第3話 白峰凛は見逃さない
放課後の教室は、少しだけ浮ついている。
授業が終わった解放感。
部活へ向かう足音。
帰り支度の音。
誰かの笑い声。
黒瀬零は、自分の席で教科書を鞄にしまっていた。
「黒瀬、今日このあと暇?」
前の席から、東雲悠斗が振り返った。
「暇だけど、帰るつもり」
「まじか。駅裏に新しくできた店、見に行こうぜ」
「店?」
「CDショップ。中古ゲームも置いてるらしい」
東雲は楽しそうに言った。
「Ivyの新曲が売ってるらしいんだよ」
「俺、音楽詳しくないよ」
「見るだけでも楽しいって」
「今日はやめとく。明日小テストあるし」
「黒瀬、真面目だなあ」
「一応ね」
「成績いいやつの一応は信用ならない」
東雲はそう言って笑った。
零も笑い返す。
「じゃ、俺一人で行くわ」
東雲は鞄を肩にかける。
「黒瀬もテス勉頑張れよ」
「うん。気をつけて」
「おう」
東雲は軽く手を振って、教室を出ていった。
零はその背中を見送る。
普通の友人。
普通の放課後。
普通の会話。
零が欲しかったものは、確かにここにあった。
◇
白峰凛は、校門を出てすぐ、制服の上から薄いジャケットを羽織った。
胸元には、ペンのような形をした小さな認証バッジ。
異能探偵局。
凛はそこに、インターン生として所属している。
もちろん、正式な捜査官ではない。
単独行動も許されていない。
逮捕権もない。
危険区域の最前線に出ることも、本来ならない。
それでも、凛は現場に出る。
出なければ、届かないものがあるからだ。
「白峰さん」
路肩に停まった黒い車の窓が開いた。
運転席にいた男が、片手を上げる。
「乗って」
「はい」
凛は後部座席に乗り込んだ。
運転席の男は三枝。
異能探偵局の捜査官。
助手席の女性は伊坂。
解析担当で、凛の指導役でもある。
「学校終わりに悪いね」
三枝が言った。
「問題ありません」
凛はシートベルトを締める。
「本日の案件は、駅裏の旧商店街で行われる異能強化剤の取引確認、で合っていますか」
「流石ね」
伊坂がタブレットを操作しながら言った。
「対象は三名から五名。現場確認と証拠確保が優先。白峰さんは後方補助」
「分かりました」
「分かりましたって顔じゃないね」
「前に出る必要がある場合は出ます」
「だから、それをやめてって話」
三枝が苦笑した。
「今日は俺が接触する。白峰さんは距離を取って記録。危なくなったら下がる。いいね?」
「はい」
返事は早かった。
三枝はバックミラー越しに凛を見る。
「本当に分かってる?」
「分かっています」
「ならいいけど」
車は駅前を抜け、古い商店街へ入った。
人通りは少ない。
シャッターの閉まった店。
錆びた看板。
古い雑居ビル。
細い路地。
昼間なのに、どこか薄暗い。
「対象地点はこの先」
伊坂が言う。
「三枝さんは正面から。白峰さんは二十メートル後方」
「了解」
車が停まる。
凛は降りた。
夕方の風が、少し冷たい。
前方には三枝。
その奥に、空き店舗があった。
曇ったガラス窓。
剥がれた看板。
半分だけ下りたシャッター。
その前に、男が二人立っている。
一人はパーカー。
もう一人は作業着。
二人とも、落ち着きがない。
「受け渡し前ですね」
凛が小声で言った。
三枝が少しだけ振り返る。
「分かる?」
「パーカーの男が鞄を離さない。作業着の男は、その鞄ばかり見ています。まだ中身を確認していないはずです」
「よく見てる」
三枝は頷き、身分証を取り出した。
「異能探偵局です。少し話を聞かせてもらえますか」
男たちの表情が変わった。
パーカーの男が鞄を抱える。
作業着の男が一歩下がる。
次の瞬間、二人は走り出した。
「対象、逃走!」
三枝が追う。
凛は動かなかった。
命令は後方補助。
だが、空き店舗の扉が内側から蹴り開けられた。
「っ!」
中から別の男が飛び出してくる。
手には、黒いモヤを纏った短棒。
狙いは三枝の背中。
凛は地面を蹴った。
「三枝さん、後ろ!」
男が短棒を振り下ろす。
凛はその腕に触れた。
異能阻害。
短棒にまとわりついていた力が消える。
凛は手首を捻り、足を払った。
男の身体が崩れる。
地面へ叩きつけ、腕を押さえる。
「確保!」
「白峰さん、下がって!」
三枝が叫ぶ。
「まだ中にいます」
凛は扉の奥を見た。
暗い店内。
その奥で、一人の男が笑っていた。
「まだ学生か?にしてはよく動くな」
片手には小さなケース。
もう片方の手には、注射器。
中身は薄い青色だった。
異能強化剤。
「その場に置いてください」
凛が言う。
男は笑った。
「俺の異能は、ほんの少し肉体を強化するだけの三流異能だけどな」
次の瞬間、男は注射器を自分の首に突き刺した。
「!」
薬液が押し込まれる。
男の身体が震えた。
血管が浮き上がり、呼吸が荒くなる。
そして、床を蹴った。
速い。
凛は横へ跳ぶ。
男の拳が、さっきまで凛のいた場所を砕いた。
木片が跳ねる。
凛は着地と同時に踏み込んだ。
異能阻害は、触れなければ意味がない。
距離を取れば不利。
近づくしかない。
男が腕を振る。
凛は低く潜り、袖口に触れた。
男の動きが一瞬だけ鈍る。
その隙に膝を入れる。
だが、浅い。
「効かねえよ」
男が笑う。
凛は掴まれる前に身体をひねり、距離を取った。
強い。
薬で異能の出力を上げているだけではない。
もともと、戦い慣れている。
「三枝さん、外の二人を」
凛が言う。
「君は?」
「こいつを止めます」
「無茶だ!」
「逃がす方が危険です」
三枝は一瞬だけ迷った。
外では逃げた二人の足音が遠ざかっている。
「無理はするなよ!」
「はい」
三枝が外へ走る。
店内に残ったのは、凛と男。
男は肩を揺らして笑った。
「見捨てられたな」
「違います」
凛は構え直す。
「役割分担です」
男が踏み込む。
凛は避ける。
触れる。
消す。
離れる。
また踏み込む。
異能阻害は強い。
だが、万能ではない。
触れている間しか効かない。
当然、相手の筋力など素の身体能力までは消せない。
男はそれを分かっていて、凛に触れさせない距離で圧をかけてくる。
「異能干渉系か。面倒だな」
「なら、大人しくしてください」
「嫌だね」
男が笑う。
その瞬間、店の奥から別の気配。
凛は反射的に横へ跳んだ。
棚の陰から、小柄な少女が飛び出してくる。
手にはナイフ。
頬を、刃がかすめた。
「子供……!?」
少女は震えていた。
けれど、ナイフだけは離さない。
「ごめんなさい……でも、こうしないと、お母さんが!!」
凛は一瞬で状況を理解した。
巻き込まれている。
この子は、敵ではない。
「大丈夫。あなたを傷つけに来たんじゃない」
「来ないで!」
少女が叫ぶ。
男が笑った。
「おい、余計なこと喋るな」
少女の肩が跳ねる。
凛は少女から目を逸らさず、短く言った。
「壁際に下がって。私が助ける」
「無理だよ……」
「無理じゃない」
男が床を蹴った。
凛は少女の前に出る。
拳が来る。
凛は低く潜り、男の腕に触れた。
異能阻害。
異能が途切れた瞬間、凛は肘を入れる。
男の体勢が崩れる。
だが、倒れない。
男の膝が跳ね上がる。
凛は腕で受けた。
骨に響く。
身体が浮き、棚に背中を打ちつけた。
「っ……!」
痛みを無視して立つ。
少女は壁際で震えていた。
男が舌打ちする。
「ガキ一人守りながら、俺に勝てると思ってんのか」
凛は答えない。
低く構える。
男がもう一度踏み込む。
凛は正面から受けず、横へ滑る。
触れる。
消す。
離れる。
一度で倒せないなら、何度でも削る。
男の呼吸が少しずつ荒くなっていく。
薬で上げた出力に、身体が追いついていない。
足の運びも雑になっている。
凛はそこを見逃さなかった。
男の右拳を避ける。
左腕に触れる。
異能阻害。
強化が落ちた瞬間、懐へ入る。
足を払う。
肩を押す。
男の身体が床に落ちかける。
だが、その寸前。
男が笑った。
「残念」
懐から、黒いものが抜かれる。
銃。
小型拳銃。
凛の動きが止まる。
男は床に片膝をついたまま、銃口を凛へ向けていた。
「ゲームオーバーだ。」
凛は動かなかった。
少女が息を呑む音が聞こえる。
男は荒い呼吸のまま笑った。
「異能の内容は千差万別。俺の普段の三流異能とは比べ物にならない、お前は間違いなく超一流だよ」
凛は銃口を見る。
引き金にかかる指。
手首の角度。
肩の力。
撃つ気だ。
本気で。
「ただ、残念。本気の殺し合いの場においてお前の実力はよく見積もっても、二流かそこらなんだよ」
凛は一歩も引かなかった。
引けば、背後にいる少女へ弾が抜ける。
横へ避ければ、外へ飛ぶ。
店の外には、職員も通行人もいる。
凛は息を整えた。
狙うなら、手首。
引き金を引かれるより先に、銃口を逸らす。
できるかどうかではない。
やるしかない。
男の指が動く。
その時。
銃は、鳴らなかった。
「……あ?」
男の表情が崩れる。
何が起きたのかは分からない。
だが、この一瞬を見逃す訳には行かない。
凛は動いた。
一歩で間合いを詰める。
銃を持つ手首を掴み、上へ逸らす。
そのまま捻る。
拳銃が床に落ちた。
同時に、男の膝裏を蹴る。
男が崩れる。
凛は肩を押さえ、床に組み伏せた。
「確保!」
少女がその場に座り込む。
店の外から足音が響いた。
三枝が駆け込んでくる。
「白峰さん!」
「奥に女性がいます。人質です」
凛は男を押さえたまま言った。
「この子の母親です。確認を」
「分かった!」
三枝が奥へ走る。
応援の職員が二名、店内へ入ってきた。
凛は男の手首に拘束具をかける。
男は床に押さえつけられたまま、歯を食いしばっていた。
「なんで……撃てなかった」
凛は答えなかった。
自分にも、分からなかった。
数分後。
外に逃げた二人。
店内にいた男。
裏口に潜んでいた一人。
全員が拘束された。
奥の部屋からは、縛られていた女性が救出された。
少女は泣きながら、母親に抱きついていた。
異能強化剤のケースも押収された。
現場は制圧され凛は、ようやく息を吐いた。
◇
その少し前。
黒瀬零は、駅へ向かう途中で足を止めていた。
駅裏の方が騒がしい。
怒鳴り声。
誰かが走る音。
何かが倒れる音。
人の流れも、少しだけ乱れている。
零は一度、通り過ぎようとした。
関係ない。
自分はもう、特務課ではない。
普通の学生として帰るだけだ。
そう思った。
けれど、足は止まっていた。
「……見るだけ」
零は小さく呟き、人通りを外れた。
路地に入る。
角を曲がる。
古い商店街の隙間を抜ける。
騒ぎの中心は、空き店舗だった。
中では、白峰凛が男を相手にしていた。
背後には、震える少女。
男の手には銃。
銃口は、凛へ向いている。
零は地面に落ちていた小さなコンクリート片を拾った。
能力は使わない。
そう決めていた。
だが、使わなければ間に合わない。
ほんの一瞬。
零は思考を加速させる。
世界が薄く伸びた。
銃口。
引き金。
排莢口。
距離。
角度。
零は、指先で石を弾いた。
小さな石は空気を裂き、拳銃の排莢口へ飛び込む。
ほんの数ミリの隙間に、噛む。
時間が戻る。
男が引き金を引く。
銃は、鳴らない。
零はすでに、再び雑踏に戻っていた。
胸の奥が、じくりと痛む。
「……これくらいで、痛むのか」
零は短く息を吐いた。
それ以上は何もしない。
白峰凛は強い。
あとは、彼女がやる。
零は静かにその場を離れた。
◇
現場の制圧が終わった後。
凛は、床に落ちた拳銃を見ていた。
三枝は奥で救出された女性の状態を確認している。
伊坂は応援職員とともに、押収したケースの中身を調べていた。
「白峰さん、怪我は?」
三枝が戻ってきて聞いた。
「軽い打撲だけです」
「それ怪我だから。あとで診てもらって」
「はい」
返事をしながらも、凛の視線は拳銃から離れなかった。
安全装置は外れている。
弾も入っている。
引き金も引かれていた。
撃てる状態だった。
なのに、撃てなかった。
「この銃、見てもいいですか」
「触らないでね。証拠品だから」
「はい」
凛は膝をついた。
拳銃の排莢口。
そこに、小さな欠片が噛んでいた。
灰色の石。
古いコンクリート片。
ほんの数ミリ。
それが、銃の動きを止めていた。
「石……?」
現場には、砕けた床材や壁材が散っている。
石片があること自体はおかしくない。
けれど。
ここに噛むだろうか。
撃つ直前の銃の内部に。
こんな綺麗に。
「白峰さん?」
三枝が呼ぶ。
「どうかした?」
「いえ」
凛は立ち上がった。
「銃が詰まった理由が、少し気になっただけです」
「運が良かったな」
三枝はそう言った。
凛は拳銃を見る。
運。
そう考えれば、それで終わる。
実際、その可能性もある。
けれど、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
凛は店の外を見る。
夕方の商店街。
人だかり。
警戒線。
駆けつけた職員たち。
そこに、不審な人物はいない。
誰も、何も見ていない。
凛はもう一度、拳銃を見る。
排莢口に噛んだ、小さな石。
「……偶然?」
小さく呟く。
答えはなかった。
それでも、白峰凛はその違和感を忘れなかった。




