第17話 勝ち筋
豪雨の中、二人はなお義元の前に立っていた。
小平太は折れた槍を捨て、腰の刀へ手を掛けている。膝から流れた血は雨に洗われ、泥の中へ赤い筋となって消えていった。
新介は、その姿を横目に見た。
「大丈夫か」
「これくらいならな」
小平太は笑った。
だが、その笑みにいつもの余裕はなかった。肩にも傷があり、膝からは血が流れている。それでも、刀を抜く手に迷いはない。
義元は二人を静かに見据えていた。
脇腹には、先ほど小平太の槍を受けた傷がある。陣羽織も裂け、雨に濡れた布が肌へ張りついている。それでも、刀を構える姿にはわずかな乱れも見えなかった。
新介は、ゆっくりと息を吐いた。
小平太が槍を持っていた時でさえ、義元へ決定的な一撃は届かなかった。まして刀だけで正面から斬り込めば、同じように受けられるだろう。
義元は強い。
速い。
だが、それ以上に厄介なのは、こちらが攻めようとした瞬間には、すでにその先を待ち構えていることだった。
新介は刀を握り直した。
踏み込めない。
その事実が、何より恐ろしかった。
左近には鋭さがあった。間合いへ入れば斬られる。動けば、その動きを読まれる。だが、義元はそれだけではない。
どこか一つを見ていればいい相手ではなかった。
足も、肩も、刀も、視線も、すべてが一つにつながっている。こちらがどこから入ろうとしても、その動きに合わせて形を変える。長年の戦場で磨かれた動きが、身体そのものに染みついているようだった。
新介は、刀を握る手に汗が滲んでいることに気づいた。
帰れないかもしれない。
その考えが、胸の奥から離れない。
母の顔が浮かんだ。
兄。
妹。
そして、幼い頃から肌身離さず持ってきた小さなお守り。
新介は左手で、それをそっと確かめた。
冷えた布の感触が指先に伝わってくる。
それだけだった。
だが、それで十分だった。
父の声が蘇る。
――恐れを知らぬ者ほど、先に死ぬ。
続いて、熱田神宮で聞いた信長の言葉が浮かんだ。
――恐れたまま進め。
新介は静かに息を吐いた。
恐れている。
義元が恐ろしい。
勝てないかもしれない。
帰れないかもしれない。
それでも、恐れを消す必要はなかった。
消えないなら、そのまま進めばいい。
新介は、改めて義元を見た。
刀。
足。
肩。
視線。
どこを見ても、崩す場所がない。
ならば、刀で斬る必要はない。
斬り合いで勝つ必要もない。
義元を倒すために必要なのは、ただ一度、あの間合いの内側へ入ることだった。
その一瞬を作ればいい。
新介の目が、わずかに細くなった。
義元が、それを見逃さなかった。
「来るか」
新介は答えなかった。
小平太も刀を構え直す。
二人の間に、言葉はなかった。
作戦を決めたわけではない。それでも新介には分かっていた。
小平太が先に出る。
自分は、その隙を使う。
小平太が踏み込んだ。
「おおっ!」
刀と刀がぶつかる。
義元は受け、小平太はそのまま押し込んだ。義元の刃が返り、小平太が身を引く。その一瞬を狙って、新介が横から踏み込む。
義元の視線が新介へ向いた。
刀が閃く。
新介は身を低くした。
刃が頭上を通り過ぎる。
そのまま懐へ入ろうとしたが、義元の足が動いた。身体を半歩ずらしただけで、二人の間に再び距離が生まれる。
届かない。
新介は奥歯を噛んだ。
だが、焦らなかった。
小平太が再び斬り込む。
義元が向き直り、刀を受ける。
新介は、その横で義元の足元を見た。
雨で泥が深くなっている。
歩けないほどではない。
だが、踏み込むたびに足がわずかに沈んでいた。
義元も同じだった。
新介は目を離さなかった。
小平太が踏み込む。
義元が受ける。
その瞬間、義元の足が泥へ沈んだ。
ほんの一瞬だった。
だが、新介には十分だった。
刀で勝つ必要はない。
斬り合いで勝つ必要もない。
ただ一度、義元の懐へ入ればいい。
その一瞬を作ればいい。
新介は刀を構え直した。
義元がこちらを見る。
その眼差しに、初めてわずかな警戒が浮かんだ。
新介は静かに息を吸った。
恐れは消えていない。
むしろ、今まで以上にはっきりと感じている。
だからこそ、もう迷わなかった。
次の瞬間、新介は地を蹴った。
刀を振るためではない。
義元へ届くために。
一直線に、その身ごと飛び込んだ。
義元の刀が動く。
新介は構わず懐へ潜り込む。
肩から義元へぶつかった。
二人の身体が激しく衝突し、足元の泥が大きく跳ねる。
均衡が崩れた。
義元も、新介も。
そのまま二人は、豪雨の泥濘へもつれ込むように倒れた。




