遅い」


志乃(フォース)が静かに言う。


「体の修復に回っている間だけ、他への適応が遅れる」


カノープスの目が見開かれる。


そこで、ようやく理解した。


死んだから耐性が消えたわけではない。


違う。


死から戻る。


その異常な回復に、身体の力が持っていかれた。


だから、その一瞬だけ、市(ファースト)の声に対する適応が遅れた。


だから、喋った。


「は、はは……」


カノープスは乾いた笑いを漏らした。


「なるほどな。よく考えたじゃねえか」


少しずつ、余裕が戻ってくる。


「だが、残念だったな」


男は笑った。


「そんな蘇生薬が、何本もあるわけねえだろ」


誰も答えなかった。


「国の秘蔵品か? 異能医療の奥の手か? 一人を一回生き返らせるだけでも、どれだけの価値があると思ってる」


男は唾を飲み込み、笑みを深める。


「一回につき質問二つ。あと何本ある? 三本か? 五本か? 十本はねえよな」


市(ファースト)は、黙って男を見ていた。


「耐えてやるよ」


カノープスは歯を見せた。


「俺が知ってる情報全部抜く前に、お前らの薬が尽きる」


「そう」


市(ファースト)が言った。


短い声だった。


睦美(シックス)が、また刃を持ち上げた。


カノープスの笑みが引きつる。


「おい」


睦美(シックス)は止まらない。


「待て。まだ薬を使う気か?」


誰も答えない。


「無駄だ。どうせ何度かやれば尽きる。俺は――」


言葉は、そこで途切れた。


視界が傾く。


音が消える。


身体の感覚が遠ざかる。


二度目の死。


暗転。


   ◇


声が聞こえた。


「生き返りなさい」


市(ファースト)の声だった。


死の底に沈んだ意識へ、その命令だけが落ちてくる。


次の瞬間。


カノープスの胸の奥で、何かが動いた。


どくん、と心臓が跳ねる。


血管が熱くなる。


肺が勝手に膨らむ。


首筋に、先ほどの蘇生薬と同じ感覚が走った。


「……っ、は」


カノープスは目を見開いた。


同じ椅子。

同じ拘束具。

同じ白い照明。


だが、今度は違った。


志乃(フォース)の手に、注射器はない。


蘇生薬は使われていない。


「え」


カノープスの顔から、笑みが消える。


「おい」


体内で、何かが作られている。


さっき打たれた薬。


死者を呼び戻した、あの異常な薬。


それと同じものを。


自分の身体が。


勝手に。


「嘘だろ」


弥次(サード)が、カノープスの内側を見たまま言った。


「できてるッス」


仁菜(セカンド)が端末に記録を送る。


「……自己生成、確認」


志乃(フォース)が静かにカノープスを見る。


「あなたの本当の能力は単なる免疫の獲得ではない。

一度受けたものを体内で生成できるんですね」


カノープスの喉が鳴った。


ようやく、すべての意味が繋がった。


毒を打たれた。


切られた。


血を抜かれた。


殺された。


蘇生された。


全部、調べるためだった。


自分の異能が、何に適応できるのか。


どこまで再現できるのか。


そして。


死んだ自分に、市(ファースト)の命令を届かせるために。


「まさか……」


カノープスの声が震える。


「死んだ俺に命令して、俺の万物適応(オールマイティ・セル)で蘇生薬を作らせたのか」


誰も答えなかった。


それが、何よりの答えだった。


「ふざけるな」


男の声が震える。


「そんなの、ありかよ」


市(ファースト)は答えない。


睦美(シックス)が、また刃を持ち上げた。


男は叫んだ。


「待て!」


睦美(シックス)は止まらない。


「待て、待て待て待て!」


男の視界が、再び傾いた。


   ◇


カノープスは、また目を覚ました。


薬は使われていなかった。


自分の身体が、自分を蘇らせた。


市(ファースト)の命令に従って。


「……いやだ」


男は呟いた。


誰も答えない。


「いやだ。やめろ。やめてくれ」


市(ファースト)が一歩前に出る。


「黒い星印を持つ構成員の名簿」


「やめろ」


「答えなさい」


男の口が動く。


名前が落ちる。


一つ。


また一つ。


二つ目を言い終えたところで、男の喉が震えた。


声が止まる。


また適応が戻った。


市(ファースト)が睦美(シックス)を見る。


睦美(シックス)は頷いた。


「だめ」


カノープスは泣きながら首を振った。


「もう無理だ。やめてくれ」


「まだ聞くことあるから」


睦美(シックス)の声は、ひどく静かだった。


男の身体が震える。


「政府の人間が……こんなことしていいのかよ」


誰も答えない。


「お前ら、正義の味方なんだろ……? 犯罪者を裁く側なんだろ……?」


市(ファースト)は、ゆっくりと男に近づいた。


そして、男の目を覗き込む。


「正義?」


その声は、とても静かだった。


「そんなもの、私たちには最初からありません」


男の息が止まる。


市(ファースト)は続けた。


「私たちにあったのは、任務と、仲間だけです」


仁菜(セカンド)が小さく呟く。


「……隊長、いない」


弥次(サード)は歯を食いしばった。


志乃(フォース)は目を伏せた。


大伍(フィフス)は拳を握った。


睦美(シックス)は笑っていなかった。


市(ファースト)は男に告げる。


「その片方を、あなたたちが奪った」


カノープスの顔が、恐怖に染まる。


「頼む」


男は首を振る。


「もう、殺してくれ」


睦美(シックス)が、初めて反応した。


「だめ」


短い声だった。


「死んだら、生き返れるでしょ」


男の喉から、声にならない音が漏れた。


市(ファースト)が命じる。


「話し続けなさい」


男の身体が、命令に従う。


逃げることはできない。


黙ることもできない。


死ぬことは、終わりではない。


死ぬたびに、蘇生へ力を奪われる。


そのたびに、わずかな隙が生まれる。


そしてその隙を、特務課は逃さない。


かつて彼らには、隊長がいた。


任務の線引きをする者がいた。


戦場で最後に止めてくれる者がいた。


だが、その男はもういない。


公式記録に残らない七人目。


零(ゼロ)。


彼を失った特務課には、もう守るべきモラルなど残っていなかった。


白い照明の下。


男の声だけが、地下百五十メートルの密室に響き続けた。

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