第10話 本陣突入
豪雨の中を、織田勢は駆けていた。
泥が跳ね、槍が雨を裂く。怒号は激しい雨音に呑まれ、隣を走る兵の姿さえ、時折、白い雨幕の向こうへ消えていく。
それでも、誰も足を止めなかった。
新介も槍を握り締め、前だけを見て走った。
その時、雨の向こうから今川兵が一人、突然姿を現した。
槍が突き出される。
新介は反射的に身をかわし、そのまま懐へ踏み込んだ。槍を返し、穂先を突き込む。
男が泥の中へ崩れ落ちた。
新介は足を止めなかった。
後ろから続く馬廻衆が、その脇を駆け抜けていく。倒れた敵を踏み越え、ぬかるみに足を取られながらも、兵たちは前へ前へと押し寄せていった。
「止まるな!」
どこかで信長の声が響いた。
姿は見えない。
それでも、その一声だけは豪雨の中を通り抜け、兵たちの背を押した。
新介は前を走る味方の背を追った。
何が起きているのか、すべてを見ている余裕などない。倒れた兵を飛び越え、泥に足を取られてよろめき、それでも槍を握り直して走る。
横では、小平太が敵兵を薙ぎ払っていた。
その槍は重く、一突きごとに今川兵を押し退けていく。
「新介!」
小平太は振り返りもせず叫んだ。
「遅れるな!」
「おう!」
新介は短く答えた。
息が苦しい。
胸の奥で心臓が激しく打っている。槍を握る手にも、わずかな震えがあった。
それでも、新介は走った。
前方から敵兵が二人、雨の中へ姿を現した。
一人の槍を払い、もう一人が振り下ろした刀を身を引いてかわす。その瞬間、横から一人の織田兵が飛び込み、敵兵へ組み付いた。
「行け!」
名も知らぬ兵だった。
新介は一度だけ頷き、そのまま駆け抜ける。
背後で、金属のぶつかる音が響いた。
振り返らなかった。
振り返れば、足が止まる。
足が止まれば、前へ進めない。
今はただ、前へ出るしかなかった。
義元のいる場所へ。
雨脚は少しも衰えない。
本陣へ近づくにつれ、立ちはだかる今川兵の数も増えていった。奇襲によって戦列は乱れている。それでも兵たちは容易には崩れず、次々と槍や刀を構えて織田勢の前へ立ちはだかる。
新介は槍を振るい、泥を蹴った。
敵の刃が頬を掠める。
身を捻り、槍を突き出す。
また一人が倒れた。
その向こうへ目を凝らす。
何かが見える。
雨に霞んだ、大きな影だった。
小平太も、それに気づいたらしい。
前を走っていた足が、わずかに緩んだ。
「新介!」
新介も顔を上げた。
豪雨の向こうに、大きな陣幕が浮かんでいる。
風に煽られた幕の隙間から、旗の影が見えた。その周囲には、なお多くの今川兵が集まり始めている。
小平太は槍を握り直した。
いつもの笑みは、もう消えていた。
「……行くぞ」
「ああ」
二人は並んで槍を構えた。
胸の奥で、鼓動が大きく鳴る。
あの陣幕の向こうに、敵の総大将がいる。
今川治部大輔義元。
その名を思った瞬間、新介の喉がわずかに鳴った。
ここまで来た。
もう、後ろへは戻れない。
小平太が陣幕を見据えたまま、一歩前へ出る。
「俺が先に行く」
新介が小平太を見る。
「任せる」
「おう」
短く答えると、小平太は槍を構えた。
次の瞬間、雨を裂くように駆け出した。
新介も、その後を追う。
豪雨の向こうで、今川の旗が大きく揺れている。
本陣は、もう目の前だった。




