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第三話「足音」


 三日前の夜のことを、真壁は正確に思い出せなかった。


 おかしい、と思った。刑事の記憶は訓練されている。日時、場所、言葉、順序。細部を記録することが仕事だった。二十年間、そうしてきた。


 でも三日前の夜だけが、輪郭を失っていた。


 結菜と話した。夕食を食べた。廊下で音がした。確認しに行った——いや、行かなかったか。行ったが誰もいなかったか。それとも行こうとして止まったか。


 どれが正しいのか、分からなかった。


 三つの記憶が、同時に存在していた。


 矛盾しているはずなのに、どれも「あった」気がした。どれを選ぶべきか、分からなかった。選ぶ、という感覚自体がおかしかった。記憶は選ぶものではない。あったことが残るだけだ。


 でも今は、選べる気がした。


 どれが本当か、分からないから。



 朝の署。コーヒーを飲みながら、手帳を開いた。三日前のページを見た。


 空白だった。


 三日前の欄に、何も書いていなかった。


 真壁は手帳を持ち直した。三日前のページを、もう一度見た。確かに空白だった。何も書いていなかった。でも——記憶の中では、何かを書いた気がした。九条玲司と会った翌日のことを、何か書き留めた気がした。


 書いたのか、書こうとしたのか、書いたと思っているだけなのか。


 分からなかった。


 手帳を閉じた。


 眠れていないせいだ、と思った。眠れていないと記憶の整合性が崩れる。それは知識として知っていた。睡眠不足と記憶の歪みは、関係がある。


 だから気にしなかった。


 気にしないことにした。


 でも——手帳の空白は、そこにあった。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


FILE 08 捜査メモ③


事件番号:██-████

記録日時:██月██日 09:15

担当:真壁恒一


九条玲司 経歴裏付け調査(相馬担当)


勤務先:確認済み。勤続四年。上司評価:優秀。問題なし。

大学・大学院:確認済み。成績優秀。教授からの推薦状あり。

前勤務先:なし。センターが初職。

家族:両親ともに死亡(十代のうちに)。兄弟なし。


居住地:市内アパート。単身。訪問者の記録なし。


特記:

 センターの他職員から聴取。「仕事が丁寧」「子供に好かれる」「プライベートの話を一切しない」「飲み会には来るが、自分のことを話さない」「気づいたら帰っている」。


 関わった子供の追跡:

 担当ケース18件。全員、センター卒業後は「問題なし」で記録終了。

 ただし——18件のうち3件、卒業後に転居または行方不明(家族ごと)。

 その3件の家族の現在の所在:確認中。


備考:

 三日前の夜の記録が、手帳にない。書いたと思っていたが、空白。

 記憶の問題か、記録の問題か。


異常は認められない。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


 午後、九条から連絡が来た。


 「先日は失礼しました。お伝えし忘れたことがあります。直接でなくて構わなければ、電話でもよいですが」


 何を伝え忘れたのか。真壁は少し考えた。電話で済む話なら、電話でいい。でも——直接会う方がいい、という判断が先に来た。


 なぜ直接会う方がいいのか、理由を考えた。映像があった方がいい。表情を読める方がいい。それは刑事として正当な理由だ。でも——それだけか。


 「直接伺います」と真壁は言った。


 「ありがとうございます。センターより、外の方がよければ。近くに喫茶店があります」



 喫茶店は古い店だった。


 木の椅子。木の机。薄暗かった。窓から光が入っていたが、カーテンが半分閉まっていた。平日の午後で、客が少なかった。角のテーブルに九条が座っていた。


 真壁が向かいに座った。


 「わざわざすみません」九条が言った。「コーヒーでいいですか」


 「結構です」


 「そうですか」九条が自分のカップを持った。「伝え忘れていたことというのは——三島壮介くんの件で、もう一つ思い出したことがあって」


 「聞かせてください」


 「壮介くんが失踪する前日です。センターの前で、偶然会ったんです。私は帰るところでした。壮介くんは——来ていたわけじゃなくて、ただ前を通りかかったみたいで。立ち話をしました。五分くらい」


 「そのとき、何か言っていましたか」


 「『また来てもいいですか』と聞いてきました。もちろん来ていいと答えました。するとうれしそうで」九条がカップを置いた。「『先生はいつもここにいますよね』と言いました」


 「いつもここにいる」


 「私のことを、ここにいる人間だと思っていた。どこかへ行ってしまわない人間だと思っていた。それが安心につながっていたのかもしれない。と、今になって思います」


 真壁は手帳にメモした。「それだけですか」


 「もう一つ」九条が少し間を置いた。「立ち話が終わって、壮介くんが歩き始めたとき——後ろを振り返ったんです。何回か。私がまだいるか、確認するように」


 後ろを振り返った。


 「いなくなってしまうんじゃないかと思ったんでしょう。見えなくなるまで、何度も振り返っていました」


 九条がカップを持った。コーヒーを一口飲んだ。それだけの動作が、静かだった。音がしなかった。カップが机に戻る音が、しなかった気がした。した、のかもしれなかった。でも記憶に残っていなかった。


 「真壁さんも」と九条が言った。


 「何ですか」


 「振り返ること、増えましたか」


 真壁は九条を見た。「なぜそれを聞きますか」


 「先日お会いしたとき、そういう状態に見えたので。その後、どうかと思って」


 「職業上の観察ですか」


 「はい。でも、気になったというのも本当です」


 気になった。その言葉を真壁は頭の中で繰り返した。九条が、真壁のことを気になっている。


 「振り返ることは、増えていない」と真壁は言った。


 「そうですか」九条が微笑んだ。「それはよかった」


 嘘をついた、と真壁は思った。増えていた。昨夜も、今朝も、増えていた。でも九条には言わなかった。言えなかった。言うと、何かが変わる気がした。


 「一つ聞いていいですか」


 「どうぞ」


 「あなたは——孤独ですか」


 九条が少し、目を細めた。「唐突な質問ですね」


 「プライベートの話を一切しない、と同僚から聞きました」


 「そうですね。あまり、しません」


 「なぜですか」


 九条がカップを見た。少し間があった。「話すべき内容が、あまりないからです。特別なことが、何もない」


 「家族は」


 「いません」


 「友人は」


 「いないわけではないですが——」九条が少し考えた。「この仕事をしていると、人の孤独を扱いすぎて、自分の孤独に鈍くなります。孤独かどうかも、よく分からなくなる」


 「分からなくなる」


 「ええ。孤独に慣れた人間は、孤独を孤独と感じなくなる。だから孤独かと問われると——分からない、としか言えない」


 真壁はその言葉を聞きながら、自分のことを考えた。妻が死んで六年。結菜と二人で暮らしていた。孤独か、と問われたら——分からない、と答えるかもしれない。


 「真壁さんは」と九条が言った。「孤独ですか」


 真壁は少し黙った。「関係のない質問ですね」


 「そうですね。すみません」九条が頭を下げた。「職業病です。つい、聞いてしまう」


 「慣れています」真壁はコーヒーを断ったことを、少し後悔した。手持ち無沙汰だった。


 「一つだけ」と真壁は言った。「担当した十八件のケースのうち、三件——卒業後に転居か行方不明になっています。把握していますか」


 九条の顔が動いた。わずかに。ほんのわずかに。でも動いた。真壁は見逃さなかった。


 「……知りませんでした」と九条は言った。「それは」


 「調査中です。ご存知ないなら、それで構いません」


 「三件」九条がゆっくり繰り返した。「誰ですか」


 「調査中なので、まだお伝えできません」


 九条が頷いた。カップを持った。コーヒーを飲んだ。それだけだった。表情は——穏やかだった。動揺していなかった。でも先ほど、わずかに動いた。その一瞬だけ、動いた。


 何が動いたのか。真壁には読めなかった。



 喫茶店を出た。


 外は夕方になっていた。空が暗くなり始めていた。街灯がついた。人が増えた。


 歩きながら、九条との会話を反芻した。「いつもここにいますよね」という壮介の言葉。「見えなくなるまで、何度も振り返っていた」という九条の言葉。


 振り返ること、増えましたか。


 増えていた。増えていると言えなかった。なぜ言えなかったのか。


 恥ずかしかったのか。刑事が「後ろが気になって仕方ない」などと言えないからか。


 それだけではなかった気がした。


 もっと別の理由があった気がした。でも何なのか、分からなかった。


 角を曲がった。


 足音を聞いた。


 自分の足音の後に——一つ。


 真壁は止まった。


 後ろを振り返った。


 誰もいなかった。夕方の路地。電柱。ゴミ捨て場。猫がいた。猫が真壁を見た。目が光った。それだけだった。


 猫の足音だ、と思った。


 でも猫は——自分の後ろから来たのではなく、路地の端にいた。最初からそこにいた。


 では、あの足音は何だったのか。


 真壁は少し、その場に立っていた。路地の暗さが深くなっていた。


 歩き始めた。


 今度は、振り返らなかった。


 振り返ると——また、誰もいない。誰もいないと分かる。それが、物足りなかった。


 物足りない、と思った自分に気づいた。


 止まった。


 おかしい。確認しなければいけない。後ろに何かがいる気がするなら、確認して、いないと分かって、安心すべきだ。それが正しい反応だ。


 でも今の自分は——確認して「いない」と分かることを、避けようとしていた。


 いない、と分かりたくなかった。


 その方が——怖かった。


 真壁は歩き始めた。今度こそ、振り返らなかった。でも後ろへの意識は、消えなかった。歩きながら、ずっとそこにあった。


 後ろに何かがいる気がする。でも確認したくない。確認すると、いなくなるから。


 その思考の構造が——おかしいと分かっていた。


 でも止まらなかった。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


FILE 09 音声記録(真壁恒一 自宅録音)


録音日時:██月██日 02:17

※真壁恒一が自発的に録音を開始したと思われる。録音の動機:不明。本人はこの録音を行ったことを、翌朝記憶していなかった。


文字起こし:


 眠れない。また廊下で音がした。今夜で、何日目だ。


 確認しに行かなかった。行けなかった、のではなく——行かなかった。


 行くと、いないから。いないと分かると——物足りない。


 この感覚がおかしいと分かっている。分かっているのに止まらない。


 三日前の夜の記録が手帳にない。書いた気がするのに、ない。書いたのか、書いていないのか、もう分からない。


 九条と話してから、何かが変わった気がする。変わったのか、もともとこうだったのか。


 結菜は眠っている。健やかに眠っている。それだけは確かだ。


 廊下でまた音がした。


 行かない。


 行かない。


 まだいる。まだ、なかにいる。


 ……いると思っていた方が、眠れる気がする。


 (長い沈黙)


 おかしい。おかしいのは分かっている。


 でも——


 (録音終了)


異常は認められない。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


 翌朝、相馬が来た。


 「担当した三件の子供ですが、一件、所在確認できました」


 「どこにいた」


 「近隣の別の市に転居していました。家族ごと。引っ越しの理由は、父親の転勤。普通の転居です。本人とも話せました。元気でした」


 「そうか」


 「残り二件は——まだです。一件は転居先の記録がなく、もう一件は家族全員の消息が不明です」


 「不明」


 「戸籍は動いていない。でも現住所に誰もいない。近所の人も、いつから空き家か分からない、と。気づいたら引っ越していた、と」


 気づいたら、いなくなっていた。


 「その子供は何歳だ」


 「九条が担当していた当時、十一歳。今は十五歳のはずです」


 「名前は」


 「高橋誠一。男の子です」


 真壁は手帳にメモした。高橋誠一。十一歳のときに九条のケースになった。その後、家族ごと消えた。


 「九条に知られるな」


 「はい」


 「ただし——」真壁は少し考えた。「今すぐ動かなくていい。もう少し、様子を見る」


 「様子を見る理由は」


 真壁は答えなかった。


 理由は、うまく言葉にできなかった。動くと、何かが変わる気がした。何かが変わると——消えてしまう気がした。今まだ、何かがそこにある。その状態を、もう少し続けたかった。


 それが——おかしい、と思った。


 証拠があるなら、動くべきだ。動かない理由はない。でも今の自分は、動かないことを選んでいた。なぜか。


 「少し整理したい」と真壁は言った。「それだけだ」


 相馬が頷いた。「分かりました」



 昼過ぎ、結菜から連絡が来た。


 「今日、帰り遅くなる。友達と」


 「どこへ行く」


 「駅前。夜七時には帰る」


 「分かった。七時までに帰れ」


 「わかってるよ」


 それだけだった。


 真壁はスマートフォンを置いた。それからまた手に取った。結菜の連絡先を見た。


 何かが引っかかっていた。


 「友達と」——誰と。どの友達と。


 普段は聞かない。高校生が友達と遊ぶことを、いちいち確認しない。でも今日は、聞きたかった。


 もう一度、連絡した。


 「誰と行くんだ」


 少し間があって、結菜から返信が来た。


 「学校の子。田中さんって子。最近仲良くなった」


 「最近仲良くなった、というのはいつからだ」


 また間があった。


 「急にどうしたの。心配性になった?」


 「仕事柄だ」


 「……一週間くらい前かな。なんかいきなり話しかけてくれて。気が合いそうで」


 いきなり話しかけてきた。一週間前。


 九条に会ったのが、九日前だった。


 偶然だ、と思った。


 でも手帳に何かを書こうとして、止まった。書く前に考えた。偶然かどうか、今の自分には判断できるのか。


 「七時までに帰れ」ともう一度送った。


 「わかってます」と結菜が返した。


 真壁はスマートフォンを置いた。


 考えすぎだ、と思った。


 考えすぎだ、と二回思った。


 二回思わないといけなかった時点で、考えすぎではないかもしれなかった。



 夜、結菜が七時ちょうどに帰ってきた。


 「ただいま」


 「おう」


 「夕ごはん、何?」


 「作っていない」


 「えー」結菜がコートを脱いだ。「じゃあ、私が作る。何がいい?」


 「なんでもいい」


 結菜が冷蔵庫を開けた。真壁は結菜を見た。変わったところは、なかった。いつもの結菜だった。表情も、動作も、言葉も、いつも通りだった。


 「田中さんというのは、どんな子だ」


 結菜が振り返った。「また?なんで急に気にするの」


 「気になった」


 「うーん」結菜が考えた。「普通の子だよ。ちょっと不思議な感じがするけど、面白い人。話が上手くて、聞き上手で」


 「不思議な感じ、というのは」


 「うまく説明できないけど——なんか、自分のことをよく知られてる気がするというか。初めて話したのに、私のことを前から知ってたみたいな感じがして。なんかそれが、居心地よかった」


 居心地よかった。


 「その田中さんは、自分のことを話すか」


 「あんまり話さないかな。私ばっかり話してた気がする。でも、聞いてくれるから、つい話しちゃって」


 自分のことを話さない。相手の話を聞く。


 センターの同僚が言っていた。九条のことを。「プライベートの話を一切しない」「自分のことを話さない」。


 「お父さん、なんか怖い顔してる」と結菜が言った。「大丈夫?」


 「大丈夫だ」


 「ほんとに?」


 「本当だ」


 結菜が少し真壁を見た。それからまた冷蔵庫を向いた。「……お父さんって、心配性だったっけ」


 「そうでもない」


 「最近、そうじゃない気がする」


 真壁は何も言わなかった。


 田中さん。女の子だ。九条は男だ。同一人物ではない。関係があるとしても、九条が使っている人間なのか、あるいは全くの偶然なのか。


 証拠はなかった。


 ただ——繋がりに見えた。繋がっているかもしれないものが、そこにあった。


 確かめると、崩れる気がした。


 確かめないでいると——まだ、繋がりがある。まだ、何かがそこにある。


 「まだなかにいる」がまた鳴った。


 今夜は——止めなかった。


 鳴らしたままにした。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


九条玲司 業務日誌(センター保管)


██月██日


 今日、真壁と会った。喫茶店。予定通り。


 「三件」の件を伝えたとき、表情が動いた。動いたのを、見られた。私が意図的に動かしたのを、真壁は見た。でも「意図的だった」とは思っていない。「動揺した」と思っている。その解釈でいい。


 「振り返ること、増えましたか」に対して——嘘をついた。増えていると言わなかった。なぜ嘘をついたか。九条に知られたくなかったから、ではない。


 真壁は「知られた」と感じることを、まだ怖れている。見つけられることを、まだ拒否している。でも——拒否しながら、求め始めている。その矛盾の中に、今いる。


 正しい段階にある。


 結菜の件:田中が接触を開始。自然に見える形で。これも予定通り。


 真壁について。


 三日前の夜の記録が手帳にないことに、真壁は気づいている。眠れていない。記憶が揺らいでいる。


 記憶が揺らいだとき、人は何にすがるか。


 確かなものを探す。あった、という感覚を探す。誰かに確認してもらおうとする。


 その「確かなもの」を、こちらが用意しておく。


 次のステップ:真壁が「確認しに来る」ように、誘導する。


 何もしなくていい。待つだけでいい。


 真壁は来る。記憶を確かめるために。自分の感覚を信じてもらうために。


 来る。


 まだなかにいる。


異常は認められない。



 深夜、真壁は目が覚めた。


 時計を見た。午前二時十四分。


 廊下で音がした。


 今夜は——立ち上がった。


 廊下に出た。暗かった。結菜の部屋のドアが閉まっていた。


 向こうから、声が聞こえた。


 結菜の声だった。小さかった。寝言か、と思った。近づいた。ドアに耳を当てた。


 「……うん。知ってる」


 寝言ではなかった。話していた。


 「……うん。また明日」


 電話だった。


 深夜二時に、結菜が誰かと電話していた。


 真壁はドアの前に立ったまま、動けなかった。


 「……おやすみ」


 結菜の声が止んだ。


 真壁は廊下を戻った。自分の部屋に入った。布団に入った。


 深夜二時に電話していた相手が誰か——田中さんか、あるいは別の誰かか。確認すべきだった。でも確認しなかった。確認すると何かが壊れる気がした。


 壊れてほしくなかった。


 何が壊れてほしくないのか、分からなかった。


 「まだなかにいる」が鳴った。


 真壁は目を閉じた。


 暗い天井の向こうに、何かがいる気がした。見えないが、いる気がした。六畳の天井の向こうに、誰かが静かにこちらを見ている気がした。


 怖くなかった。


 怖くないことが、怖かった。


 でも目を閉じた。


 その視線の中で、眠ろうとした。


 眠れた。


 眠れてしまった。


 誰かに見られながら眠ることが、怖くなくなっていた。


 その事実を、眠りに落ちる直前に認識した。


 認識して——止められなかった。


 眠った。


 深い眠りだった。久しぶりに深く眠れた。


 夢の中で、押し入れの扉が開いていた。光が入ってきた。誰かが外に立っていた。顔が見えなかった。


 でも真壁は、その誰かを怖いと思わなかった。


 見ていてくれている、と思った。


 その感覚を、手放したくなかった。


 夢の中で、真壁はそのまま眠り続けた。


 誰かに見られながら。


 ずっと。



 翌朝。


 真壁は手帳を開いた。昨夜のページを見た。


 書いてあった。


 廊下の音。結菜の電話。深夜二時十四分。


 昨夜、書いたのか。書いた記憶がなかった。でも確かに、自分の字で書いてあった。


 いつ書いたのか。眠る前か、眠りながらか。


 分からなかった。


 でも——書いてある、という事実は、そこにあった。


 書いてあるから、あったのだ、と思った。昨夜の音も、結菜の声も、自分の感覚も——書いてあるから、あったのだ。


 三日前の空白のページを、もう一度見た。


 やはり空白だった。


 だから、三日前の夜は——何も確かなことがなかった、ということになる。あったと思っているが、記録がないから、確かめられない。


 記録がある夜は、確かだ。記録がない夜は、確かではない。


 そういうことか、と思った。


 記録が、現実の基準になっていた。


 それが——おかしかった。


 記録があるかどうかではなく、あったかどうかが問題のはずだ。でも今の自分には、記録のない夜の出来事を信じる力がなかった。


 記憶より記録を信じていた。


 真壁はコーヒーを飲んだ。


 苦かった。


 今朝は——鉄の味がした。


 でも今日は、その味を気にしなかった。


 気にしないことに、慣れていた。


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