第1話 最強の異能力者は死んだ
2062年3月1日。
世界各国の国家首脳が、同時刻に心臓発作で倒れた。
演説中だった者。
会議中だった者。
移動中だった者。
眠っていた者。
場所も、年齢も、性別も、健康状態も違う。
それでも彼らは、まったく同じ時刻に胸を押さえ、倒れた。
最初は、巨大な犯罪組織による集団テロだと考えられた。
次に、未知の感染症が疑われた。
だが、毒物も、病原体も、外傷も見つからなかった。
世界中を揺るがしたその出来事は、当然、人類史上最大の怪事件として歴史に刻まれるはずだった。
しかし翌日。
それを塗り潰すほどの異常が、世界中で起きた。
3月2日。
A国L州にある小さな村で、目覚めた妻が目撃したのは、背中から生えた翼で空を飛ぶ夫の姿だった。
K国B地区の街中では、百人近い通行人が一斉に姿を消した。
N国J県の病院では、入院していた患者全員が、原因不明のまま完治した。
炎を生む者。
不死の力を持つ者。
宙に浮く者。
地球上にいる全ての人類が、突然、今までにない超常の力を手に入れた。
後に人類再形成日と呼ばれるその日から四十年がたった今でも、その原因は分かっていない。
ただ一つ確かなのは、その日を境に、人間は人間のままではいられなくなったということだ。
それは、その日を生きていた者たちだけに起きた異変ではなかった。
以後に生まれた子どもたちもまた、例外なく何らかの力を宿していた。
世界は当然、混乱した。
犯罪は形を変え、戦争は前提を変え、法律は何度も書き換えられた。
だが人類は次第に一丸となり、多くの血が流れながらも、その力を新たな法の元に統治した。
異能と呼ばれるようになったその力は、教育に組み込まれ、職業に組み込まれ、戸籍に記録されるようになった。
今や異能は、人々にとって個性の一部のようなものになっている。
生まれつき運動能力に優れた者がいるように。
あるいは、特徴的な外見で生まれてくる者がいるように。
人は、それぞれ異なる能力を持って生まれてくる。
それが、この世界の常識となった。
そして常識になったからこそ、異能を悪用する者もまた、いなくならなかった。
異能犯罪者。
異能を用いて人を傷つけ、奪い、支配しようとする者たち。
彼らに対抗するため、国は数多くの組織を作った。
その一つが、異能犯罪対策局。
中でも、通常部隊では対応できない特異犯を制圧する最強の執行部隊。
異能犯罪対策局・特務課。
通称、ナンバーズ。
その名を聞いて、投降を選ばない異能犯は少ない。
なぜなら、そこにいるのは現代最強とも称される六人の異能力者だからだ。
現代兵器と法制度によってかろうじて秩序を保っているこの世界で、それでもなお個人戦力として別格と呼ばれる六人。
異能犯罪対策局、最強の執行部隊。
「弥次。施設の壁に沿って直進。内部状況を報告してください」
廃棄された研究施設の正面ゲート前で、複数の人影のうちの一つが壁に向かって近づいた。
「正面敵二十七と装甲車両が二台。地下に敵四十以上。右通路に罠が三つ。あと、生体反応のない部屋が一つありました。たぶん死体置き場ッスね」
弥次と呼ばれたその少年は目を細めたまま、無機質な壁をただ眺めていた。
万里眼。
距離や遮蔽物を貫通し、見たいと思った物を見る異能。
壁も、鉄扉も、地下の隔壁も、彼の視界を遮ることはできない。
「仁菜」
「……いつでも」
返事は、通信機越しに届いた。
仁菜は、施設から7,000m離れた高台にいた。
夜風に髪を揺らしながら、彼女は伏せた姿勢で狙撃銃を構えている。
銃口の先にあるのは、肉眼では到底見えないはずの廃棄研究施設。
異能が世界に出現する以前、長距離射撃の世界記録は、L国軍の狙撃兵が樹立した4,800mだった。
それも、当時最新鋭のAIによる弾道計算補助、気象観測、照準補正を受けた上での記録である。
だが彼女の前では、7,000mという距離も、銃弾の落下も、風向きも、照準を狂わせる理由にはならない。
「右通路にある罠三つが厄介ですね。そこから狙えますか?」
「……よゆー。この程度、三徹明けでも外さない」
短い返答の直後、銃声が三つ重なった。
本来なら届くはずのない弾丸が、空間を折り畳むようにして施設へ到達する。
次の瞬間、正面ゲートに設置された対人地雷の起爆コードだけを断ち切り、地面に突き刺さった。
仁菜にとって距離は意味を持たない。
空間掌握。
空間の位相を操る異能。
「作戦開始。大伍、十二時の方向に直進。いつも通りお願いします」
「了解。俺の後ろにいろ」
大伍が堂々と正面のゲートから中へ潜入する。
次の瞬間、施設内部から徹甲弾が撃ち込まれ、数十丁の銃口から火花が散った。
轟音。
衝撃。
そして薬莢の香りがあたりを充満し、硝煙がそこにある者たちの視界を覆う。
しかし煙が晴れると、そこには数秒前と変わらぬ姿勢で立ち尽くす大伍の姿があった。
放たれた無数の弾丸は、大伍の目前で壁にぶつかったかのようにへしゃげ、地面へと転がっている。
絶対防御。
彼が守ると決めたものには、傷一つ届かない。
「睦美」
「はーい、待ってました」
場に似合わぬ、どこか能天気な声が響いた。
小柄な身体に似合わない、巨大な鉄塊のような戦斧を肩に担いでいる。
普通なら持ち上げることすらできない重量物。
だが、彼女の肩は沈んですらいなかった。
重力操作。
自分自身や触れたものにかかる重力を操る異能。
睦美は軽々と床を蹴った。
次の瞬間、彼女の身体が弾丸のように前へ飛ぶ。
自身にかかる重力を極限まで軽くし、踏み込みの瞬間だけ地面への重力を増す。
常人ではあり得ない速度で間合いを詰めた睦美は、戦斧を振りかぶった。
その瞬間まで、斧は羽のように軽かった。
だが、敵の装甲車両に触れる直前。
彼女は、斧にかかる重力を一気に増やした。
空気が潰れるような音がした。
巨大な戦斧は、装甲車両の側面を紙のように叩き潰した。
衝撃で床が割れ、周囲の異能犯たちが吹き飛ぶ。
「あちゃー、力入れすぎちゃったか。なるべく被害は少なくしないと」
睦美は、再び斧を背中に戻すと、何事もなかったかのように歩き出す。
重力を軽くして動き、重くして叩く。
シンプルにして、究極の戦術。
彼女はナンバーズ屈指の近接戦闘のプロだった。
「市」
「ええ」
市が、ゆっくりと前へ出る。
戦場に似合わない和装の袖が、夜風に揺れた。
施設の入口から、敵兵たちが飛び出してくる。
雑兵といえど、他の組織なら隊長クラスの猛者ばかり。
ある者は常人の何十倍もの筋力を有する剛腕を振りかぶり、ある者は無数の火炎弾を出現させ、少女に向かって襲いかかる。
並の異能力者なら絶望するその状況に、市はただ静かに微笑んだ。
「眠りなさい」
その一言で、全員が膝をついた。
人心誘導。
どんな凶悪な異能犯であろうと、その声を聞いた時点で抵抗の意思を奪われる。
「二十七名全員、制圧完了。内、三名ほどが戦斧の衝撃に巻き込まれ、重症です」
「了解です。志乃」
「はい」
志乃が、倒れた異能犯たちのもとへ歩み寄る。
彼女は戦場に不釣り合いなほど静かな表情で、膝を撃ち抜かれた男の前にしゃがみ込んだ。
「動かないで。すぐに塞ぎます」
男が何かを言うより早く、志乃は傷口に手をかざした。
淡い光が、彼女の指先から滲む。
裂けた肉が結び直され、砕けた骨が音もなく形を戻していく。
外傷治癒。
切り傷、銃創、骨折、火傷。
肉体に刻まれた外傷を修復する異能。
数秒後、男の膝から出血は消えていた。
痛みこそ残るが、命に関わる傷ではない。
志乃は立ち上がり、次の負傷者へ向かう。
「制圧対象、三名。出血は止めました。後遺症も残りません」
「助かります」
通信機の向こうで、指揮を執る声が静かに答えた。
「突入します。目標は敵幹部の確保。生存者の救出を優先。抵抗する者は制圧してください」
六人が同時に動く。
特務課が、敵組織の拠点を食い破った。
◇
制圧は、あまりにも一方的だった。
内部にいた敵の多くは、市の人心誘導によって抵抗すら許されず鎮圧された。
耳を塞いだ敵たちは、物理法則を無視した睦美の動きに対応できず一瞬で倒れた。
機銃や手榴弾は大伍が防ぎ、物陰に潜んだ兵は弥次が即座に見抜き、仁菜によって射抜かれた。
それを掻い潜った攻撃で負った傷も、志乃によって即座に治癒された。
──形勢が逆転したのは、施設の最深部に到達した頃のことだ。
「……止まって。」
弥次が言った。
先ほどまでの軽い口調は消えている。
「正面、四人。全員やばい。」
その言葉と同時に、最深部へ続く隔壁が開いた。
白い照明に照らされた広い実験区画。
その中央に、四人の男女が立っていた。
黒いドレスをまとった女。
狐面を斜めにかぶった細身の男。
軍服のような装いをした大男。
眼鏡をかけた青年。
全員初めて見る異能力者だった。戦闘服に付けられたカメラ越しに映る姿を国の戸籍データの紹介にかけるもヒットは0。
能力も分からない。
だが、そこにいるだけで分かった。
雑兵ではない。
「思っていた以上に早かったわ」
黒いドレスの女が、楽しげに笑った。
「ここには会員たちの中でも選りすぐりの精鋭を配置していたのに、こうもあっさり抜けてくるなんてね」
女は一歩前に出る。
「さすがは政府の懐刀。でも、ここから先は私たちが遊んであげる」
「市」
指揮官の声が、短く命じた。
市は静かに息を吸う。
「眠りなさい」
声が通路に落ちた。
その一言で、どれほど凶悪な異能犯であろうと膝をつく。
それが市の人心誘導だった。
だが、黒いドレスの女は倒れなかった。
「あら、ごめんなさい」
女は肩をすくめる。
「音楽を聴いていて、聞こえなかったの」
耳元には、小型の遮音端末が光っていた。
さらに女は、楽しげに続ける。
「それに、あなたの相手をするのは私じゃないわ」
女の足元から、黒い影が盛り上がった。
影は泡立つように膨らみ、子供ほどの大きさをした人型へ変わる。
「黎明会幹部、アークルトゥス。短い間だろうけど、覚えておきなさい」
一体。
二体。
三体。
数は、瞬く間に数十を超えた。
影の人形たちは、音もなく市へ襲いかかる。
「傅きなさい」
市が再び命じる。
だが、影は止まらない。
「……効かない」
市の声に、わずかな揺れが混じる。
女が笑う。
「それはそうよ。これは私の異能、霊体使役によって生み出した傀儡。人の心を誘導するあなたの声は、人ではないものには届かない」
影が市の喉元へ跳ぶ。
その直前、睦美の戦斧が横から叩き込まれた。
黒い影がまとめて吹き飛ぶ。
だが、潰れた影は床に溶け、女の足元からすぐに湧き直した。
「ちょっとまずいなぁ」
睦美が低く呟く。
「仁菜。外から潰せる?」
通信の向こうで、すぐに反応が返る。
「……撃つ。大伍、皆を守って」
7,000m先。
仁菜が引き金を引く。
大型弾が空間を折り畳んで施設へ迫る。
しかし、着弾しない。
施設の外壁に触れる直前、弾道がぐにゃりと曲がった。
「……外れた?」
仁菜の戸惑いを孕んだような声が無線機から漏れる。
弾丸は施設の外へ逸れ、遠くで爆ぜた。
狐面の男が、くすりと笑う。
「外からの無粋な横槍は、ご遠慮ください」
「結界……?」
弥次が呟く。
「ご名答。正解の褒美に名乗りましょう。黎明会幹部、カペラ」
狐面の男は優雅に一礼する。
「異能は、妖狐幻術。どうぞ、お見知りおきを」
その直後、壁が割れた。
機銃。
砲塔。
無人戦車。
ドローン。
突如として現れた大量の兵器が、一斉に部隊へひ照準を向ける。
「全員、俺の後ろ!」
大伍が叫ぶ。
弾丸と砲弾が雨のように降る。
絶対防御が展開される。
弾丸が潰れ、爆炎が裂け、破片が止まる。
だが、攻撃は終わらない。
右から。
左から。
上から。
床下から。
守るべき場所が増えすぎる。
志乃へ砲弾。
市へ銃撃。
睦美の背後でドローンが光る。
大伍の視線が、一瞬だけ揺れた。
その瞬間、防御に亀裂が入る。
「っ、しま――」
爆風が大伍を吹き飛ばした。
「守る対象を増やせば増やすほど、防御の精度は落ちる。難儀なものだな」
軍服の大男が低く笑った。
「俺も名乗ろうか。黎明会幹部、ベテルギウス。能力は兵器錬成」
志乃が走ろうとする。
「動かない方がいい」
眼鏡の青年が言った。
志乃の足が止まる。
「三歩で右足。四歩で首」
床に、細い赤い線が走っていた。
レーザーサイト。
気づいた時には、もう遅い。
「黎明会幹部、デネブ。能力は演算予測。君たちの能力、性格、癖、判断速度。すべて計算済みです」
「……読まれてる」
弥次が歯を食いしばる。
「俺たちの動き、全部」
数分前の一方的な蹂躙から一転、世界最強の部隊は、たった四人の異能犯に崩されつつあった。
その時だった。
更なる災厄が施設に降り立つ。
「お、もう終わりかけ?」
声の方へ視線を向けると、誰もいなかったはずの部屋の隅に、一人の青年が座っていた。
「でも意外にしぶといね。政府の犬のくせにやるじゃん」
ゆるい笑み。
柔和な瞳。
近所の小道を散歩でもするかのような軽い足取り。
この戦場で唯一、警戒心を抱かせないようなその風体に、六人が身構える。
弥次が目を凝らす。
「……見えない」
「弥次?」
「いや、見えてる。でも、変だ。あいつだけ、姿がブレてる」
「じゃ、終わりで」
そう言うと、青年は右手を軽く上げた。
次の瞬間。
世界が止まった。
音が消える。
炎が止まる。
血の雫が空中に浮く。
弾丸が、瞬きの途中で凍りつく。
黎明会の幹部達も特務課の六人も動けない。
青年だけが、止まった世界を歩いていた。
爆発の破片の先に、市と弥次を運ぶ。
大伍の防御が届かない角度に砲弾をずらす。
睦美の足元に拘束具を転がす。
時間が動き出した瞬間に、5人は死ぬ。
青年が、再び腕を振り上げ世界が動き出す。
その直前。
銃声が響いた。
一発ではない。
連続する銃声。
今まさに六人の命を刈り取ろうとしていた爆弾の破片が、砲弾が、一直線に伸びる弾道によって精密に弾き落とされる。
あり得ない光景だった。
「間に合いましたか」
六人の表情が変わる。
驚きではない。
安堵だった。
市が、その名を呼ぶ。
「零」
大伍が血を吐きながら笑った。
「隊長……遅かったな」
青年の目が輝く。
「ああ」
黎明会側の誰かが、息を呑んだ。
青年は楽しそうに笑った。
「やっぱりいたんだね。最強の異能力者集団、特務課幻の七人目」
零は、答えなかった。
ただ、銃口を上げる。
「ここから先は、私がお相手します」
黒い影が、床を這った。
兵器が、照準を変えた。
狐面の男の尾が揺らめく。
眼鏡の青年が、何かを呟く。
零は、そのすべてを見ていた。
思考加速。
一秒を十秒に。
十秒を一分に。
一分を一時間に。
世界が、遅くなる。
最初に撃ち抜いたのは、大伍を苦しめていた無数の兵器だった。
高速で撃ち出された弾丸が、寸分の狂いもなく銃口へ吸い込まれていく。
機銃。
砲塔。
無人戦車。
ドローン。
それぞれの武装が火を噴くより早く、銃口の奥で弾丸が炸裂した。
連鎖する爆発。
大伍に向けられていた死角だらけの包囲網が、一瞬で崩れ落ちる。
次に、黒い影の群れを踏み越え、その中心を撃つ。
影が弾けた。
狐面の男が指を動かすより早く、零のナイフが宙を裂いた。
何かが割れる音がした。
仁菜の通信が戻る。
「……外、通った」
眼鏡の青年が後退する。
「予測が――」
その言葉は最後まで続かなかった。
零の銃口が、青年の額に触れていた。
「遅い」
数秒。
ただの数秒で、謎の組織の幹部たちは床に沈んだ。
残ったのは、先程時間を止めた青年だけだった。
「すご」
軽い口調のまま、青年は笑った。
「化け物め」
「君のように強力な異能力者に言われると光栄です」
零は短く答え、ナイフを抜いた。
青年の右手が再び動く。
腕を振り上げる動作。
零は、その腕を狙って踏み込む。
青年が笑みを深める。
「気づいちゃった?」
「それが発動のトリガーなのでしょう。それくらいは一度見れば分かります」
腕を上げさせない。
それだけを徹底すれば、時間停止は発動しない。
零の刃が、青年の肩口を裂いた。
青年が後退する。
右腕を上げようとするたびに、零の銃弾がその軌道を潰す。
一見、零が優勢だった。
だが。
「……っ」
零の膝が、わずかに落ちた。
指先が痺れる。
視界の端が滲む。
呼吸が浅くなる。
青年は、その変化を見逃さなかった。
「効いてきた?」
奥で倒れていた眼鏡の青年が、血を吐きながら笑った。
「普通に呼吸しているだけなら、まだ効かない量だ。やっぱり運動量、凄いんだね」
零は答えない。
「動けば動くほど、状況は不利になるよ」
眼鏡の青年は笑う。
「君の速さは、毒の回りを早める」
零は、わずかに笑う。
「なるほど。大気中に微量の神経毒を撒いたわけですね。これは確かに、一本取られました」
右手が振り上がる。
今度は、零の身体が一瞬だけ遅れた。
「残念でした」
世界が、再び止まった。
止まった時間の中で、青年は深く息を吐く。
「なかなか頑張ったじゃん。僕の下位互換のくせに」
彼は床に落ちていた爆弾を拾い上げる。
そして、六人の中心へ置いた。
「じゃーん。ベテルギウスの作った特製爆弾。起動条件は、僕が腕を振り上げること」
青年は笑う。
「じゃあ今度こそ、さよなら」
時間を戻そうとした。
その瞬間。
零が動いた。
止まった世界の中で。
青年の顔から、笑みが消える。
「……は?」
零は、一歩踏み出した。
「あなたの異能の弱点は、分かりました」
「なんで動けるの」
「止めた時間の中で、あなたは直接人を殺せない」
零は言う。
「最初から不思議だったんですよね。どうせ殺すなら、止まった時間の中で銃なりナイフなりで殺せばいい。なのに、なんでわざわざリスクの高い時間停止の解除をしてから殺そうとするのか」
「それより、なんで動けるんだよ」
「初めは、止まった時間の中で動かせるものは自分の体だけなのかと思いました。しかし、あなたは初めに私の仲間を攻撃線上に運んでいた。爆弾の起動スイッチも押せた」
零は、静かに続ける。
「つまり、あなたが止めているのは現実そのものではない。限りなく引き延ばされた、現実に干渉するための別領域。そこに引き込まれたものだけは、この中で自由に動ける」
青年の表情が歪む。
「だから、なんで動けるんだよ」
「私の異能は、思考を加速することですから」
零は淡々と言った。
「思考を、この時間軸に引き込まれるほど加速させました」
思考加速。
それを、さらに加速する。
止まった時間。
引き延ばされた別領域。
そこに、思考だけでなく、自分の身体そのものを無理やり同期させる。
心臓が悲鳴を上げた。
血管が焼けるように熱い。
視界が黒く染まる。
身体が、内側から壊れていく。
それでも、零は動いた。
青年が初めて後ずさる。
「いや、無理でしょ。それ、人間がやっていいことじゃないって」
「よく言われます」
零は、ナイフを握り直した。
あと一歩。
あと一歩で、青年の喉に届く。
その瞬間、青年は自ら能力を解除した。
時間が動き出す。
音が戻る。
炎が揺れる。
銃弾が落ちる。
爆弾の起動音が響く。
零の身体が、大きく傾いた。
毒が回った。
心臓が限界を超えた。
血が喉から溢れる。
青年は、床を転がるように距離を取った。
「は、はは……死ぬかと思った」
そして、震える手で再び右腕を上げようとする。
「今度こそ、終わり」
だが、零は笑った。
「ええ」
彼の手の中には、小型の起爆装置があった。
青年の顔色が変わる。
「それ……」
「施設内部の爆薬です。これもあの男のお手製でしょう。制御室で少し借りました」
眼鏡の青年が目を見開く。
「まさか、最初から……」
「撤退できない場合の保険です」
零は、震える指で起爆装置を握る。
青年が右腕を振り上げようとした。
時間停止で逃げるために。
だが零は、最後の力でその腕を撃ち抜いた。
銃声。
青年の右腕が跳ねる。
「っ、ああああああああ!」
「大伍!」
零が叫んだ。
「全員を守ってください!」
大伍は、血まみれの身体を引きずって立ち上がる。
「言われなくても……!」
市が、志乃を引き寄せる。
睦美が弥次を抱えて、大伍の背後へ飛ぶ。
通信の向こうで、仁菜が叫んでいる。
絶対防御が展開される。
その瞬間、零は胸を押さえた。
心臓が、止まりかけていた。
「零!」
市が叫ぶ。
零は振り返らなかった。
ただ、ほんの少しだけ笑った。
「生きて」
起爆装置が押し込まれる。
白い光が、施設最深部を呑み込んだ。
爆音。
熱。
瓦礫。
すべてが弾け飛んだ。
大伍の絶対防御が、仲間たちを守る。
だが防御の外にいた零の姿は、爆炎の中へ消えた。
数秒後。
崩れ落ちた施設の中で、ナンバーズの六人だけが残っていた。
市は、焼け焦げた瓦礫へ手を伸ばす。
「零……?」
返事はなかった。
仁菜の通信は途切れている。
弥次の万里眼にも、彼の姿は映らない。
志乃が血まみれの手で瓦礫を掻き分ける。
大伍は何度も立ち上がろうとして、膝をつく。
睦美は呆然とした表情で、戦斧を取り落とした。
その日。
異能犯罪対策局・特務課は、黎明会の拠点を壊滅させた。
作戦参加者は六名。
市。
仁菜。
弥次。
志乃。
大伍。
睦美。
六名全員、生還。
公式記録には、そう残された。
だが、その場にいた六人だけは知っていた。
記録に残らない七人目がいたことを。
そして、その男が最後まで自分たちを守り、爆炎の中に消えたことを。
◇
数か月後。
「黒瀬、次の問題を読め」
教師の声に、少年はゆっくりと顔を上げた。
東京第一異能高校。
二年三組。
窓際の席。
どこにでもいる、少し眠そうな男子生徒。
黒瀬零は眼鏡を押し上げると、教科書を持ち上げ、何事もなかったように立ち上がる。
「はい」
かつて零と呼ばれた最強の異能力者は、今、普通の高校生として生きていた。




