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第21話 帰路

 戦場を離れると、雨はすっかり上がっていた。


 雲の切れ間から薄い陽が差し、濡れた草がその光を返している。つい先ほどまで、あれほど激しく降っていた雨が嘘のようだった。


 新介と小平太は、並んで歩いていた。


 小平太は膝を庇いながら、それでも足を止めない。


「痛むか」


「痛ぇ」


 即答だった。


「なら休め」


「休んだら、お前一人で先に帰るだろ」


「帰らない」


「なら歩く」


 新介は苦笑した。


 小平太は、いつもと変わらない。


 そのことが、少しだけ嬉しかった。


 二人の間に、しばらく会話はなかった。


 歩くたび、泥が草履へまとわりつく。戦場の臭いも、まだ身体から抜けていない。


 血。


 泥。


 雨。


 煙。


 どれも鼻の奥に残っていた。


 新介は、ふと左手へ目を落とした。


 小指がない。


 戦っている時には、考える余裕がなかった。


 義元を討った直後も、そんなことを考えてはいなかった。


 だが、戦場を離れてしまうと、その事実が急に重くなってくる。


 家に帰れば、母が見る。


 兄も見る。


 妹も見る。


 そして、幼い頃から知るあの娘も。


 何と言えばいいのだろう。


 新介は左手を握った。


 痛みが走る。


「……なあ、小平太」


「なんだ」


「指一本なくなったら、槍は握れると思うか」


 小平太は少し考えた。


「知らん」


「知らんのか」


「俺は指をなくしたことがねぇ」


「そうだな」


 小平太は肩をすくめる。


「でも、お前なら握るだろ」


 新介は答えなかった。


 握る。


 そうなのかもしれない。


 また戦場へ出るのかどうかは分からない。


 それでも、これまで握っていたものを失ったまま終わる気にはなれなかった。


 歩きながら、新介は懐へ手を入れた。


 指先に、柔らかな感触が触れる。


 幼馴染から渡されたお守りだった。


 まだ、そこにある。


 新介は取り出し、掌へ乗せた。


 小さな布袋だった。


 熱田で祈った時も。


 桶狭間へ向かった時も。


 左近と向き合った時も。


 義元の前へ出た時も。


 ずっと、懐にあった。


 新介は、それを静かに握りしめる。


「それ、まだ持ってたのか」


 小平太が横から覗き込んだ。


「ああ」


「大事にしてるな」


「……そうだな」


 それ以上は言わなかった。


 道の先に、山が見えていた。


 見慣れた山だった。


 幼い頃から、何度も眺めてきた山である。


 父と歩いた道。


 兄と走った道。


 妹を背負って歩いた道。


 そして、あの娘と並んで歩いた道。


 記憶の中にある景色が、目の前の景色へ少しずつ重なっていく。


 胸の奥が痛んだ。


 帰りたい。


 その言葉が、初めてはっきりと浮かんだ。


 戦場にいた時は、生き残ることしか考えていなかった。


 義元を討つ。


 生きる。


 ただ、それだけだった。


 けれど今は違う。


 帰りたい。


 母の顔が見たい。


 兄と話したい。


 妹の声を聞きたい。


 そして――あの娘に会いたい。


 新介は、知らず足を速めていた。


「おい」


 小平太の声が背後から飛んでくる。


「何だ」


「急ぐな。俺は怪我人だぞ」


「知らん」


「お前まで言うのか」


 小平太の声が、背後で響く。


 新介は笑った。


 戦場を離れてから、初めて心から笑った気がした。


 しばらく歩くと、道の向こうに小さな集落が見えてきた。


 見慣れた屋根。


 見慣れた木々。


 その先に、自分の家がある。


 新介は足を止めた。


 小平太も隣で立ち止まる。


「……帰ってきたな」


 小平太が言った。


 新介は答えなかった。


 ただ、遠くに見える家々を見つめていた。


 左手を静かに握る。


 懐のお守りに触れる。


 母の顔が浮かぶ。


 兄の顔が浮かぶ。


 妹の笑い声が浮かぶ。


 そして、あの娘の顔が――。


 新介は、ゆっくりと歩き出した。


 今度は、迷わなかった。

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