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第9話 急襲

 陣幕の外が騒がしかった。


 降り続く雨の音に混じって、兵たちの怒声が聞こえてくる。時折、鎧の擦れる音や馬の嘶きまで重なり、先ほどまで一定だった本陣の気配が、少しずつ乱れ始めていた。


 義元は地図へ落としていた目を上げ、陣幕の向こうへ耳を澄ませた。


「何事だ」


 控えていた家臣が外の様子を窺う。


「兵同士の揉め事かと」


「左近は」


「巡見に出ております」


「そうか」


 義元は再び地図へ目を戻した。


 丸根、鷲巣を落とし、織田の前線を押し崩した。信長は善照寺砦へ入り、今川の大軍を前にして動きを止めている。


 ここまでは、ほぼ思惑通りだった。


 だが、外の騒ぎは次第に大きくなっていた。


 先ほどまで遠くに聞こえていた怒声が、今度は本陣のすぐ近くから響く。


 義元は顔を上げた。


 兵が走っている。


 一人ではない。


 幾人もの足音が、雨と泥を蹴りながら近づいてくる。


 家臣も異変に気づいたらしい。


「妙にございますな」


 義元は静かに答えた。


「確かめよ」


 家臣が陣幕へ向かった、その刹那だった。


 陣幕が勢いよく開いた。


 一人の兵が、転がり込むようにして飛び込んでくる。全身を泥にまみれさせ、肩で荒く息をしていた。


「申し上げます!」


 義元は兵を見据えた。


「落ち着け」


 兵は息を整えようとしたが、声の震えを抑えられない。


「敵が……」


「申せ」


 兵は顔を上げた。


「織田勢にございます!」


 陣幕の中から、音が消えた。


 善照寺砦に留まっているはずの織田軍が、この豪雨の中を動いている。


 しかも、すでに本陣の近くまで入り込んでいる。


「馬鹿な……」


 誰かが呟いた。


 義元は答えなかった。


 ただ、陣幕の向こうに降りしきる雨を見つめていた。


 信長の顔が、ふと脳裏に浮かぶ。


 先ほどまで考えていたことが、静かに繋がっていく。


 織田信長という男は、ただ城に籠もって死を待つような者ではない。


 そう言ったのは、自分だった。


 そして今、その言葉を自ら確かめる時が来たのだ。


「左近を呼べ」


 義元はそれだけを告げた。


     *


 その頃、左近は本陣の周囲を巡っていた。


 雨脚はなお激しく、視界は数間先さえ霞んでいる。旗も兵の姿も雨幕の向こうへ溶け、目だけでは何が起きているのか判然としない。


 左近は足を止めた。


 雨音の向こうから、かすかな悲鳴が聞こえた。


 目を閉じ、耳を澄ます。


 雨を切り裂く足音。


 鎧の擦れる音。


 そして、短い叫び声。


 左近はゆっくりと目を開いた。


「……近い」


 次の瞬間、雨の向こうで今川兵が一人倒れた。


 さらに、そのすぐ後ろでも別の兵が崩れ落ちる。


 霞む雨幕の奥から、無数の影が駆け下りてきた。


 左近は反射的に刀を抜いた。


「敵襲――!」


 声が豪雨を突き抜け、本陣へ響き渡る。


 陣幕の中でも、家臣たちが一斉に動き始めた。


「殿! ここは我らが支えますゆえ、どうかお下がりくだされ!」


 義元は答えなかった。


 陣幕の隙間から外を見つめている。


 本来ならば前へ向かうはずだった兵たちが、次々と本陣へ押し戻されていた。旗が乱れ、足がもつれ、雨と泥に足を取られながら、戦列そのものが崩れ始めている。


 義元は、その光景を静かに見た。


「……遅いか」


 そして、太刀へ手を掛ける。


「兵を立て直せ」


 低い声だった。


「ここを崩すな」


 家臣たちが一斉に動いた。


 左近もまた、義元の前へ進み出る。


「はっ」


 刀を構え、雨の向こうへ目を凝らした。


 無数の影が迫ってくる。


 最初は、ただの黒い塊にしか見えなかった。


 だが、少しずつ輪郭が現れる。


 槍。


 具足。


 馬。


 そして、その先頭を駆ける織田の兵たち。


 織田勢が、雨と泥を蹴散らしながら本陣へ迫ってくる。


 今川の兵が槍を構え直した。


「殿をお守りしろー!」


 左近の声が響く。


 近習たちが義元の周囲へ集まり、槍が立ち、刀が抜かれた。


 だが、織田勢の勢いは止まらない。


 その時、織田の兵の叫び声が辺り一面に鳴り響いた。


「義元がいたぞー!」

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