第19話 勝利の跡
雨は、まだ降り続いていた。
新介は刀を下ろしたまま、しばらくその場から動かなかった。
足元には、今川義元の首がある。
自分が討った。
そう理解しているはずなのに、その事実だけが妙に遠いものに感じられた。
ほんの少し前まで、義元は刀を握って立っていた。傷を負い、泥にまみれながらも、その眼差しだけは最後まで揺らがなかった。その男が今は動かず、ただ雨に濡れている。
「新介」
背後から声がした。
振り返ると、小平太が片膝をついている。膝の傷から流れた血が雨に洗われ、泥の中へ赤い筋となって消えていた。
新介はすぐに駆け寄った。
「大丈夫か」
「俺より、お前の方がひどいだろ」
小平太はそう言って、新介の左手へ目を向けた。
新介も自分の手を見た。
失った指の痛みは、戦っている間にはほとんど感じなかった。だが、義元を討った今になって、遅れて痛みが押し寄せてきている。
「立てるか」
「ああ」
小平太はそう答えて立ち上がろうとした。
しかし、傷めた膝に力が入らず、身体が大きく傾いた。
「……ちっ」
新介はすぐに腕を貸した。
「無理するな」
「お前に言われたくねぇな」
「俺は歩ける」
「俺だって歩ける」
強がるように言いながら、小平太は顔をしかめた。
新介は思わず笑った。
小平太も笑う。
だが、その笑みは長く続かなかった。
二人の周囲では、ようやく戦場の様子が変わり始めていた。
先ほどまで激しくぶつかり合っていた今川兵の戦列は崩れ、武器を捨てて逃げる者もいれば、主君の死を知って呆然と立ち尽くす者もいる。その一方で、織田の兵たちは勝利を確信し、あちこちで声を上げながら戦場を駆け回っていた。
その中を、一人の兵がこちらへ駆けてくる。
そして、泥の中にある義元の首を見つけた。
「今川義元の首だ!」
兵の声が、雨の中を走った。
「毛利新介が討ち取ったぞ!」
それに応じるように、別の場所から声が上がる。
「今川義元の首、毛利新介が討ち取ったぞー!」
その声は一人の兵だけに留まらなかった。
次々と別の声が重なり、やがて戦場のあちこちへと広がっていく。
「今川義元を討ち取った!」
「毛利新介が大将首を上げたぞ!」
新介は、その声を聞きながら義元の首へ目を向けた。
つい先ほどまで、自分たちの前に立っていた男だった。
左近を失ってなお退かず、小平太の槍を受けても倒れず、最後には自分を噛み、指を奪うほどの力を残していた。
その顔は、今は静かだった。
「……終わったんだな」
小平太が呟いた。
新介は、すぐには答えなかった。
終わった。
確かに、そうなのだろう。
だが、勝ったという喜びは不思議なほど湧いてこなかった。
新介の脳裏に浮かんだのは、左近の姿だった。
雨の中で本陣の前に立ち、最後まで一歩も退かなかった男。
そして、その背後に立っていた義元の姿。
さらに、自分の左手。
戦場へ来る前には、そのすべてが当たり前のようにそこにあった。
新介は左手を見つめた。
残された指を、ゆっくりと握る。
痛みが走った。
それでも手を開かなかった。
帰れば、母が待っている。
兄もいる。
妹もいる。
そして、幼い頃から知るあの娘もいる。
皆、自分がどんな姿で帰るのかを知らない。
いつものように帰ってくると思っているのかもしれない。
新介は、ふとそんなことを考えた。
「帰ろう」
小平太が言った。
新介は顔を上げる。
「ああ」
二人は歩き始めた。
小平太は傷めた膝を引きずり、新介もまた左手をかばうようにして歩いていく。背後では、なお兵たちの勝鬨が上がり続けていた。
織田の勝利を告げる声が、雨の向こうへ広がっていく。
だが、二人は振り返らなかった。
勝った。
それは間違いない。
けれど、その勝利と引き換えに、二人とも何かを失った。
小平太は膝を。
新介は左手の指を。
そして二人は、戦場に置いてきた者たちの姿を胸に抱えたまま、帰る道を歩いていった。
しばらく進んだところで、新介はふと顔を上げた。
いつの間にか、雨が止んでいた。
厚い雲の切れ間から淡い光が差し込み、その光が戦場を静かに照らしている。
泥にまみれた大地。
倒れた兵たち。
折れた槍。
散らばった刀。
そして、遠ざかっていく二人の背中。
新介は何も言わなかった。
ただ、小平太の肩を支えながら歩いた。
勝利の声が遠ざかっていく。
戦場もまた、少しずつ背後へ消えていく。
それでも新介には分かっていた。
今日見たものも、今日失ったものも、決して戦場へ置いてくることはできない。
それらはきっと、これから先も自分の中に残り続ける。
新介は前を向いた。
そして、歩き続けた。




