第18話 決着
泥の中で、新介は義元を押さえ込んでいた。
馬乗りになり、肩でその身体を地へ押しつける。義元の顔が泥に沈み、雨が容赦なく降り注いでいた。つい先ほどまで自分たちの前に立ちはだかっていた男が、今は腕を押さえ込まれ、身動きの取れない姿になっている。
新介は荒い息を吐きながら、右手の刀を握り直した。
これで終わる。
そう思った。
左近を越え、小平太とともに義元の懐へ入り、ようやく地へ押し倒した。あれほど遠かった敵の大将が、今は目の前にいる。
新介は刀を振り上げた。
その瞬間だった。
義元の左手が動いた。
「――っ」
次の瞬間、激痛が走った。
義元が、新介の左手に噛みついていた。
歯が肉へ食い込み、骨まで響くような痛みが走る。新介は反射的に身体を引こうとしたが、義元は離さない。
「ぐっ……!」
押し殺した声が喉から漏れた。
義元の身体が泥の中で捻られる。
その動きは、倒れてなお鈍っていなかった。新介が左手を引こうとした瞬間、義元はその力を利用して身体を返した。
均衡が崩れる。
新介の身体が傾き、二人の位置が泥の上で入れ替わった。
義元が起き上がる。
新介は転がりながら刀を探した。右手を伸ばすが、左手の感覚がおかしい。指へ力を込めようとしても、思うように動かなかった。
新介は左手を見た。
そこで初めて、指を一本失っていることを実感した。
血が流れている。
痛みがある。
だが、それを確かめている暇はなかった。
新介は右手で刀を拾い上げた。
目の前では、義元が立ち上がっている。
息は荒い。
衣は泥にまみれ、脇腹からは先ほど小平太に負わされた傷の血が流れている。それでも、眼差しだけは変わらなかった。
新介は刀を握った。
義元もまた、太刀を構える。
二人の間には、雨だけが落ちていた。
「まだ……」
義元が低く呟いた。
その声には、弱々しさがなかった。
新介も立ち上がる。
足元がふらついた。
それでも倒れなかった。
背後から、小平太の声が聞こえた。
「新介……!」
新介は振り向かなかった。
義元だけを見ていた。
ここで終わらせる。
それだけを考えていた。
義元が踏み込む。
新介も踏み込んだ。
刃と刃がぶつかった。
鋭い音が豪雨を突き抜ける。
義元の太刀が新介の刀を押し流し、新介は身体を捻ってかわす。そのまま義元の肩口へ刃を返したが、義元は一歩退くことでそれを外した。
二人は再び離れた。
新介は息を整えた。
左手が痛い。
肩も痛む。
足も重い。
それでも、刀だけは落とさなかった。
義元もまた、太刀を構え直している。
脇腹から血を流しながらも、その姿には最後まで武人としての崩れがなかった。
新介は、その眼差しを見た。
恐ろしい。
今まで何度もそう思ってきた。
それでも、ここまで来た。
ならば、あと一度だけ踏み込めばいい。
義元が再び動いた。
新介も応じる。
刃と刃が交わり、二人の身体が雨の中ですれ違う。義元の刃が新介の肩を掠め、熱い痛みが走った。
新介は身を捻った。
そのまま懐へ入る。
義元の目がわずかに動いた。
だが、もう遅かった。
新介の刀が走った。
深く、義元の胴を斬り裂く。
鮮血が豪雨の中へ弾けた。
義元の身体が、わずかに揺れる。
それでも倒れない。
太刀を握ったまま、新介を見ていた。
新介も動かなかった。
ただ、互いの目だけが重なっている。
やがて、義元の手から力が抜けた。
太刀が泥の中へ落ちる。
義元はゆっくりと膝をついた。
新介は刀を下げた。
目の前の男が、少しずつ崩れていく。
それでも義元は顔を上げていた。
「我は……」
低い声だった。
「今川治部大輔義元」
新介は息を呑んだ。
義元は最後まで、自らの名を失わなかった。
新介を見据える。
「……其方、名は」
すぐには答えられなかった。
息が苦しい。
身体中が泥と血にまみれている。
左手から流れる血が、雨に混じって地へ落ちていく。
それでも、新介は名を告げた。
「……毛利新介」
義元の目が、わずかに細くなった。
その名を胸の内で確かめるように、新介を見る。
そして、身体から力が抜けた。
「……無念であった」
それが最後だった。
義元の身体が、ゆっくりと地へ崩れる。
新介は立ったまま動かなかった。
雨が降っている。
ただ、それだけだった。
目の前にいるのは、つい先ほどまで自分たちの前に立ちはだかっていた大将だった。
恐ろしかった。
大きかった。
強かった。
左近とは違う。
刀の速さだけでは測れないものを、この男は持っていた。長い歳月を戦い、国を治め、多くの者を従えてきた男。その男が、今はもう動かない。
新介は義元の顔を見つめた。
そこには、もう戦場で見せていた鋭さはなかった。
ただ、静かだった。
「新介!」
背後から声が飛んだ。
「首を取れ!」
新介は答えなかった。
すぐには動けなかった。
義元の顔を見る。
そして、血に濡れた左手へ目を落とした。
失った指の痛みが、遅れて強くなってくる。
新介は刀を握り直した。
一歩、近づく。
刀を構える。
その刃の向こうに、義元の顔があった。
新介は目を閉じなかった。
一度だけ、息を吐く。
そして――
刃が振り下ろされた。
雨の音が、すべてを覆った。




