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第8話 今川義元

 沓掛城の門が静かに開いた。


 降り続く雨の中、今川の旗がゆるやかに揺れている。その後ろを義元の輿が進み、近習や旗本が静かに付き従い、さらにその後方には、途切れることなく兵が続いていた。


 先に丸根、鷲巣へ向かった部隊とは別に、本隊は乱れなく街道を進んでいる。


 輿の中で、義元は簾越しに雨を眺めていた。


 雨の日は嫌いではなかった。


 幼い頃、寺の縁側から眺めた雨を思い出す。


 武家に生まれながら家督とは無縁の身として寺へ入り、梅岳承芳と名乗っていた頃のことだった。


 師である太原雪斎は、兵法だけを教えたのではない。


 国を治めること。


 人を用いること。


 そして、敵より先に己を知ること。


 若き日の義元は、そのすべてを学んだ。


 花倉の乱が運命を変え、再び武門へ戻ることになった時も、その教えは胸に残っていた。


 家督を継いでから幾年。


 駿河と遠江をまとめ上げ、武田、北条とは刃を交えるだけでなく盟を結び、西へ兵を向ける礎を築いた。


 その先にあるのが、尾張だった。


 馬の蹄が近づいてきた。


 伝令が輿の脇で膝をつく。


「申し上げます。丸根、鷲巣、両砦。攻略、滞りなく完了いたしました」


 義元は静かに頷いた。


「将兵に労を伝えよ」


「はっ」


 伝令は頭を下げ、雨の中へ戻っていった。


 軍勢は歩みを緩めない。


 やがて、別の伝令が駆け寄ってきた。


「申し上げます。織田信長、本隊を率い善照寺砦へ入ったとのこと」


 義元の傍らを進んでいた家臣が口を開いた。


「ようやく動きましたか。信長はうつけと名高い男。善照寺にて迎え撃つ腹でしょう」


 別の者も続ける。


「父信秀の葬儀では焼香を投げつけ、美濃では道三公の前へ奇妙な姿で現れたとも聞きます」


 義元は笑わなかった。


 ただ、家臣たちへ静かに目を向けた。


「人は、見たいものだけを見る」


 その一言で、家臣たちは口を閉じた。


「もし、ただのうつけであれば」


 義元は雨の向こうへ目を向ける。


「尾張をここまでまとめられようか」


 しばしの沈黙があった。


 やがて、義元が言葉を続ける。


「三河の者から聞いた。信長は槍を常より長く持たせておるそうだ」


「長柄など、扱いづらいだけではございませぬか」


「そう思う者が多いからこそ、試す価値がある」


 穏やかな声だった。


「種子島も惜しまず集めていると聞く」


 義元は簾の向こうを見つめた。


「新しきものを笑う者は多い。しかし、それを戦に用いようとする者は少ない」


 家臣たちは黙っていた。


 義元はしばらく雨を眺めてから、ふと問いを投げた。


「そなたなら、信長の立場であればどうする」


 突然の問いに、家臣は考え込む。


「……兵の差は歴然にございます。されば砦へ拠り、機を待つかと」


 義元はわずかに笑った。


「それも一つの道よ」


 そして前を向いた。


「だが、人とは追い詰められた時ほど、常道を捨てるものでもある」


 しばらく、雨音だけが続いた。


「織田信長という男は、ただ城に籠もって死を待つような者ではない」


 その声に、不安も高ぶりもなかった。


 幾つもの戦を越え、国を治め、人の生死を見つめてきた男だけが持つ、静かな確信があった。


 家臣の一人が、ふと口を開く。


「殿は随分と信長を買っておられるんですな」


 義元は、その言葉にすぐには答えなかった。


 雨の向こうを見つめたまま、しばらくして静かに言う。


「買っておるのではない」


 一拍置く。


「侮らぬだけだ」


 誰も異を唱えなかった。


 雨脚が、少しずつ強くなる。


 義元は簾をわずかに上げた。


 遠くまでは見えない。


「左近」


 輿の傍らを進んでいた武者が応じる。


「は」


「兵の様子はどうだ」


 左近は周囲へ一度だけ目を走らせた。


「疲れは見えませぬ。丸根、鷲巣より戻る兵も士気高く、本隊にも乱れはございません」


 義元は静かに頷いた。


「そうか」


 左近が続ける。


「この雨にございます。敵も動けますまい」


 義元は雨空を見上げた。


「そう願いたいものだな」


 その言葉に、左近はわずかに眉を動かした。


 義元はそれ以上、何も言わなかった。


 やがて、前方の景色が少しずつ変わっていく。


 木々の向こうに、桶狭間が見え始めていた。


「間もなく桶狭間にございます」


 近習の声が響く。


 義元は簾を少し上げ、雨に煙る景色を眺めた。


「ここでよい」


 命が下る。


 兵たちは手際よく動き始めた。


 旗が立つ。


 陣幕が張られる。


 輿を降りた近習たちが周囲を整え、その間にも兵たちは次々と配置についた。


 ほどなくして、雨の中に今川本陣が姿を現した。


 義元は陣幕の内から、その様子を静かに見ていた。


 大軍が、自分の命のもとに動いている。


 その顔に、驕りはなかった。


 ただ、すでに幾度も戦場を越えてきた者だけが持つ、容易には揺らがぬ眼差しがあった。


 義元は再び雨の向こうを見る。


 その先にいるはずの男を思い浮かべながら、誰にも聞こえぬほど小さく呟いた。


「信長よ。そなたには何が見えておる」

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