第11話 左近
豪雨の向こうに見えていた陣幕は、もう目の前まで迫っていた。
織田勢は怒号を上げながら本陣へ雪崩れ込み、泥に足を取られながらも槍を繰り出していく。雨に遮られて互いの姿すらまともに見えない。それでも兵たちは、目の前にいる敵だけを頼りに、ひたすら本陣の奥を目指していた。
「義元を討て!」
「押し通れ!」
叫び声が幾重にも重なり、豪雨の中へ消えていく。
その先から、一人の武者が静かに歩み出た。
雨に濡れた黒漆の具足。
その手には長槍がある。
男は迫り来る織田勢を前にして、まるで道を塞ぐ一本の杭のように立っていた。
「左近殿!」
今川兵の一人が、その名を叫ぶ。
男は答えなかった。
ただ、槍先をわずかに下げる。
先頭の織田兵が、勢いのまま槍を突き出した。
左近は半歩だけ踏み込み、その穂先を外へ払った。ほとんど同時に槍が返され、織田兵の喉を貫く。
男の身体が崩れ落ちるより早く、その脇から二人の兵が斬り込んできた。
左近の槍が低く走った。
一人の胸を突き、そのまま穂先を返してもう一人を押し退ける。無駄のない動きだった。
勢いに乗っていた織田勢の足が、ほんの一瞬だけ鈍る。
後方から一人の若武者が駆け抜けた。
「どけぇ!」
若武者は左近の脇をすり抜け、そのまま義元の方へ駆け込もうとする。
左近は追わなかった。
長槍を大きく引く。
次の瞬間、槍が手を離れた。
投げ放たれた槍が豪雨を裂き、若武者の背を貫く。
男は二、三歩よろめいたところで膝を折り、そのまま泥の中へ崩れ落ちた。
左近は倒れた男へ目を向けることなく、腰の太刀を抜いた。
刃を伝った雨粒が、一筋、鍔元から落ちていく。
その姿を見て、小平太が足を止めた。
「……新介」
低い声だった。
新介も足を止める。
「見ろ」
小平太が槍を構え直した。
新介は目の前の武者を見据えた。
左近は、こちらの動きを待っている。
立ち方に隙があるようにも見える。だが、どこから槍を突き込んでも、その先をすでに読まれているような気がした。
踏み込めば斬られる。
退けば、その退いた先まで追われる。
新介は知らず、槍を握る手に力を込めた。
戦場に出てから、恐れが消えたことは一度もない。
それでも、ここで退くわけにはいかなかった。
左近が初めて口を開いた。
「ここより先は、通さぬ」
低く、静かな声だった。
小平太の口元が、わずかに吊り上がる。
「面白ぇ」
その声と同時に、小平太が槍を構えた。
新介も続いて槍を握り直す。
豪雨の中、左近は微動だにしない。
その背後には、今川の本陣がある。
そして、その奥には義元がいる。
ここを抜かなければ、総大将のもとへは届かない。
雨音だけが、三人の間を埋めていた。
小平太が一歩、前へ出る。
左近の目が、わずかに動いた。
次の瞬間、小平太が地を蹴った。




