第4話 織田信長
広間には、馬廻衆が居並んでいた。
誰も口を開かない。
戦を前にした緊張が広間の隅々まで張りつめ、鎧の擦れる音さえも妙に大きく聞こえている。
その中を、一人の男がゆっくりと進んでいた。
織田信長。
信長は歩みを止めることなく、居並ぶ者たちへ静かに視線を送っていく。
その目が新介の前で止まった時、新介は知らず背筋を伸ばした。
先ほどの言葉が、まだ耳に残っている。
――恐れておるな。
新介は何も答えられなかった。
信長は、そんな新介をしばらく見つめていた。
やがて、わずかに頷く。
「それでよい」
新介は顔を上げた。
だが、信長はもう別の者へ視線を移していた。
「敵は多い」
低く、よく通る声だった。
「二万五千とも聞く」
その言葉に、新介の脳裏へ村で聞いた噂がよみがえる。
二万五千。
それが本当なら、尾張へ押し寄せる今川の軍勢は、ただ大軍という言葉では足りない。
広間にいる者たちも、その数を思い浮かべているのだろう。
誰も口には出さない。
だが、それぞれの顔に重いものが浮かんでいた。
信長だけが、何も変わらない顔で立っている。
その時だった。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が響いた。
一人の伝令が広間へ駆け込み、膝をつく。
肩で息をしながら、顔を上げた。
「申し上げます!」
広間の空気が、一気に張り詰める。
「丸根、鷲津、両砦――陥落いたしました!」
一瞬、誰も動かなかった。
やがて、押し殺した息が広間のあちこちから漏れる。
新介の胸にも、重いものが落ちてきた。
丸根も、鷲津も落ちた。
織田の前線は、すでに崩されている。
それを口にする者はいなかった。
言葉にしてしまえば、目の前の現実がさらに重くなるような気がしたからだ。
やがて、一人の家臣が進み出る。
「殿」
声は低かった。
「敵は大軍にございます。ここは籠城なされるべきかと」
その言葉に異を唱える者はいなかった。
信長は答えなかった。
しばらく伝令の報告を胸の内で量るように、黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「敵は、勝つと思うておる」
誰も動かない。
「勝っておると思うておる者ほど、足元を見なくなる」
信長の視線が、広間にいる者たちをゆっくりと巡った。
「そこが隙よ」
短い言葉だった。
だが、新介には、その意味が分かった。
今川は勝っている。
丸根を落とし、鷲津を落とし、織田を押し込んでいる。
だからこそ、次に何が起きるかを見なくなる。
信長は踵を返した。
「参る」
それだけだった。
その一言を合図にしたように、広間が動き始める。
兵たちが一斉に立ち上がり、鎧の音が重なり合う。
先ほどまで広間を満たしていた沈黙は、たちまち戦へ向かう者たちの足音へ変わっていった。
小平太が新介の横で、小さく息を吐く。
「やっぱり……誰にも測れねぇ人だ」
新介は答えなかった。
ただ、信長の背を追った。
信長は迷うことなく馬へ跨る。
城門が開かれた。
外には、まだ多くの兵が集まっているわけではない。
それでも信長は振り返らず、馬を進めていく。
その先に何があるのか。
どこへ向かうのか。
誰にも告げぬまま。
ただ、前だけを見ていた。




