第6話 善照寺砦
善照寺砦へ着いた頃には、日はすでに高く昇っていた。
砦の中では、集まってきた兵たちが慌ただしく動いている。
槍が運ばれ、具足の音が重なり、風を受けた旗が幾重にもはためいていた。
先ほどまでの静けさが嘘のように、そこには戦を前にした人の気配が満ちている。
新介は砦の上へ上がり、南を見つめた。
尾張の山々が遠くまで連なっている。
その向こうに、今川の大軍がいる。
あまりにも遠いはずなのに、その存在だけは近く感じられた。
隣へ並んだ小平太が、砦の外へ目をやる。
「ここで迎え撃つのか」
新介も同じことを考えていた。
高台に築かれた砦なら、守るには悪くない。
兵も次々と集まっている。
このままここで敵を待てば、少なくとも平地で大軍とぶつかるよりは戦いやすいだろう。
だが、信長は砦を守るための準備を急がせるでもなく、集まった兵たちの様子を静かに見渡していた。
まるで、別の場所を見ているようだった。
その時、砦の入口から一人の物見が駆け込んできた。
「申し上げます!」
兵たちの視線が一斉に集まる。
「今川本隊、沓掛を発ち、桶狭間方面へ向かっております!」
ざわめきが起こった。
新介は思わず信長を見る。
信長は物見へ静かに目を向けた。
「そうか」
それだけだった。
驚いた様子もない。
まるで、すでに知っていたことを確かめたかのようだった。
しばらくして、信長は近くにいた家臣へ声をかける。
「旗は、そのまま立てておけ」
「馬印も残せ」
新介は顔を上げた。
小平太も怪訝そうに信長を見る。
「これじゃ、敵はまだ兵がおると思うな」
信長は答えなかった。
ただ、馬のいる方へ歩いていく。
やがて、兵たちへ次々と命が伝えられた。
出る者は出る。
残る者は残る。
それでも、旗は動かない。
馬印も、その場に残される。
人が減っていくはずの砦には、風にはためく旗と、そこに立つ兵たちの姿が残っていた。
新介は、しばらくその旗を見上げていた。
大きく風を孕んだ旗が、まるで生き物のように揺れている。
敵から見れば、どうだろう。
あの旗の下に、まだ織田の軍勢がいるように見えるのではないか。
新介の胸に、先ほど信長が口にした言葉がよみがえった。
――勝っておると思うておる者ほど、足元を見なくなる。
その意味が、少しだけ繋がった気がした。
信長は、この砦を守ろうとしているのではない。
敵に、まだここに織田の軍勢がいると思わせようとしている。
砦そのものを、目くらましに使っているのだ。
だが、それ以上のことは新介には分からなかった。
信長は、すでに馬上にいた。
槍を手に取り、静かに馬首を巡らせる。
「参る」
短い言葉とともに、軍勢が動き出した。
善照寺砦を後にする。
新介も、その後に続いた。
しばらく進んだところで、新介は一度だけ振り返った。
旗は、なお風にはためいている。
遠目には、砦そのものがまだ多くの兵を抱えているように見えた。
その時だった。
ぽつり、と頬に冷たいものが落ちた。
新介は空を見上げる。
いつの間にか、雲が広がっていた。
黒い雲が空を覆い、その隙間から差していた陽の光も、少しずつ消えていく。
また一粒、雨が落ちた。
次の瞬間だった。
雨は、一気に激しくなった。
豪雨が軍勢を呑み込む。
視界が白く霞み、鎧を打つ雨音が周囲のすべてを覆い尽くしていく。
兵たちの声も、馬の嘶きも、その雨の中へ吸い込まれていった。
新介は目を細めた。
それでも、前を行く信長の姿だけは見失わなかった。
雨の向こうに、今川軍がいる。
その先には、まだ見えぬ敵が待っている。
新介は槍を握り直した。
恐れは消えていなかった。
それでも、足は止まらない。
織田勢は、雨の中を進んでいった。




