第22話 ただいま
家が近づくにつれ、新介の足は遅くなった。
戦場を離れたばかりの頃は、一刻も早く帰りたいと思っていた。
母の顔を見たい。
兄や妹の声を聞きたい。
そして――あの娘にも会いたい。
そう思っていたはずだった。
けれど、いざ家を目の前にすると、足が重くなる。
何を言えばいい。
何から話せばいい。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか家の前まで来ていた。
「新介」
小平太が呼んだ。
新介は振り返る。
「ここからは一人で行けるか」
「ああ」
「そうか」
小平太は笑った。
「じゃあ、俺は行く」
「お前も帰るだろ」
「俺は俺の家だ」
「そうだったな」
二人は顔を見合わせた。
戦場では、いつ死んでもおかしくなかった。
それが今は、どちらが先に家へ帰るかという、くだらない話をしている。
それが妙におかしかった。
新介は小平太の膝を見る。
「ちゃんと傷、診てもらえよ」
「お前こそな」
「俺は歩ける」
「歩ける怪我人ほど信用ならねぇ」
小平太が笑う。
新介も笑った。
「……また会おう」
「ああ」
二人はそこで別れた。
小平太の背中が、ゆっくりと遠ざかっていく。
新介はその姿をしばらく見送った。
やがて、家へ向き直る。
一人になった。
静かだった。
戦場の怒号も、槍の音も、もう聞こえない。
あるのは、風に揺れる草の音だけだった。
新介は家の戸口を見つめた。
一度、息を吸う。
それから、ゆっくりと歩いた。
戸へ手を掛ける。
指先に、木の感触が伝わった。
戸を開ける。
「ただいま」
声が震えた。
返事はない。
新介がもう一度口を開きかけた時、奥から足音が聞こえた。
「……新介?」
母だった。
姿を見た瞬間、新介は笑おうとした。
「ただいま」
母は答えなかった。
ただ、新介の顔を見つめている。
泥にまみれた衣。
乾きかけた血の跡。
そして、左手。
母の視線が、そこへ止まった。
「……その手」
新介は黙った。
母がゆっくり近づいてくる。
「怪我をしたのかい」
「少し」
「少しじゃないでしょう」
声が震えていた。
新介は何も答えられなかった。
母は失われた小指を見つめている。
しばらくして、震える手で新介の左手を包んだ。
「生きて帰ってきたんだね」
その一言で、新介の胸が詰まった。
「……ああ」
それだけしか言えなかった。
奥から、また足音がした。
兄だった。
兄は新介を見ると、足を止めた。
「帰ったか」
「ああ」
兄の目が、左手へ向かう。
一瞬、その顔が強張った。
だが、何も言わなかった。
「……総大将を討ったそうだな」
新介は頷いた。
「ああ」
「今川義元を」
「ああ」
兄はそれ以上、尋ねなかった。
ただ、新介の姿を見ている。
泥にまみれた衣。
身体に残った傷。
そして、失った指。
新介も兄を見た。
戦場へ出る前と、何も変わらない姿だった。
荒れた手。
日に焼けた顔。
質素な衣。
けれど、新介には、その姿が以前とは違って見えた。
朝早くから働いていた兄。
母の代わりに薪を運んでいた兄。
妹を背負い、泣き止ませようとしていた兄。
父の具合が悪い夜には、遅くまで起きていた兄。
どれも、当たり前の光景だと思っていた。
兄だから。
家族だから。
そういうものなのだと思っていた。
だが、今になって分かる。
自分がいない間も、この家を守っていた者がいた。
戦場へ行った自分だけが、戦っていたわけではない。
兄もまた、この家で戦っていたのだ。
刀を持つことはなくても。
敵と向き合うことはなくても。
守るもののために、自分のことを後回しにして。
新介は兄の手を見た。
節くれ立った指。
ひび割れた掌。
そこには、自分の左手とは違う傷がいくつも残っている。
「……兄貴」
「なんだ」
「俺がいない間も、ずっとこの家を守ってたんだな」
兄は少しだけ眉を動かした。
「何を今さら」
それだけだった。
兄は、自分の苦労を語ろうとはしなかった。
褒めてほしいわけでもない。
分かってほしいと訴えたこともない。
ただ、そこにいた。
家族が生きていくために。
それが兄にとって、当たり前のことだったのだ。
「……ありがとう、兄貴」
兄は少しだけ目を逸らした。
「帰ってきたなら、それでいい」
新介は頷いた。
それ以上、言葉はいらなかった。
その時だった。
「兄ちゃん!」
妹が駆けてきた。
新介の胸へ飛び込んでくる。
「帰ってきた!」
「おい、痛い」
「怪我したの?」
「少しだけだ」
「嘘」
妹が新介の左手を見る。
幼い目が、大きく見開かれた。
「指がない」
新介は、少しだけ苦笑した。
「そうだな」
妹は悲しそうな顔をした。
「痛い?」
「もう大丈夫だ」
本当は痛かった。
だが、それを言う必要はなかった。
家の中に、人の気配が戻ってくる。
新介は、ようやく息を吐いた。
帰ってきた。
今度こそ、そう思った。
*
その日の夕暮れ。
新介は家の外へ出て、一人で座っていた。
懐から、お守りを取り出す。
幼い頃から持っている、小さな布袋だった。
布には泥が少し付いていた。
それでも、形は残っている。
熱田で祈った時も。
桶狭間へ向かった時も。
左近と向き合った時も。
義元の前へ出た時も。
ずっと、懐にあった。
新介は、それを静かに握りしめた。
その時、背後から足音がした。
「……新介」
聞き慣れた声だった。
新介は振り返る。
そこに、あの娘が立っていた。
幼い頃から知っている顔。
けれど、戦へ出る前に見た時よりも、どこか大人びて見えた。
娘は新介の左手へ目を向けた。
言葉が止まる。
「……怪我したんだね」
「ああ」
「痛かった?」
新介は少し考えた。
「痛かった」
娘は何も言わなかった。
ただ、新介の手を見ていた。
やがて、その目に涙が浮かぶ。
新介は、お守りを差し出した。
「これ、持ってた」
娘の目がお守りへ向く。
「……まだ持ってたんだ」
「ああ」
「なくさなかった?」
「なくさなかったよ」
娘は小さく笑った。
けれど、その目には涙が残っている。
「よかった」
新介は何も言わなかった。
しばらくして、娘がもう一度、新介を呼んだ。
「……新介」
新介は顔を上げた。
そして、初めてその名を口にした。
「……お葉」
お葉は、少しだけ笑った。
新介も笑った。
お守りを握る。
今度は、失った小指ではなく、残った指で。
その感触を確かめる。
戦場では、何度も恐れた。
帰れないと思った。
それでも帰ってきた。
家がある。
家族がいる。
そして、帰りを待っていた人がいる。
新介は空を見上げた。
夕暮れの空は、静かだった。
「……ただいま」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
お葉は、何も言わず隣にいた。




