第四話 叔父さん、騙されてませんか?
清洲を離れてから、しばらくの間。
俺の生活は、拍子抜けするほど平和だった。
飯を食う。
寝る。
起きる。
歩く。
転ぶ。
また歩く。
そして、大人たちの話を聞く。
二歳児としては、これ以上ないほど普通の生活だった。
ただし。
俺の周囲にいる大人たちは、普通ではなかった。
羽柴秀吉。
柴田勝家。
丹羽長秀。
池田恒興。
そして。
織田信雄。
歴史の教科書に名前が載っているような人間が、普通に歩いている。
俺は時々、変な気分になった。
前世の俺なら。
この人たちを見るために、わざわざ何百キロも車を走らせて取材に行っていた。
今は。
その人たちに飯を食わせてもらっている。
「……人生って分からないな」
二歳児の姿で、そんなことを考えていた。
*
1583年。
大きな戦が起きた。
賤ヶ岳の戦い。
俺は戦場には行っていない。
当然だ。
二歳児が戦場に行って何ができる。
だが、戦況は耳に入ってきた。
「秀吉様が勝たれました!」
そんな声が飛び交う。
「柴田様が敗れた」
「北ノ庄へ退かれた」
「お市様も……」
俺は黙って聞いていた。
柴田勝家。
俺が清洲で見た、あの大きな男。
死んだ。
歴史通りだった。
秀吉の勢力は、一気に大きくなった。
織田家の重臣としてではない。
もはや。
織田家を支える一人の家臣という規模ではない。
秀吉自身が、巨大な権力を持ち始めていた。
「……まずいな」
俺はそう思った。
俺が書いた記事では、秀吉はそのまま天下人になっていく。
そして俺は、その秀吉の庇護を受ける。
つまり。
俺の人生は、秀吉の勢力拡大と一緒に動いていく。
「三法師様」
秀吉が俺を見る。
「何か心配事でも?」
「……ひでよし」
「はい?」
俺は秀吉の顔を見る。
この男が。
これから日本をほとんど手中に収める。
そのことが、急に怖くなった。
「なんでもない」
俺は笑った。
今は。
まだ。
*
その頃から。
俺は信雄と会う機会が増えた。
信雄は俺をよく気にかけてくれた。
俺の父。
織田信忠。
そして祖父。
織田信長。
二人を失った信雄にとって、俺は兄の子であり、信長の嫡孫だった。
「三法師」
信雄は俺を抱き上げる。
「大きくなったな」
俺は信雄の顔を見る。
まだ大きくなっていない。
二歳なのだから。
でも。
信雄は本当に嬉しそうだった。
「兄上が生きておられたら、さぞ喜ばれただろう」
俺は何も言えない。
信雄の顔を見る。
「お前は織田家の子だ」
信雄は俺の手を握った。
「誰に何と言われようと、それだけは忘れるな」
俺は小さく頷いた。
「……うん」
その言葉は。
なぜか強く胸に残った。
*
秀吉は勢力を拡大していった。
俺が二歳から三歳になる頃には。
もう。
「羽柴様」
という言葉を聞くことが増えていた。
昔は。
「織田家の家臣」
だったはずの秀吉が。
周囲から独立した大きな勢力として扱われ始めている。
俺はそれを見ていた。
「……これが天下人になる前の秀吉か」
俺の知っている秀吉は、教科書の中の人物だった。
だが。
今目の前にいる秀吉は。
よく笑い。
よく喋り。
人の懐に入り。
必要なら容赦なく決断する。
そして。
俺には優しい。
それが。
余計に怖かった。
*
やがて。
秀吉と信雄の関係がおかしくなってきた。
俺は詳しいことを知らない。
記事には、そこまで細かく書かなかった。
ただ。
秀吉と信雄が対立する。
そして。
信雄が徳川家康と手を組む。
小牧・長久手。
それだけは知っていた。
「……家康?」
俺は眉をひそめた。
徳川家康。
後の天下人。
関ヶ原の勝者。
俺にとっては。
将来、最も重要な人物の一人になる。
そして今。
信雄が、その家康と接触していた。
*
ある日。
信雄が俺のところへ来た。
顔が険しい。
「三法師」
「はい」
「秀吉は、織田家を飲み込もうとしている」
俺は黙った。
「……」
たしかに。
そう見えなくもない。
秀吉は織田家の重臣から、急速に勢力を拡大している。
「父上が築いた織田家を、あの男の好きにさせるわけにはいかぬ」
信雄の声には、強い感情があった。
俺は信雄を見る。
「でも……秀吉は俺を守ってくれてる」
そう言いたかった。
だが。
二歳児なので、うまく言葉にならない。
「ひでよし……いいひと」
信雄が少し驚いた。
「そうか」
そして。
苦しそうに笑った。
「お前には、そう見えるか」
俺は頷いた。
信雄は俺の頭を撫でた。
「三法師」
「はい」
「秀吉が優しいのは、お前が織田家の正統だからだ」
俺は黙った。
「お前自身を見ているのではない」
その言葉に。
少しだけ胸が痛んだ。
でも。
信雄の言うことが間違っているとも思えなかった。
*
そして。
信雄の周囲に、徳川家康の名前が出始めた。
「家康殿なら、織田家を守ってくれる」
「三法師様の立場も守られる」
「秀吉の専横を止めるには、徳川殿の力が必要だ」
そんな話だった。
俺は聞いていて。
「……本当か?」
と思った。
家康。
未来の天下人。
そんな男が。
なぜ織田家を守る?
もちろん。
今の家康に天下人になる理由なんてない。
信長亡き後。
秀吉が急速に勢力を拡大している。
家康にとっても、それは脅威だ。
だから。
信雄と手を組む。
理屈は分かる。
だが。
「……」
俺は信雄を見た。
信雄は本気だった。
本当に。
織田家を守ろうとしている。
そして。
本当に。
家康を信じ始めている。
*
俺はある夜。
信雄と二人で話した。
もちろん。
正確には、俺は膝の上に座らされている。
「三法師」
信雄が言う。
「私は、お前を守る」
俺は信雄を見る。
「秀吉の好きにはさせない」
「……」
「お前は織田家の子だ」
その言葉。
何度も聞いた。
「織田家は、私が守る」
信雄の目には。
迷いがなかった。
俺は聞きたかった。
「家康を信じていいの?」
でも。
うまく言葉にならない。
「いえやす……」
「うむ」
「いいひと?」
信雄は少し考えた。
「少なくとも、秀吉よりは信じられる」
「……」
俺は複雑な気持ちになった。
それ。
たぶん。
危ない考え方だ。
*
1584年。
ついに。
事態が動いた。
信雄が秀吉と対立する。
俺はその理由を全部理解していたわけではない。
でも。
大人たちの話を聞いているうちに分かってきた。
織田家をどうするのか。
秀吉に従うのか。
織田家独自の道を進むのか。
信雄は後者を選ぼうとしている。
そして。
その背後に。
徳川家康がいる。
「……家康」
俺は呟いた。
まだ見たことのない男。
だが。
俺は知っている。
この男。
ものすごくしぶとい。
そして。
ものすごく頭がいい。
そんな男が。
信雄を支援している。
「……叔父さん」
俺は信雄を見た。
信雄は俺を見る。
「どうした?」
「だいじょうぶ?」
信雄は笑った。
「大丈夫だ」
俺の頭を撫でる。
「心配するな」
その笑顔は。
本当に優しかった。
だからこそ。
俺は余計に不安になった。
*
やがて。
信雄は家康と正式に手を組んだ。
秀吉と戦うために。
小牧・長久手の戦いが始まる。
俺はその知らせを聞いたとき。
愕然とした。
「……本当に始まった」
歴史の教科書に書いてあった出来事。
俺が記事の中で触れた出来事。
それが。
今。
目の前で起きている。
「三法師様」
家臣が俺に声をかける。
「信雄様が出陣されます」
「……」
俺は立ち上がろうとした。
よろけた。
まだ二歳児の身体だ。
「信雄……」
俺は呟いた。
叔父。
織田家の人間。
俺を守ると言ってくれた人。
その人が。
秀吉と戦う。
そして。
徳川家康と組んでいる。
「……違う」
俺は小さく首を振った。
何かがおかしい。
俺の知っている歴史では。
信雄は家康と組んで秀吉と戦う。
だから。
今、起きていることは歴史通りだ。
なのに。
実際に目の前で見ると。
まったく違って見える。
信雄は。
織田家を守ろうとしている。
俺を守ろうとしている。
秀吉に織田家を奪われたくないと思っている。
そんな信雄に。
家康が近づいた。
「織田家を守る」
という言葉を持って。
「……叔父さん」
俺は拳を握った。
「それ、家康の思う壺じゃないのか?」
でも。
信雄には届かない。
もう。
戦は始まる。
*
小牧・長久手。
信雄と家康の軍。
秀吉の軍。
両軍が動き始めた。
俺は戦場から遠く離れた場所にいた。
それでも。
戦が始まったことは分かる。
人が走る。
馬が走る。
兵が集まる。
武具が運ばれる。
町の空気まで変わる。
俺はそれを見ながら。
初めて。
自分が歴史の中にいるということを。
本当の意味で理解した。
今まで。
俺は「歴史を知っている」と思っていた。
でも。
違った。
俺が知っているのは。
本の中の歴史。
記事の中の歴史。
数行でまとめられた歴史だ。
目の前にいる信雄は。
教科書の「織田信雄」ではない。
俺の叔父だ。
俺を抱き上げてくれた。
織田家を守ると言ってくれた。
そんな人間が。
今。
徳川家康という男を信じて。
秀吉と戦っている。
「……」
俺は思った。
家康が悪いとは言わない。
秀吉が正しいとも思わない。
でも。
このままでは。
また。
歴史に俺の人生を決められる。
俺は二歳。
何もできない。
それでも。
一つだけ。
決めた。
「叔父さんを……」
俺は小さな拳を握る。
「死なせない」
小牧・長久手の戦いは。
まだ始まったばかりだった。
そして俺は。
この戦いが終わった後。
信雄が。
家康にとって。
どれほど都合のいい存在になってしまうのか。
まだ知らなかった。




