表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/23

第19話 勝利の跡

 雨は、まだ降り続いていた。


 新介は刀を下ろしたまま、しばらくその場から動かなかった。


 足元には、今川義元の首がある。


 自分が討った。


 そう理解しているはずなのに、その事実だけが妙に遠いものに感じられた。


 ほんの少し前まで、義元は刀を握って立っていた。傷を負い、泥にまみれながらも、その眼差しだけは最後まで揺らがなかった。その男が今は動かず、ただ雨に濡れている。


「新介」


 背後から声がした。


 振り返ると、小平太が片膝をついている。膝の傷から流れた血が雨に洗われ、泥の中へ赤い筋となって消えていた。


 新介はすぐに駆け寄った。


「大丈夫か」


「俺より、お前の方がひどいだろ」


 小平太はそう言って、新介の左手へ目を向けた。


 新介も自分の手を見た。


 失った指の痛みは、戦っている間にはほとんど感じなかった。だが、義元を討った今になって、遅れて痛みが押し寄せてきている。


「立てるか」


「ああ」


 小平太はそう答えて立ち上がろうとした。


 しかし、傷めた膝に力が入らず、身体が大きく傾いた。


「……ちっ」


 新介はすぐに腕を貸した。


「無理するな」


「お前に言われたくねぇな」


「俺は歩ける」


「俺だって歩ける」


 強がるように言いながら、小平太は顔をしかめた。


 新介は思わず笑った。


 小平太も笑う。


 だが、その笑みは長く続かなかった。


 二人の周囲では、ようやく戦場の様子が変わり始めていた。


 先ほどまで激しくぶつかり合っていた今川兵の戦列は崩れ、武器を捨てて逃げる者もいれば、主君の死を知って呆然と立ち尽くす者もいる。その一方で、織田の兵たちは勝利を確信し、あちこちで声を上げながら戦場を駆け回っていた。


 その中を、一人の兵がこちらへ駆けてくる。


 そして、泥の中にある義元の首を見つけた。


「今川義元の首だ!」


 兵の声が、雨の中を走った。


「毛利新介が討ち取ったぞ!」


 それに応じるように、別の場所から声が上がる。


「今川義元の首、毛利新介が討ち取ったぞー!」


 その声は一人の兵だけに留まらなかった。


 次々と別の声が重なり、やがて戦場のあちこちへと広がっていく。


「今川義元を討ち取った!」


「毛利新介が大将首を上げたぞ!」


 新介は、その声を聞きながら義元の首へ目を向けた。


 つい先ほどまで、自分たちの前に立っていた男だった。


 左近を失ってなお退かず、小平太の槍を受けても倒れず、最後には自分を噛み、指を奪うほどの力を残していた。


 その顔は、今は静かだった。


「……終わったんだな」


 小平太が呟いた。


 新介は、すぐには答えなかった。


 終わった。


 確かに、そうなのだろう。


 だが、勝ったという喜びは不思議なほど湧いてこなかった。


 新介の脳裏に浮かんだのは、左近の姿だった。


 雨の中で本陣の前に立ち、最後まで一歩も退かなかった男。


 そして、その背後に立っていた義元の姿。


 さらに、自分の左手。


 戦場へ来る前には、そのすべてが当たり前のようにそこにあった。


 新介は左手を見つめた。


 残された指を、ゆっくりと握る。


 痛みが走った。


 それでも手を開かなかった。


 帰れば、母が待っている。


 兄もいる。


 妹もいる。


 そして、幼い頃から知るあの娘もいる。


 皆、自分がどんな姿で帰るのかを知らない。


 いつものように帰ってくると思っているのかもしれない。


 新介は、ふとそんなことを考えた。


「帰ろう」


 小平太が言った。


 新介は顔を上げる。


「ああ」


 二人は歩き始めた。


 小平太は傷めた膝を引きずり、新介もまた左手をかばうようにして歩いていく。背後では、なお兵たちの勝鬨が上がり続けていた。


 織田の勝利を告げる声が、雨の向こうへ広がっていく。


 だが、二人は振り返らなかった。


 勝った。


 それは間違いない。


 けれど、その勝利と引き換えに、二人とも何かを失った。


 小平太は膝を。


 新介は左手の指を。


 そして二人は、戦場に置いてきた者たちの姿を胸に抱えたまま、帰る道を歩いていった。


 しばらく進んだところで、新介はふと顔を上げた。


 いつの間にか、雨が止んでいた。


 厚い雲の切れ間から淡い光が差し込み、その光が戦場を静かに照らしている。


 泥にまみれた大地。


 倒れた兵たち。


 折れた槍。


 散らばった刀。


 そして、遠ざかっていく二人の背中。


 新介は何も言わなかった。


 ただ、小平太の肩を支えながら歩いた。


 勝利の声が遠ざかっていく。


 戦場もまた、少しずつ背後へ消えていく。


 それでも新介には分かっていた。


 今日見たものも、今日失ったものも、決して戦場へ置いてくることはできない。


 それらはきっと、これから先も自分の中に残り続ける。


 新介は前を向いた。


 そして、歩き続けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ