表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/23

第5話 熱田神宮

 信長の馬は止まらなかった。


 その後ろを追う兵は、まだ多くない。


 清洲を出た時よりは増えているものの、街道を進むにつれて後方から加わってくる者を数えても、いまだ大軍と呼べるほどの数には届いていなかった。


 新介は歩きながら、何度も後ろを振り返った。


 来る。


 だが、少ない。


 そのことが、かえって今から向かう戦の大きさを思わせた。


 小平太が前を見たまま呟く。


「兵が足りねぇな」


 新介は短く頷いた。


「この人数で戦うのか……」


 答える者はいなかった。


 やがて街道の先に、大きな鳥居が見えてきた。


 その姿を目にした瞬間、新介の足がわずかに緩む。


「……熱田神宮」


 自然と声が漏れた。


 戦へ向かう人々が行き交う街道とは違い、境内には静かな空気が流れていた。


 木々の間を抜ける風が葉を揺らし、遠くから鈴の音がかすかに聞こえてくる。


 信長は馬を下りた。


 誰にも声をかけず、そのまま境内を進んでいく。


 小平太が、その背中を見ながら口を開いた。


「最後に神頼みってわけじゃねぇだろうな」


「……殿がそんな人なら、あんな顔はしない」


 新介が答えると、小平太は少し考えるように黙った。


「だよな」


 それから、いつものように笑おうとしたが、うまく笑えなかった。


「だから分からねぇ」


 新介も答えなかった。


 ただ、信長の背を見つめていた。


 信長は社殿の前まで進むと、静かに手を合わせた。


 何を祈っているのか、誰にも分からない。


 勝利か。


 生還か。


 あるいは、そのどちらでもないのか。


 境内を風が吹き抜け、木々が大きく揺れた。


 その時だった。


 街道の向こうから、馬影が現れた。


 一騎。


 また一騎。


 その後ろからも兵が続いてくる。


 さっきまで静かだった街道が、少しずつ人の姿で埋まっていった。


 甲冑の擦れる音。


 馬の蹄。


 兵たちの低い話し声。


 それらが重なり、境内にまで戦の気配が近づいてくる。


 やがて、一人の家臣が信長の前へ進み出た。


「殿」


 信長が振り返る。


「兵、およそ千五百ほど。揃いました」


 信長は静かに頷いた。


 それから社殿へ一度だけ目を向け、ゆっくりと歩み出す。


 新介は、その姿を目で追った。


 何をするのか。


 そう思った次の瞬間だった。


 信長は静かに舞い始めた。


 人間五十年。


 下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。


 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。


 聞き慣れた言葉だった。


 だが、目の前で信長が舞う姿を見ていると、これまで知っていた言葉とは違うものに聞こえた。


 新介には、敦盛の意味をすべて理解できたわけではない。


 それでも、目を離すことができなかった。


 信長の舞は激しくない。


 むしろ静かだった。


 その姿を見て、新介はふと自分の胸にある恐れを思った。


 死ぬかもしれない。


 そう思っている。


 今も消えてはいない。


 では、この男はどうなのか。


 新介には分からなかった。


 ただ、信長という男が、死を前にしてもなお、何かを見据えているように思えた。


 それが何なのか、新介には分からない。


 分からないからこそ、目を逸らすことができなかった。


 舞が終わった。


 境内は再び静まり返った。


 信長は何事もなかったかのように具足を整え、馬へ乗る。


 新介は隣に立つ小平太を見た。


 いつもの軽口は、もうなかった。


 小平太もまた、信長の背を見つめている。


 やがて信長が、静かに馬首を巡らせた。


 兵たちが、それに続く。


 新介は槍を握り直した。


 南には、今川軍がいる。


 その数は、こちらとは比べものにならない。


 それでも、もう戻ることはなかった。


 新介は前を向いた。


 雨の気配が、遠くの空に残っていた。


 桶狭間へ向かう道は、もう目の前だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ