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第1話 雨の記憶

 雨が、大地を激しく叩いていた。


 新介は刀の柄を握り直した。


 濡れた掌の中で、柄がわずかに滑る。


 冷たい雨が頬を打つ。


 胸の奥に、冷たいものが走った。


 死ぬかもしれない。


 その思いが、はっきりと浮かんだ。


 だが、新介は足を止めなかった。


 喉は渇き、鼓動だけが耳の奥で大きく響いている。


 雨の向こうには、無数の影が蠢いていた。


 その中に、一人だけ微動だにしない武者がいる。


 やがて雨の幕がわずかに薄れ、その姿が輪郭を帯びてくる。


 濡れた黒漆の具足。


 長槍を構えた武者。


 その背後には幾人もの近習が控え、さらにその奥には、誰よりも深く雨を受けながら、静かに戦場を見据える男がいた。


 新介は息を呑んだ。


 ――あれが、今川の大将か。


 長槍が、ゆっくりと上がった。


 その動きを見た瞬間、新介の足が止まる。


 動かなければならない。


 分かっている。


 それでも足は思うように動かなかった。


 その時だった。


 あの日の言葉が、脳裏によみがえった。


 ――恐れながら進め。


 新介は静かに息を吐いた。


 刀を握る手から、わずかに力が抜ける。


 恐怖が消えたわけではない。


 消す必要もなかった。


 ただ、それを抱えたまま進むしかない。


 雨の匂いが、新介の記憶を、あの朝へと遡らせていった。


     *


 永禄三年五月。


 その朝の尾張は、まだ穏やかだった。


 庭では兄が薪を割る音が、小気味よく響いている。


 母は竈に火を起こし、朝餉の支度に追われていた。


 幼い妹は庭先にしゃがみ込み、小さな野花を集めては、地面に並べて嬉しそうに眺めている。


 新介は縁先に腰を下ろし、膝に置いた刀を静かに磨いていた。


 刃に朝の光が細く走る。


 いつもの朝だった。


 聞き慣れた足音が、門の前で止まった。


 「おはようございます」


 「おはよう。今日も早いね」


 「畑へ行く前に、少しだけ寄りました」


 いつもと変わらぬ朝の声だった。


 新介は刀から目を離さなかったが、その声を聞くと自然に口元が緩んだ。


 妹が門の方へ駆け寄る。


 娘はしゃがみ込み、手にしていた小さな野花を妹へ渡した。


 「これ、あげる」


 「ありがとう!」


 妹は嬉しそうに花を抱えた。


 新介はその様子を横目で見ながら、刀を磨き終えた。


 刃を拭い、鞘へ納める。


 懐へ手を入れると、幼い頃から持ち続けている小さなお守りに指が触れた。


 今日も、そこにある。


 それだけで、なぜか少しだけ心が落ち着いた。


 その時、村の外からかすかな物音が聞こえた。


 最初は、誰も気に留めなかった。


 だが、やがてその音は近づいてくる。


 荒い息。


 地面を蹴る足音。


 誰かが走っている。


 兄が薪割りの手を止めた。


 母も竈から顔を上げる。


 村道の向こうから、一人の男が駆けてくるのが見えた。


 足は泥だらけだった。


 息は乱れ、何度も後ろを振り返っている。


 ただ事ではない。


 新介は立ち上がった。


 男は村の入り口まで来ると、膝に手をつき、大きく息を吸った。


 そして、村中に響く声で叫んだ。


 「今川が来た!」

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