第23話 これから
翌朝、雨上がりの空には薄い雲が残っていた。
新介は家の外へ出ると、しばらく何もせずに立っていた。昨日まであれほど激しく降っていた雨が嘘のように上がり、濡れた草木の間を朝の風が静かに抜けていく。
桶狭間へ向かった朝も、空を見上げた。
あの日は、これが最後になるかもしれないと思っていた。
死ぬかもしれない。
そう思いながら、それでも仲間とともに歩いた。
そして今、自分はここにいる。
新介は左手へ目を落とした。
小指はない。
傷は塞がり始めているものの、時折、骨の奥まで響くような痛みが走る。そのたびに、あの日の豪雨と泥濘、槍の音、そして目の前に立った一人の男の姿が蘇ってくる。
左近。
最後まで義元の前を退かなかった武士。
そして、今川治部大輔義元。
傷を負い、槍を受けてもなお立ち続け、最後には自らの名を名乗った男。
新介は目を閉じた。
父の言葉が浮かぶ。
――恐れを抱えたままでも、前へ進め。
熱田で祈った朝のことも思い出した。
あの時は、これほど遠くまで歩くことになるとは思っていなかった。
信長の言葉も、今なら少し違って聞こえる。
――お前は、恐れたまま進んだ。
恐れなくなったわけではない。
義元を前にした時も、刀を握った手は震えていた。帰れないかもしれないという思いは、最後まで胸の中から消えなかった。
それでも、足は止まらなかった。
新介は懐へ手を入れた。
指先に、柔らかな布の感触が触れる。
お葉から渡されたお守りだった。
桶狭間へ向かった時も、あの雨の中でも、ずっと懐に残っていた。そして今も、ここにある。
失ったものは戻らない。
小指も、戦場で倒れた者たちも、もう帰ってはこない。
けれど、残ったものまで失ったわけではなかった。
母がいる。
兄がいる。
妹がいる。
小平太も生きている。
そして、帰りを待っていた者がいる。
新介は、お守りを懐へ戻した。
道の先には、朝の光が差している。
その先に何があるのかは分からない。
また戦になるかもしれない。
再び刀を握る日が来るかもしれない。
あるいは、次こそ帰れない日が来るかもしれない。
そう考えれば、胸の奥がわずかに震えた。
恐ろしい。
桶狭間を越えた今も、その感覚だけは消えていない。
だが、新介は笑った。
恐れが消えないのなら、それでいい。
恐れたままでも、歩くことはできる。
新介は一歩を踏み出した。
昨日までとは違う朝だった。
戦場へ向かうためではない。
誰かを討つためでもない。
ただ、自分が生きていくための道を歩く。
その背中へ、朝の光が静かに降り注いでいた。
それから幾年が過ぎても、新介は桶狭間のことを忘れなかった。
左手に残る痛みを感じるたび、あの日の豪雨を思い出した。
左近の槍。
小平太の折れた槍。
義元の太刀。
そして、最後まで自分を見据えていた今川治部大輔義元の眼差し。
戦場で見たものは、歳月が過ぎても薄れなかった。
だが、その中で最も忘れられなかったのは、恐れを抱えながらも一歩を踏み出した、あの日の自分自身だった。
人は、恐れをなくして強くなるのではない。
恐れを抱えたまま、それでも進むことで、次の道へ辿り着く。
新介が歩いた道の先には、まだ見ぬ年月が続いていた。
その先に何が待っているのかを、彼はまだ知らない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
指を失った痛みと、あの日見た男たちの覚悟を、新介は生涯忘れることはなかった。




