第五話 叔父の迷い
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織田信雄は、眠れずにいた。
夜更けの清洲城。
障子の向こうから、かすかな風の音が聞こえる。
信雄は一人、灯りの前に座っていた。
目の前には、一枚の書状。
羽柴秀吉から届いたものだった。
何度読んでも、答えは出ない。
「……三法師のため、か」
信雄は小さく呟いた。
*
本能寺の変から、まだ一年も経っていない。
それなのに。
織田家を取り巻く景色は、まるで別物になっていた。
父、織田信長が死んだ。
兄、信忠も死んだ。
そして、信長の嫡孫である三法師が残された。
清洲会議で、その三法師が織田家の後継者として定められた。
信雄に異論はなかった。
むしろ、当然だと思っていた。
兄上の嫡男なのだから。
信長公の嫡孫なのだから。
織田家の血筋を継ぐ者として、これ以上ふさわしい者はいない。
問題は。
その三法師が、まだ二歳だったことだ。
「三法師様をお支えいたします」
清洲でそう言ったのは、羽柴秀吉だった。
信雄は、その言葉を覚えている。
秀吉は笑っていた。
人懐っこい笑顔だった。
だが。
信雄には、その笑顔の奥にあるものが見えていた。
秀吉は強い。
山崎で明智光秀を討ち。
その勢いのまま織田家の中で発言力を増している。
それでも、あの頃の信雄は思っていた。
今は秀吉の力を借りるしかない。
三法師を守るためには。
織田家を守るためには。
だから、秀吉を警戒しながらも、手を組むしかなかった。
*
だが。
秀吉の勢力は、信雄が思っていた以上の速さで膨らんでいった。
そして1583年。
賤ヶ岳。
柴田勝家と羽柴秀吉が激突した。
信雄は、その戦況を遠くから聞いていた。
「羽柴勢、優勢!」
「柴田様が押されております!」
「前田勢が動きました!」
「北ノ庄へ退かれたとのこと!」
次々と届く報告。
信雄は地図を見つめていた。
そして。
「……勝家殿が」
敗れた。
北ノ庄で勝家が死んだ。
信雄は長く黙っていた。
父・信長の時代から織田家を支えてきた男。
その一人が消えた。
代わりに。
秀吉が、さらに大きくなった。
もはや秀吉は、
「織田家の有力家臣」
と呼ぶだけでは足りない。
織田家の外側にまで、自分自身の勢力を築き始めていた。
「……このままでは」
信雄は拳を握った。
織田家が。
父の家が。
秀吉の家臣団に呑み込まれてしまう。
*
それからだった。
信雄のもとへ、様々な話が届くようになった。
「羽柴殿は、織田家をないがしろにしている」
「羽柴殿は、三法師様を利用している」
「三法師様を支えるという名目で、織田家の家臣を取り込んでいる」
どこまで本当なのか。
信雄には分からなかった。
だが。
確実に一つだけ言える。
秀吉の勢力は大きくなっている。
それに対して。
織田家そのものは、まとまっていない。
信雄。
信孝。
三法師。
それぞれの周囲に人が集まり。
家臣たちも、それぞれの思惑で動いている。
「父上なら……」
信雄は呟いた。
父、信長なら。
こんな状況をどうまとめただろうか。
信雄には分からなかった。
*
そんな信雄の前に。
一人の男が現れた。
「織田様」
「何者だ」
「徳川家康様の使者にございます」
「……家康」
その名前に、信雄は顔を上げた。
徳川家康。
信長と長年同盟を結んでいた男。
三河を治め、武田との戦いを生き抜いた。
そして今。
秀吉に対抗できるだけの力を持つ。
使者は頭を下げた。
「徳川様は、織田家の現状を大変憂慮されております」
「……」
「特に、三法師様の御身を」
信雄の目が細くなった。
「三法師を?」
「はい」
使者は続けた。
「信長公が築かれた織田家を、羽柴殿が自らの勢力に取り込もうとしている」
「……」
「このままでは、三法師様も羽柴殿の意のままになりましょう」
信雄は黙って聞いていた。
腹立たしかった。
だが。
否定できない。
秀吉は三法師を守っている。
それは事実だ。
しかし同時に。
三法師を自分の政治的な正統性に利用しているようにも見える。
「徳川殿は、何と?」
「織田家のためならば、力をお貸しする、と」
信雄は顔を上げた。
「織田家のために?」
「はい」
その言葉が。
信雄の胸に深く入った。
*
それから、家康との距離は少しずつ近づいていった。
家康は巧みだった。
秀吉を罵らない。
信雄に「秀吉と戦え」と直接迫るわけでもない。
ただ。
「織田家を守る」
「三法師様を守る」
「信雄様をお支えする」
そう繰り返す。
信雄は、それを聞くたびに思った。
この男なら。
信長公の残した織田家を守ってくれるのではないか。
自分では守り切れないものを。
家康なら。
「……徳川殿ならば」
信雄はそう考えるようになった。
*
信雄には、忘れられないものがあった。
三法師の小さな手。
あの子を初めて抱き上げたときの軽さ。
信忠の面影を残した顔。
「三法師……」
信雄は、三法師の部屋を訪れた。
中では、三法師が遊んでいた。
小さな木の玩具を並べている。
「三法師」
「……信雄?」
信雄が笑う。
「そうだ」
三法師がこちらへ歩いてくる。
まだ少し足元がおぼつかない。
信雄はしゃがみ込み、三法師を抱き上げた。
「大きくなったな」
「おっきくなった?」
「大きくなった」
信雄は三法師の顔を見る。
「お前は、織田家の子だ」
「……うん」
「信長公の孫だ」
「じいじ?」
信雄の胸が詰まった。
「そうだ」
信雄は三法師を抱きしめた。
「お前の祖父だ」
しばらく、何も言わなかった。
やがて信雄は、静かに言った。
「安心しろ」
「……?」
「私が、お前を守る」
三法師は不思議そうに信雄を見る。
「織田家も守る」
それは。
信雄自身への誓いでもあった。
*
そして1584年。
ついに、信雄は決断する。
秀吉と戦う。
その背後には。
徳川家康がいる。
「徳川殿と組めば、羽柴殿に対抗できる」
そう考えた。
秀吉は織田家を飲み込もうとしている。
家康は織田家を守ろうとしている。
信雄には。
そう見えていた。
だから。
戦う。
三法師を守るために。
織田家を守るために。
*
だが。
戦は思うように進まなかった。
小牧・長久手。
徳川軍は強かった。
秀吉も強かった。
戦場では一進一退が続く。
だが。
信雄の領地は疲弊していく。
家臣たちも疲れていた。
農民たちも疲れていた。
そして。
信雄自身が疲れていた。
「このままでは……」
勝てるのか。
その疑問が、初めて頭をよぎった。
*
そこへ。
秀吉から使者が来た。
「羽柴様からの御書状にございます」
信雄は受け取った。
封を切る。
読み進める。
そして。
手が止まった。
「……これを」
信雄は低く呟いた。
「本当に秀吉が?」
書状には。
和睦の条件が書かれていた。
戦を終わらせる。
織田家の領地を荒らさない。
三法師の身の安全を保障する。
そして。
最後の条件。
「織田家の実権を……私から譲れ、か」
信雄は目を閉じた。
秀吉は。
三法師を後継者として認める。
だが。
幼い三法師に政治はできない。
だからこそ。
信雄が握っている織田家の実権を手放すことを求めている。
つまり。
信雄が退けば。
織田家の政治を誰が動かすのか。
答えは明らかだった。
秀吉。
「……」
信雄は書状を握り締めた。
これは和睦ではない。
織田家の主導権を。
秀吉に渡せという話だ。
*
翌日。
家康のもとへ使者を送った。
しばらくして返事が来る。
「徳川様は、和睦に反対されております」
信雄は目を閉じた。
「理由は?」
「ここで織田家が羽柴殿に屈すれば、二度と織田家の主導権を取り戻すことはできぬ、と」
「……そうだな」
信雄にも分かっていた。
家康の言うことは正しい。
ここで秀吉に実権を渡せば。
織田家は名ばかりになる。
三法師が大人になったとき。
すでに織田家というものが残っていない可能性すらある。
「戦うしかない」
家康はそう言っている。
信雄にも。
それが正しいように思えた。
だが。
*
信雄は一人、三法師の顔を思い浮かべた。
まだ小さい。
自分の名前すら、まだうまく書けない。
歩くことだって、まだおぼつかない。
そんな子供を。
大人たちの争いに巻き込んでいる。
「……私が戦えば」
三法師はどうなる。
戦が長引けば。
織田家の領地は荒れる。
家臣は減る。
兵も減る。
そして。
もし秀吉が勝てば。
三法師は。
「路頭に迷うのではないか」
その言葉が。
信雄の胸に突き刺さった。
織田家の実権を失うこと。
それは。
信雄自身にとっては敗北だ。
だが。
三法師にとっては。
命と生活を失うことになるかもしれない。
「……私は」
信雄は頭を抱えた。
何のために戦っている?
織田家のため。
三法師のため。
だが。
その戦いによって。
三法師を苦しめているのではないか。
*
家康から再び書状が届いた。
『ここで和睦してはならぬ』
短い言葉だった。
『織田家のために、今こそ戦うべきである』
信雄は書状を握った。
「家康殿……」
この男を裏切るのか。
自分から頼った。
共に戦ってほしいと願った。
それなのに。
自分だけ秀吉と和睦する。
そんなことをすれば。
家康との関係は終わる。
だが。
「三法師を……」
守らなければならない。
信雄は立ち上がった。
夜だった。
家臣たちは眠っている。
静かな城内。
信雄は秀吉からの書状を手に取った。
「……和睦する」
小さく呟いた。
家康には。
まだ言わない。
言えば止められる。
だから。
明朝。
使者を出す。
信雄はそう決めた。
*
その夜。
信雄は一人で庭に出た。
月明かりが庭を照らしている。
「父上……」
織田信長。
「兄上……」
織田信忠。
もし二人が生きていれば。
こんなことにはならなかった。
自分が。
織田家を背負う必要もなかった。
まして。
まだ二歳の三法師に。
こんな運命を背負わせる必要もなかった。
「……すまぬ」
誰に向けた言葉なのか。
信雄自身にも分からなかった。
そのとき。
背後から。
小さな足音がした。
ぺた。
ぺた。
ぺた。
「……?」
信雄が振り返る。
「三法師?」
三法師が立っていた。
夜着姿。
髪も少し乱れている。
そして。
両手に何かを抱えている。
「三法師、どうした?」
三法師は答えない。
よろよろと歩いてくる。
信雄が近づこうとすると。
「……待って」
「ん?」
三法師が両手を差し出した。
紙。
書状。
一枚ではない。
二枚。
三枚。
五枚。
十枚。
小さな腕で抱えきれないほどの書状を。
三法師は一生懸命に抱えていた。
「……これは?」
信雄が受け取る。
一番上の書状を見る。
「丹羽……?」
信雄の眉が動いた。
次の書状。
「滝川……」
さらに。
「前田……?」
信雄は息を呑んだ。
最後の一枚を手に取る。
そこに記されていた名を見て。
完全に言葉を失った。
「……上杉」
上杉家。
なぜ。
三法師が。
こんな書状を持っている。
信雄は三法師を見る。
「お前……」
三法師は小さな胸を張った。
「叔父さん」
「……何だ?」
「これ」
三法師が書状を指差す。
「ぼくの、おてがみ」
信雄は動けなかった。
戦うか。
和睦するか。
織田家を守るために。
三法師を守るために。
今夜。
自分が一人で決断しようとしていた。
ところが。
その三法師自身が。
何通もの書状を抱えて。
自分の前に立っている。
「……三法師」
信雄の声が震えた。
「お前は……一体、何をしていた?」
三法師は少し考えて。
小さな声で答えた。
「……ぼく、しんじゃうから」
「……え?」
「だから」
三法師は。
自分の胸を指差した。
「なかま、つくった」
信雄は。
目の前の小さな甥を見つめた。
その夜。
信雄はまだ知らなかった。
この書状の束が。
自分がこれから下そうとしていた決断を。
そして。
織田家そのものの未来を。
大きく変えることになるとは。
最後までお読みいただきありがとうございます。
いかがだったでしょうか。
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また、おかまバー〈ゴールデン戦国〉の夜話 ― 推し義龍様と転生ママ ―も連載中です。
そちらもよろしかったらご一読ください。




