第5話 熱田神宮
信長の馬は止まらなかった。
その後ろを追う兵は、まだ多くない。
清洲を出た時よりは増えているものの、街道を進むにつれて後方から加わってくる者を数えても、いまだ大軍と呼べるほどの数には届いていなかった。
新介は歩きながら、何度も後ろを振り返った。
来る。
だが、少ない。
そのことが、かえって今から向かう戦の大きさを思わせた。
小平太が前を見たまま呟く。
「兵が足りねぇな」
新介は短く頷いた。
「この人数で戦うのか……」
答える者はいなかった。
やがて街道の先に、大きな鳥居が見えてきた。
その姿を目にした瞬間、新介の足がわずかに緩む。
「……熱田神宮」
自然と声が漏れた。
戦へ向かう人々が行き交う街道とは違い、境内には静かな空気が流れていた。
木々の間を抜ける風が葉を揺らし、遠くから鈴の音がかすかに聞こえてくる。
信長は馬を下りた。
誰にも声をかけず、そのまま境内を進んでいく。
小平太が、その背中を見ながら口を開いた。
「最後に神頼みってわけじゃねぇだろうな」
「……殿がそんな人なら、あんな顔はしない」
新介が答えると、小平太は少し考えるように黙った。
「だよな」
それから、いつものように笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「だから分からねぇ」
新介も答えなかった。
ただ、信長の背を見つめていた。
信長は社殿の前まで進むと、静かに手を合わせた。
何を祈っているのか、誰にも分からない。
勝利か。
生還か。
あるいは、そのどちらでもないのか。
境内を風が吹き抜け、木々が大きく揺れた。
その時だった。
街道の向こうから、馬影が現れた。
一騎。
また一騎。
その後ろからも兵が続いてくる。
さっきまで静かだった街道が、少しずつ人の姿で埋まっていった。
甲冑の擦れる音。
馬の蹄。
兵たちの低い話し声。
それらが重なり、境内にまで戦の気配が近づいてくる。
やがて、一人の家臣が信長の前へ進み出た。
「殿」
信長が振り返る。
「兵、およそ千五百ほど。揃いました」
信長は静かに頷いた。
それから社殿へ一度だけ目を向け、ゆっくりと歩み出す。
新介は、その姿を目で追った。
何をするのか。
そう思った次の瞬間だった。
信長は静かに舞い始めた。
人間五十年。
下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。
聞き慣れた言葉だった。
だが、目の前で信長が舞う姿を見ていると、これまで知っていた言葉とは違うものに聞こえた。
新介には、敦盛の意味をすべて理解できたわけではない。
それでも、目を離すことができなかった。
信長の舞は激しくない。
むしろ静かだった。
その姿を見て、新介はふと自分の胸にある恐れを思った。
死ぬかもしれない。
そう思っている。
今も消えてはいない。
では、この男はどうなのか。
新介には分からなかった。
ただ、信長という男が、死を前にしてもなお、何かを見据えているように思えた。
それが何なのか、新介には分からない。
分からないからこそ、目を逸らすことができなかった。
舞が終わった。
境内は再び静まり返った。
信長は何事もなかったかのように具足を整え、馬へ乗る。
新介は隣に立つ小平太を見た。
いつもの軽口は、もうなかった。
小平太もまた、信長の背を見つめている。
やがて信長が、静かに馬首を巡らせた。
兵たちが、それに続く。
新介は槍を握り直した。
南には、今川軍がいる。
その数は、こちらとは比べものにならない。
それでも、もう戻ることはなかった。
新介は前を向いた。
雨の気配が、遠くの空に残っていた。
桶狭間へ向かう道は、もう目の前だった。




