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第2話 迫る影

「今川が来た!」


男の叫びは、静かな村へ響き渡った。


畑へ向かおうとしていた者も、井戸端で話していた女たちも、一斉に足を止める。息を切らした男は膝に手をつき、それでも伝えなければならないとでもいうように、何度も頷いた。


「間違いねえ。今川義元が尾張へ兵を進めた!」


その名を聞いた瞬間、村の空気が変わった。


人々は不安を打ち消すように、口々に噂を交わし始める。


「鳴海の山口様まで今川についたそうな」


「あの三河衆も来るんだと」


「なんでも、二万五千近い兵だそうだぞ」


「二万五千……」


誰かが呟いた。


「それじゃあ、国が一つ動くようなものだ」


新介は黙って聞いていた。


山口家。


三河衆。


二万五千。


一つ一つの言葉が、胸の奥へ沈んでいく。


脳裏に浮かんだのは、傷だらけになって帰ってきた父の姿だった。


あの時でさえ、家の中から当たり前の日々が少しずつ失われていった。


それなのに今度は、父が傷を負った時とは比べものにならないほどの軍勢が、尾張へ向かっている。


新介は、知らず拳を握っていた。


その横で、兄が薪割りの斧を地面へ置いた。


「……父上の時と同じにはしたくない」


小さな声だった。


新介が兄を見ると、兄は一度だけ目を伏せ、それから顔を上げた。


「行くなら、胸を張って行け」


新介は黙っていた。


「家のことは考えるな」


その声に迷いはなかった。


母は何も言わず、二人の息子を見つめている。


妹だけが、張り詰めた空気を変えようとするように笑った。


「兄上なら大丈夫!」


明るい声だった。


だが、その笑顔が少し無理をしていることを、新介には分かっていた。


門の方から、足音が近づいてきた。


先ほど母へ挨拶に来ていた娘だった。


幼い頃から家族ぐるみで付き合ってきた、幼馴染である。


彼女は新介の前で足を止めた。


「……行くんだね」


新介は少しだけ笑った。


「ああ」


腰の刀へ手を添える。


「怖くないわけじゃない」


幼馴染は黙って新介を見つめていた。


「でも、行かなきゃならない」


やがて、彼女は小さく頷いた。


「待ってる」


その一言が、胸の奥に残った。


その時だった。


遠くから、馬の蹄の音が響いてきた。


村人たちが一斉に振り向く。


一騎の武者が、土煙を巻き上げながら駆け込んでくる。


「新介!」


腹の底まで響く大声だった。


新介は目を細めた。


「……遅かったな」


馬上の男が笑う。


「違ぇよ。お前の村が遠いんだ!」


男は豪快に笑いながら馬を降りた。


服部小平太だった。


その笑い声に、張り詰めていた村の空気がほんの少し緩んだ。


小平太は新介の肩を軽く叩く。


「馬廻衆に召集だ」


笑顔が消えた。


「信長様がお待ちだぞ」


新介は頷いた。


小平太は兄と母へ向き直り、頭を下げる。


「お借りします」


兄は静かに頷いた。


「ああ。頼む」


小平太も力強く頷いた。


新介は家族の前へ進んだ。


兄を見る。


母を見る。


妹を見る。


そして、幼馴染を見る。


一人一人の顔を、胸の奥へ刻むように見つめた。


「行ってまいります」


兄は静かに頷いた。


母は優しく微笑む。


妹は笑顔で手を振った。


幼馴染は、何も言わずに立っていた。


新介は小平太と並んで歩き出した。


振り返らなかった。


振り返れば、足が止まってしまう気がした。


向かう先は清洲城。


その先に何が待っているのか、新介にはまだ分からない。


ただ、胸の奥に残った「待ってる」という声だけは、いつまでも消えなかった。

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