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第7話 雨中の進軍

 豪雨は、なお激しさを増していた。


 雨粒が絶え間なく鎧を叩き、視界を白く塗り潰している。前を進む兵の姿さえ霞み、数間先にいるはずの者が、時折、雨の向こうへ消えてしまうほどだった。それでも軍勢は止まらない。


 泥を蹴る馬の蹄が地面を打ち、濡れた鎧の擦れる音が重なっている。兵たちは互いの姿を確かめることもできず、わずかに聞こえる足音や馬の気配だけを頼りに、前を進んでいた。


 新介も槍を手に歩いていた。


 冷たい雨が頬を打つ。手の中の柄は濡れて滑りやすく、握り直すたびに、戦場へ近づいていることを実感させられた。


 声を上げても、雨音に消される。


 だから誰も余計なことを言わなかった。


 ただ、前へ進む。


 それだけだった。


 先頭を進んでいた信長が、不意に馬を止めた。


 その動きに合わせ、後ろの兵たちも次々と足を止めていく。豪雨の中を進んでいた軍勢が止まると、雨音だけが異様なほど大きく聞こえた。


 信長が振り返る。


 雨に濡れた顔を、後ろに並ぶ兵たちへ向けた。


「首は打ち捨てにすべし」


 新介は眉を動かした。


 周囲でも、わずかに兵たちの気配が揺れる。


 首を取らない。


 武士にとって、それは決して当たり前の命ではなかった。


 敵を討てば、その首を取る。誰が誰を討ったのかを示し、武功として持ち帰る。それが戦場で功を立てる者の務めだと、新介も幼い頃から聞かされてきた。


 だが、信長はその首を捨てろと言う。


 家臣の一人が何かを尋ねようとした。


 しかし、信長はすでに前を向いていた。


 それ以上の説明はない。


 馬首が巡る。


 信長が再び進み始めると、兵たちも黙ってその後へ続いた。


 小平太が、雨の向こうを見たまま低く呟いた。


「……首を取るなってことか」


「そうだろうな」


「寄り道するなってことだよな」


 新介は少し考えた。


「……そうかもしれない」


 首を取れば、その場で立ち止まる。敵を追えば、進むべき場所から離れる。この雨の中では、目の前の敵よりも、進むべき道を見失うことの方が危ういのかもしれなかった。


 新介は前を見た。


 信長は何を見ているのだろう。


 自分たちには見えない何かを、あの男だけは見ている。


 そのことが、新介には少しだけ恐ろしく、同時に頼もしくも思えた。


 しばらく進むと、雨の向こうに黒い影が浮かび上がった。


 最初は木々かと思った。


 だが、近づくにつれて、その正体が少しずつ見えてくる。


 木々の間に、陣幕が張られていた。


 風に煽られた幕が大きく揺れ、その奥には何本もの旗が立っている。雨に濡れた布が重そうに垂れ下がり、それでも風が吹くたびに、その紋が一瞬だけ姿を現した。


 新介は目を凝らした。


 そして、息を呑む。


 今川の旗だった。


 胸の奥で、鼓動が大きく鳴った。


 隣にいた小平太も、何も言わず前を見つめている。


 先ほどまで耳を塞いでいたはずの雨音が、急に遠くなったような気がした。


 あの陣幕の向こうに、敵がいる。


 それも、ただの敵ではない。


 この軍勢が追ってきた、その中心がいる。


 新介は槍を握り直した。


 掌に伝わる冷たさが、かえって頭を醒ましていく。


 信長が右手を上げた。


 軍勢が止まる。


 雨の向こうで、陣幕が揺れている。


 その奥には、人の気配があった。


 新介は目を細めた。


 雨に霞む旗。


 陣幕。


 その向こうに並ぶ武者たち。


 さらに奥には、ひときわ静かに佇む影がある。


 何者なのか。


 まだ、はっきりとは見えない。


 それでも新介には分かった。


 ここにいる。


 信長が静かに手を下ろした。


 次の瞬間、新介の目に、陣幕の奥から姿を現した一人の武者が映った。


 その背後には、さらに多くの兵が続いている。


 そして、その中央に――。


「見えた!」


 小平太の声が雨を切った。


 新介は槍を握り直した。


 目の前に、今川の軍勢がいる。


 その向こうに、敵の大将がいる。


 もう、迷う時間はなかった。

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