第14話 最後の壁
豪雨の中、三人は向かい合っていた。
左近の肩からは、先ほど受けた傷の血が流れ続けている。それでも太刀を握る右手は下がらず、義元の前に立つその姿には、傷を負った者の弱さが少しも感じられなかった。
新介は静かに息を整えた。
小平太も槍を構え直す。
二人とも、もう言葉を交わさなかった。ここで必要なのは言葉ではない。目の前に立つ男を越え、その先にいる義元へ届くことだけだった。
小平太が泥を蹴った。
左近も同時に踏み込む。
槍と太刀が激しくぶつかり、火花が雨の中へ散った。小平太は肩の傷を押して槍を繰り出し、左近はそれを受け、流し、弾いていく。その動きには、先ほどまでと変わらぬ鋭さが残っていた。
新介は横へ回った。
真正面からではない。
左近の視界の端へ入り、わずかずつ間合いを詰めていく。
左近の目が新介を追った。
その瞬間、小平太の槍が突き込まれる。
左近は穂先を払い、新介へ向き直った。
新介は踏み込んだ。
刀を振り抜く。
刃が左近の胴を捉え、具足の隙間を裂いた。
血が飛んだ。
左近の身体が、わずかに揺れる。
それでも倒れない。
太刀を握る手も緩まなかった。
新介は思わず足を止めた。
小平太も槍を構えたまま、目の前の男を見つめている。
これほどの傷を負って、なお立っている。
「……まだ立つのか」
新介の口から、思わず声が漏れた。
左近は答えなかった。
肩から流れる血も、胴を裂かれた傷から滲む血も、豪雨がすべて洗い流していく。それでも、その足は一歩たりとも退かない。
義元の前に立つ。
ただ、それだけを守るように。
小平太が低く息を吐いた。
「やっぱり強ぇな」
左近の太刀が、わずかに下がった。
それでも、道は開かなかった。
新介は左近の目を見た。
そこには怒りも焦りもない。ただ、自分の務めを終えるまでは動かぬという、揺るがない意志だけがあった。
新介は刀を握り直した。
このまま斬り合いを続ければ、時間を失う。
その時間は、義元へ届く機会を失うことになる。
ならば、斬り倒す必要はない。
越えればいい。
新介は一歩、左へ動いた。
左近の正面から外れる。
小平太も、それに合わせるように槍を構えたまま横へ動いた。
左近の身体が、二人の動きを追う。
新介が駆けた。
小平太も続く。
二人は左近の脇を抜けた。
左近は振り返らなかった。
最後まで、その身は義元の前にあった。
その背後で、陣幕が大きく揺れている。
新介は足を止めた。
雨の向こうに、一人の男が立っている。
今川治部大輔義元。
初めて間近に見るその姿は、周囲の戦場とは不釣り合いなほど静かだった。
周囲では兵たちがなお激しく入り乱れている。怒号が飛び交い、槍がぶつかり、泥と血が雨に流されている。
それでも義元は動かなかった。
ただ、新介と小平太を見ている。
その眼差しに、動揺はない。
恐れもない。
これが幾多の戦を越え、国を背負ってきた男の目……
新介は刀を握る。
小平太も槍を構えた。
その背後から、何かが泥を打つ音が聞こえた。
振り返る。
左近の身体は、ゆっくりと地へ崩れ落ちていた。
新介は、ほんの一瞬だけその姿を視界に捉えた。
そして、再び前を向く。
目の前には、街道一の弓取りと言われた今川義元がいた。




