第15話 大将首
背後で、鉄が土を打つ音が響いた。
遅れて、左近の身体が静かに崩れ落ちる。
豪雨だけが、何事もなかったかのように降り続いていた。
義元は、その音を聞いていた。
だが、振り返らない。
新介から目を逸らすことなく、静かに口を開いた。
「……よく務めた」
長年にわたって主君を支えてきた武士へ送るには、あまりにも短い言葉だった。
それでも、その一言に込められたものを、新介には測ることができなかった。
義元の眼差しには、悲しみも怒りも表れていない。
左近の死を悼む暇さえ惜しんでいるようにも見えた。だが、そうではないのかもしれない。ただ、主君として今なすべきことだけを見定めている――新介には、そんなふうに映った。
新介は、目の前の男を見つめた。
左近とは違う。
先ほどまで本陣を守っていた武者には、近づく者を退ける鋭さがあった。それに対して義元から感じるものは、もっと静かで、容易には形を掴めないものだった。
雨に濡れた陣羽織。
静かに抜かれた刀。
それは名工左文字の作であり、義元の愛刀である宗三左文字だった。
そして、その刀を握る義元の眼差し。
周囲ではなお兵たちが斬り結び、怒号と鉄の音が絶え間なく響いている。それでも義元の立つ場所だけは、まるで別の時間が流れているように見えた。
(これが……今川義元)
新介は、知らず息を呑んだ。
その時、義元の近習たちが数人、主君のもとへ駆け寄ろうとした。
「殿!」
義元は視線を新介から外さないまま、静かに告げた。
「下がれ」
短い言葉だった。
しかし、近習たちはすぐにその意味を悟った。
一礼すると、誰一人言い返すことなく向きを変え、押し寄せる織田兵へ斬りかかっていく。
義元の前に、再びわずかな空間が生まれた。
小平太が槍を担ぎ直す。
「ようやく大将首だな」
新介は義元から目を離さなかった。
「ああ」
二人は静かに構えた。
義元もまた、刀を正眼に構える。
その構えには力みがない。肩も上がっていない。足も動かない。ただ、長年刀を握ってきた者だけが持つ、揺るぎのなさがあった。
雨音が、三人の間を埋めている。
義元が静かに口を開いた。
「参れ」
新介が踏み込んだ。
泥を蹴り、刀を振り下ろす。
義元は動かなかった。
刀だけが、静かに閃いた。
刃と刃が触れた瞬間、新介の刀が外へ流される。
身体ごと崩されそうになり、新介は慌てて踏み直した。
(届かない)
左近とは違う。
あの男の強さは、鋭さそのものだった。
だが、義元の太刀には別のものがある。
動きが少ない。
それなのに、こちらの力がすべて逃がされてしまう。
構えも、足運びも、刀の軌道も、長い年月をかけて磨かれてきたものなのだと、新介には直感的に分かった。
そこへ小平太が踏み込んだ。
「おらぁ!」
渾身の突きが、義元へ迫る。
義元は半歩も退かなかった。
刀を返す。
槍先がわずかに逸れた。
その瞬間、義元の刃が走る。
小平太は咄嗟に身を引いた。
頬が浅く裂け、熱い血が雨の中へ流れていく。
小平太は親指で頬の血を拭った。
その顔に、怯えはなかった。
むしろ、口元がわずかに吊り上がる。
「……ようやく本番だ」




