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第20話 恐れたまま

 戦場を離れてしばらくした頃、新介と小平太は織田の本隊へ戻った。


 周囲では、負傷した兵たちが行き交っている。傷口を布で押さえながら歩く者、肩を借りてようやく足を運ぶ者、その脇を戦場から戻った兵たちが駆け抜けていく。遠くからは、まだ勝鬨が聞こえていた。


 二人はその喧騒の中を進み、やがて信長の前へ出た。


 信長は立っていた。


 濡れた衣のまま、戻ってきた二人を静かに見ている。その目が、小平太の膝から新介の左手へ移った。


 だが、何も尋ねなかった。


「戻ったか」


「はい」


 小平太が答え、新介も頭を下げる。


 信長はしばらく二人を見た後、静かに口を開いた。


「義元の最期は、どうであった」


 新介は、一瞬だけ言葉に詰まった。


 その名を聞いただけで、あの雨の中の光景が鮮明に蘇ってくる。


「……最後まで、退きませんでした」


 新介は静かに語り始めた。


 小平太が槍を届かせたこと。


 脇腹を傷つけられてなお、義元が槍を折ったこと。


 膝を斬られても、小平太が退かなかったこと。


 そして、自分が義元を泥の中へ押し倒したこと。


「その後、私は義元に左手を噛まれました」


 新介は、自分の左手へ目を落とした。


「小指を失いました」


 信長は何も言わずに聞いている。


「それでも、最後には斬りました」


 その言葉の後、しばらく沈黙が続いた。


 やがて信長が問う。


「何か言葉はあったか」


 新介は義元の顔を思い出した。


 雨に濡れ、血に染まりながら、それでも自分を見据えていた眼差しが浮かぶ。


「……名を訊かれました」


「そなたの名を?」


「はい」


「何と答えた」


「毛利新介、と」


 信長の目が、わずかに細くなる。


「義元は」


「今川治部大輔義元、と」


 新介はそこで言葉を切った。


 あの声が、今も耳に残っている。


「最後に……無念であった、と」


 信長は、しばらく黙っていた。


 やがて短く息を吐く。


「そうか」


 それだけだった。


 新介は少し戸惑った。


 もっと何か言われると思っていた。


 だが、信長は義元について、それ以上語ろうとはしなかった。代わりに、再び新介の左手へ目を向ける。


「痛むか」


「……はい」


「そうか」


 信長は、それ以上傷について尋ねなかった。


 しばらくして、ふと口を開く。


「怖かったか」


 新介は息を止めた。


 すぐには答えられなかった。


 左近と向き合った時。


 義元を前にした時。


 刀を握る手は震えていた。


 帰れないかもしれないと思った。


 家族を残すことになるかもしれないと思った。


 何より、目の前にいる男へ、どうすれば届くのか分からなかった。


 それでも踏み込んだ。


「……はい」


 ようやく答えた。


 信長は頷いた。


「それでよい」


 新介は顔を上げた。


 信長の目は静かだった。


「恐れぬ者は、己を知らぬ」


 その言葉が、新介の胸へ落ちてくる。


「そなたは恐れた。だから、見えたのであろう」


 新介は何も返せなかった。


 熱田神宮で聞いた言葉が、ふたたび胸の中へ蘇る。


 ――恐れたまま進め。


 あの時は、その意味が分からなかった。


 今なら、少しだけ分かる。


 恐れなくなることではない。


 恐れを抱えたまま、それでも前へ出ることなのだ。


 信長は、今度は小平太へ目を向けた。


「お前もだ」


「……俺も?」


「槍を折られた後も、退かなかったそうだな」


 小平太が笑った。


「倒れたら、新介に置いていかれますから」


「置いていくわけないだろ」


 新介が言う。


 小平太は声を上げて笑った。


 信長は二人を見ていた。


 その表情に笑みはない。


 ただ、二人の言葉を確かめるように目を細めている。


「そういうところだ」


 それ以上は言わなかった。


 やがて信長は、二人に背を向ける。


「よく戻った」


 短い言葉だった。


 だが、新介にはその一言が重かった。


 義元を討ったことを認められたのではない。


 生きて戻ったことを、認められたのだ。


 新介は深く息を吐いた。


 戦場の雨の匂いが、まだ身体に残っている。


 左手を見る。


 失った小指。


 そこに残る痛み。


 それもまた、自分が生きて戻った証だった。


 信長のもとを離れ、新介と小平太は歩き出した。


「帰るか」


 小平太が言った。


 新介は頷いた。


「……ああ」


 二人は並んで歩いていく。


 今度こそ、帰るために。

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