第二話 「見た」
行方不明の女子高生の件は、管轄外だった。
それでも真壁は朝、その担当係に顔を出した。コーヒーを二つ持っていった。受け取った係員は少し驚いた顔をした。真壁が他係に気を使う人間ではないことを、署内の全員が知っていた。
「第四橋の案件と、防犯カメラの映像が一致した」
係員が眉を寄せた。「どういうことですか」
「同じ人間が映っている可能性がある。山田義雄の件と、三島壮介の件と、この女子高生の件と」
三件。全て別の担当。全て証拠薄。
全て「自然死」か「行方不明」で処理されていた。
係員が少し黙った。
「映像、見せてもらえますか」
真壁はUSBを置いた。
「共有する。ただ——見るときは一人で見るな」
「なんでですか」
「見ていると、目が離せなくなる。一人で見たら、引っ張られる」
係員がまた黙った。引っ張られる、という言葉の意味を、うまく掴めていない顔だった。真壁自身も、うまく説明できなかった。だから説明しなかった。
*
昼過ぎ、松田に呼ばれた。
「児童支援センターから連絡が来た」
「はい」
「三島壮介の件で、相談に乗っていた心理士がいる。センターの職員だ。事情を聞きたいなら会わせてやる」
真壁は少し驚いた。松田が調べていたとは思っていなかった。
「……ありがとうございます」
「どうでもいい死体にも、多少は付き合ってやる」松田が煙草に火をつけた。「ただし、これ以上リソースを使うな。お前一人でやれ」
「分かりました」
「相手の名前は九条玲司。明日の午後、センターに来てくれるそうだ」
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FILE 06 接触記録①
事件番号:██-████
記録日時:██月██日 14:05
場所:○○市児童支援センター 第二面接室
担当:真壁恒一
対象:九条玲司(32歳・男性)
職種:児童心理士
所属:○○市児童支援センター(勤続4年)
外見:
中背。細身。清潔感のある服装。眼鏡なし。声は低く、ゆっくりとしている。笑顔が多い。自然な笑顔。不自然なほど自然な笑顔。
特記事項:
三島壮介との関与について、否定も肯定もしなかった。「担当していたのは事実です」とだけ言った。それ以上は語らなかった。語らないことに、躊躇がなかった。
話している間、目を逸らさなかった。一度も。
帰り際、こちらを見たまま言った。「真壁さんは、眠れていますか」
異常は認められない。
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面接室は白かった。
壁が白く、天井が白く、机が白く、椅子が白かった。窓があった。曇りガラスで、外の形が見えなかった。光だけが入ってきた。拡散した白い光が、部屋全体に均等に広がっていた。影がなかった。影のない部屋だった。
真壁は早めに来て、部屋を確認した。出入り口は一つ。逃げ場のない構造だった。カウンセリング用に設計された部屋だった。ここで何人もの子供が泣いたのだろうと思った。ここで何人もの親が崩れたのだろうと思った。
部屋に入ってきたのは、ごく普通の男だった。
「真壁さんですか。九条です」
白いシャツ。紺のスラックス。清潔だった。整っていた。三十二歳。でも実際に見ると、もう少し若く見えた。顔立ちが整っていた。穏やかだった。笑顔だった。
真壁は立ち上がって名刺を渡した。九条が受け取った。両手で受け取った。丁寧に見た。ポケットにしまった。その動作の一つ一つが、過不足がなかった。多くもなく、少なくもない。計算されたような、でも計算されているように見えない動作だった。
向かい合って座った。
*
「三島壮介さんについて、お聞きしたいことがあります」
「はい」
「センターに来ていたんですね」
「来ていました。三ヶ月ほど」
「どういう経緯で」
「お母さんが連れてきました。学校での孤立が気になると。お父さんが単身赴任で、お母さんが一人で抱えていた。そういうケースです」
「壮介くん自身は、どういう状態でしたか」
九条が少し考えた。真壁は九条の顔を観察した。考える顔だった。本当に思い出しているような顔だった。演じているのか、本物なのか、真壁には判断できなかった。
「孤独でした」と九条は言った。
「でも孤独であることを、自覚していなかった。自覚していないから、つらいとも言えない。つらいと言えないから、誰も気づかない。気づかれないから、さらに孤独になる。そういう循環にいました」
「あなたとのカウンセリングでは、何を話していましたか」
「主に、学校のことです。クラスメートのこと。先生のこと。家のこと」
「最後に会ったのはいつですか」
「失踪する、三日前です」
三日前。真壁は手帳にメモした。最後のセッションで、変化はありましたか、と聞こうとした。でも九条が先に言った。
「元気そうでした」
「元気、ですか」
「はい。いつもより、少し表情が明るかった。何かあったのかと聞いたら、笑って『誰かに見つけてもらえた気がする』と言いました」
真壁の手が止まった。
「見つけてもらえた」
「そう言いました」
「誰に」
「分からない、と言っていました。でもそういう気がする、と。うれしそうでした」
真壁は九条を見た。九条は真壁を見ていた。視線が交差したとき、九条が微笑んだ。ごく自然な微笑みだった。
「それが最後の言葉でした」と九条は言った。「三日後に、いなくなった」
*
話しながら、真壁はずっと九条を観察していた。
刑事の仕事は観察だ。人の顔を読む。声のトーンを読む。目の動きを読む。言葉と体の動きのズレを読む。それを積み重ねて、相手の内側を推測する。二十年やってきた。たいていの人間は、何かが「ズレている」。
九条には、ズレがなかった。
感情と表情が、一致していた。言葉と目線が、一致していた。身振りと声のトーンが、一致していた。何もかもが、一致していた。
それが——不自然だった。
人間は、何かが必ずズレている。意識と無意識のズレ。言いたいことと言えることのズレ。感じていることと表現できることのズレ。そのズレが人間の証拠だ。完璧に一致している人間は、いない。
九条には、一致があった。
一致しすぎていた。
それは演技か、と考えた。演技なら、どこかにズレが出るはずだ。演技の下に本物があるはずで、本物が漏れ出る瞬間があるはずだ。
でも——漏れなかった。
ただ、完璧に一致していた。
「他に、何かお聞きになりたいことは」
九条の声だった。真壁は我に返った。考えに引き込まれていた。何秒経ったのか、分からなかった。
「失踪前後に、壮介くんと接触した人間に心当たりは」
「私以外には、思い当たりません」
「壮介くんが、『見つけてもらえた』と言った相手について——」
「分かりません」九条が静かに言った。「でも、その言葉の意味は分かります」
「どういう意味ですか」
「孤独な人間が、誰かに気づいてもらえたとき——それが誰であっても、どんな形であっても、人は動きます。どこへでも。見つけてくれた方向へ」
真壁は黙っていた。
「壮介くんは、長い間一人でした。一人でいることに、慣れていた。慣れていたから、孤独だと思っていなかった。でも体は覚えていた。誰かに気づいてもらえることの感触を。その感触が戻ってきたとき——彼はどこへでも行けた」
「どこへでも、というのは」
九条が真壁を見た。真壁も九条を見た。
「見つけてくれた人が連れて行く場所なら、どこへでも」
部屋が静かだった。拡散した白い光の中で、二人は向かい合って座っていた。
真壁は何かを言おうとした。言葉が出なかった。九条の言葉が頭の中で反響していた。孤独な人間は、見つけてくれた方向へ動く。どこへでも。
山田義雄が浮かんだ。六十一歳。橋の下で四年間、誰にも気づかれなかった男が。死ぬ前夜、うれしそうに誰かと話していた。
壮介が浮かんだ。孤立した中学生が。失踪する三日前、「見つけてもらえた気がする」と笑っていた。
「ありがとうございました」
真壁は立ち上がった。手帳を閉じた。九条も立ち上がった。
「お役に立てれば」と九条は言った。
部屋を出た。廊下に出た。白い廊下だった。センターの廊下には子供の絵が貼ってあった。色とりどりの絵。家族の絵。動物の絵。笑っている絵。
その中に一枚、人の形だけが描かれた絵があった。色がなかった。輪郭だけだった。顔がなかった。ただ立っていた。
真壁は少し立ち止まった。それを見た。
「真壁さん」
九条の声だった。振り返った。九条が廊下の入口に立っていた。
「眠れていますか」
真壁は少し驚いた。「……なぜですか」
「目の下に隈があります。三日以上、十分に眠れていない顔です」
「仕事柄、眠れない夜もある」
「そうですね」九条が微笑んだ。「でも、眠れない理由が『後ろが気になるから』だとしたら——それは仕事のせいではないかもしれない」
真壁は動けなかった。
後ろが気になる、と言ったか。誰かに言ったか。相馬には言った。でも九条には言っていない。言っていないはずだった。
「……どういう意味ですか」
「目でわかります」九条は穏やかに言った。「後ろを気にする人間は、目の動き方が変わる。会話中に、一瞬、視線が横に逃げる。ほんの少しだけ。でも確かにある。そういう目をしていました」
真壁は九条を見た。九条は真壁を見ていた。
「プロの観察ですね」と真壁は言った。
「お互い様です」と九条は言った。「刑事さんも、ずっと私を観察していた」
「それが仕事ですから」
「私もそうです」
九条が微笑んだ。その微笑みが——真壁には読めなかった。笑顔の意味が、分からなかった。
*
センターを出た。
駐車場で、真壁は少し立ち止まった。空が曇っていた。風がなかった。湿っていた。
九条玲司。
おかしい、という感覚があった。でもおかしい理由を言葉にできなかった。言葉にできないから、証拠にならない。証拠にならないから、何もできない。
ただ——何かが引っかかっていた。
「見つけてくれた方向へ、どこへでも行ける」という言葉が、頭から消えなかった。
その言葉の意味を、九条はよく知っているように見えた。説明として語っているのではなく——経験として語っているように見えた。
気のせいかもしれなかった。
でも気のせいとも言い切れなかった。
車に乗った。エンジンをかけた。バックミラーを見た。後部座席が見えた。誰もいなかった。
当然だ。
でも——確認した。確認しなければ、気になってしまうから。
確認した後も、少しだけ気になった。
真壁はアクセルを踏んだ。
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FILE 07 捜査メモ②
事件番号:██-████
記録日時:██月██日 18:20
担当:真壁恒一
九条玲司について。
経歴:
大学で臨床心理を専攻。大学院修了後、児童支援センター入職。勤続四年。上司の評価:非常に優秀。子供からの信頼が厚い。クレームゼロ。
問題点:
三島壮介との最後の面談から失踪まで三日。最後の言葉が「見つけてもらえた気がする」。九条がその言葉の意味を、詳しく知っているように見えた。
会話中、目を一度も逸らさなかった。こちらの観察を、逆に観察していた。
「後ろが気になる」ことを、言っていないのに言い当てた。
違和感:
ズレがない。感情と表現が一致しすぎている。それが——不自然だった。
人間的すぎるのか、人間ではないのか。その判断が、つかなかった。
追記:
帰宅後、バックミラーを四回確認した。いずれも誰もいなかった。
それでも気になった。
九条と話した後から、後ろの気になり方が変わった気がする。変わったのか、気のせいなのか、分からない。
異常は認められない。
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夜、結菜が珍しく早く帰ってきた。
「今日、早いな」
「うん」結菜がコートを脱いだ。「お父さんこそ、なんか顔色悪くない?」
「眠れていない」
「また?」結菜が冷蔵庫を開けた。「最近ずっとそうじゃん」
「仕事だ」
「嘘ついてる顔してる」
真壁は黙った。結菜が振り返った。十六歳。母親に似た目をしていた。鋭い目だった。
「なんか変なことあった?」
「ない」
「本当に?」
「本当だ」
結菜が少し考えた。「……ねえ、お父さん」
「何だ」
「最近、夜中に廊下歩いてる?」
真壁は手が止まった。「お前が歩いているんじゃないのか」
結菜が首を振った。「私、ここ最近ずっとよく眠れてる。夜中に起きた記憶がない」
「そうか」
「お父さんじゃないの?」
「私じゃない。お前だと思っていた」
二人が黙った。夜の台所は静かだった。冷蔵庫のモーター音がした。
「じゃあ誰が歩いてたの」結菜が少し笑った。「幽霊?」
真壁は笑わなかった。「気のせいだろう」
「そっか。うん、そうだよね」結菜がコップに水を注いだ。「あ、でも昨日の夜、なんか変な夢見たよ」
「どんな夢だ」
「誰かにずっと見られてる夢。姿は見えないんだけど、見られてる感じがずっとして。怖くなかったんだけど——なんか、落ち着いた気持ちになってた。変な夢だよね」
真壁は結菜を見た。
落ち着いた、と言った。見られていて、落ち着いた。
「怖くなかったのか」
「うん。むしろ、安心したっていうか。見ててくれてる人がいる、みたいな感じで。目が覚めたとき、少し寂しかった」
少し寂しかった。
「結菜」
「なに?」
「最近、学校で誰かに——妙に親切にされたとか、気にかけてもらったとか、そういうことはないか」
結菜が少し考えた。「んー、特には。なんで?」
「何でもない」
「なんか刑事みたいな聞き方だね」結菜が笑った。「お父さんいつもそうだけど」
真壁は笑えなかった。
見られていて、落ち着いた。見ててくれてる人がいる、みたいな感じ。
その言葉が、山田義雄と重なった。壮介と重なった。
三島壮介が言ったのだ。見つけてもらえた気がする、と。うれしそうに。
そして三日後にいなくなった。
真壁はコーヒーを飲んだ。苦かった。
*
夜中、眠れなかった。
布団の中で天井を見ていた。電気は消していた。暗かった。
廊下で音がした。
真壁は起き上がった。廊下に出た。暗かった。結菜の部屋のドアが閉まっていた。向こうから寝息が聞こえた。眠っていた。
廊下には誰もいなかった。
いつものことだった。でも今夜は違うことをした。
廊下の端に立った。暗闇の中に立った。目を閉じた。耳を澄ました。
何も聞こえなかった。風もなかった。音もなかった。
ただ——いる気がした。
いる気がした。そのいる気がする方向に、意識を向けた。何もなかった。見えなかった。聞こえなかった。
でも「いる」という確信は、消えなかった。
目を開けた。暗い廊下があった。誰もいなかった。
九条玲司の声が浮かんだ。「後ろが気になるから眠れない——それは仕事のせいではないかもしれない」
どういう意味だったのか。
言い当てた。言っていないのに言い当てた。なぜ分かったのか。目の動きから、と言った。でもそれだけで分かるのか。
真壁は廊下の壁に手をついた。
九条と話してから、何かが変わった気がした。変わったのか、気のせいなのか。でも確かに——九条と会う前より、後ろの気になり方が強くなった。廊下への意識が強くなった。
引っ張られている、と思った。
何かに。誰かに。
「まだなかにいる」
その言葉がまた来た。どこから来るのかも分からない言葉が。頭の中で勝手に鳴る言葉が。
なかに、何が。
自分の中に。この廊下に。この暗闇に。
「まだ」というのは——まだいる、ということか。最初からいる、ということか。
真壁は自分の部屋に戻った。布団に入った。電気はつけなかった。
暗い天井を見た。目を閉じた。
また音がした。
廊下で。
今度は——止まらなかった。確認しに行かなかった。
音を聞きながら、目を閉じたまま、動かなかった。
音がした。また音がした。
止まった。
静かになった。
真壁は目を閉じたまま、長い時間をかけてゆっくりと眠った。
眠りながら思った。確認しなかったのは、怖かったからではない。
確認すると、いなくなる気がした。
いなければ、また探し始めなければならない。それが——怖かったのかもしれない。
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九条玲司 業務日誌(センター保管)
██月██日
本日、警察の方が来訪。三島壮介の件で。
真壁恒一警部補。五十代。眠れていない。後ろを気にしている。観察力は高い。気づくが、確信を持てない。それがちょうどよい。
目の動き:左後方への逸れが四回。話している最中に、廊下が気になった回数:推定二回。帰り際にバックミラーを確認する可能性:ほぼ確実。
反応は予想通り。
「見つけてもらえた気がする」という言葉を、壮介の言葉として伝えた。効いた。目が止まった。手が止まった。その後、回復した。でも、頭の中には残った。残るように渡した言葉だから。
追記:結菜(真壁の娘・16歳)の動向も確認済み。学校での孤立傾向はまだない。時間がある。
次の接触は自然に訪れる。真壁の方から来る。そういう構造になった。
あとは、待つだけでよい。
異常は認められない。
*
翌朝、署に着くと相馬が待っていた。
「昨夜、眠れましたか」
「少し」と真壁は言った。「お前は」
「眠れました」相馬が珍しく、すっきりした顔をしていた。「四時間だけど、ちゃんと眠れた。何も気にならなかった」
「後ろも」
「昨夜は——気にならなかったです」相馬が少し考えた。「でも今朝、署に来る途中で、また少し気になって。気にならない時間が続いたら、なんか——物足りないというか」
真壁は相馬を見た。「物足りない」
「変なこと言ってますよね。でも、そう感じたんです。気になって振り返ってる方が、なんか——いる気がして。気にならないと、ただ一人な感じがして」
一人な感じ。
真壁は昨夜の廊下を思い出した。音がして、確認しに行かなかった。確認すると、いなくなる気がした。いなければ、また一人になる気がした。
「相馬」
「はい」
「それは、おかしい」
「……分かってます」
「後ろに何かがいる気がすることに、慣れてはいけない。それは正常ではない」
「分かってます」相馬が繰り返した。「でも、正常に戻ろうとすると——そっちの方が怖い気がして」
真壁は何も言えなかった。
分かった、と思った。相馬の言っていることが、分かった。分かってしまった。
正常に戻ることへの怖さ。後ろに何もいない状態への怖さ。
それが、おかしかった。おかしいと分かっていた。でも分かっていても、その感覚は消えなかった。
「九条玲司という人物を、もう少し調べる」真壁は立ち上がった。「経歴の裏を取れ。関わった子供の追跡調査。センターの他の職員から話を聞く。表からではなく、横から」
「横から、というのは」
「九条本人に分からないように。知られたら——まずい気がする」
知られたら何がまずいのか、真壁には言葉にできなかった。でも確かにそう思った。
「分かりました」相馬がノートを取り出した。「ただ——課長」
「何だ」
「昨夜、結菜さんは何かおかしいことを言いませんでしたか」
真壁は手が止まった。「なぜ結菜の名前が出る」
「すみません。なんとなく、聞きたかっただけです」相馬が少し視線を落とした。「センターで、九条さんが——ちらっと、家族のことを聞いてきませんでしたか」
真壁は九条との会話を頭の中で反芻した。家族については——聞かれたか。聞かれなかったか。
聞かれなかった。
でも。
業務日誌の最後の行が、頭に浮かんだ。
——いや、業務日誌など見ていない。
真壁はその考えを振り払った。
「何も聞かれていない」
「そうですか」相馬が頷いた。「……気のせいですね」
「そうだ」
二人が黙った。
真壁は窓の外を見た。今日も曇っていた。
「まだなかにいる」がまた鳴った。消えなかった。今日も消えなかった。
いる、と思った。
どこかに。廊下の暗さの向こうに。バックミラーの後部座席に。防犯カメラの映像の〇・三秒に。
まだ、いる。
真壁はコーヒーを一口飲んだ。苦かった。鉄の味はしなかった。今日は普通の苦さだった。
普通に戻った、と思うよりも先に——少しだけ、物足りないと感じた。
その感覚に気づいた瞬間、真壁は自分が正常ではなくなり始めていることを、初めて確かに思った。




