表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/12

第二話 「見た」

 行方不明の女子高生の件は、管轄外だった。


 それでも真壁は朝、その担当係に顔を出した。コーヒーを二つ持っていった。受け取った係員は少し驚いた顔をした。真壁が他係に気を使う人間ではないことを、署内の全員が知っていた。


 「第四橋の案件と、防犯カメラの映像が一致した」


 係員が眉を寄せた。「どういうことですか」


 「同じ人間が映っている可能性がある。山田義雄の件と、三島壮介の件と、この女子高生の件と」


 三件。全て別の担当。全て証拠薄。

全て「自然死」か「行方不明」で処理されていた。


 係員が少し黙った。

「映像、見せてもらえますか」


 真壁はUSBを置いた。

「共有する。ただ——見るときは一人で見るな」


 「なんでですか」


 「見ていると、目が離せなくなる。一人で見たら、引っ張られる」


 係員がまた黙った。引っ張られる、という言葉の意味を、うまく掴めていない顔だった。真壁自身も、うまく説明できなかった。だから説明しなかった。



 昼過ぎ、松田に呼ばれた。


 「児童支援センターから連絡が来た」


 「はい」


 「三島壮介の件で、相談に乗っていた心理士がいる。センターの職員だ。事情を聞きたいなら会わせてやる」


 真壁は少し驚いた。松田が調べていたとは思っていなかった。


 「……ありがとうございます」


 「どうでもいい死体にも、多少は付き合ってやる」松田が煙草に火をつけた。「ただし、これ以上リソースを使うな。お前一人でやれ」


 「分かりました」


 「相手の名前は九条玲司。明日の午後、センターに来てくれるそうだ」


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


FILE 06 接触記録①


事件番号:██-████

記録日時:██月██日 14:05

場所:○○市児童支援センター 第二面接室

担当:真壁恒一


対象:九条玲司(32歳・男性)

職種:児童心理士

所属:○○市児童支援センター(勤続4年)


外見:

 中背。細身。清潔感のある服装。眼鏡なし。声は低く、ゆっくりとしている。笑顔が多い。自然な笑顔。不自然なほど自然な笑顔。


特記事項:

 三島壮介との関与について、否定も肯定もしなかった。「担当していたのは事実です」とだけ言った。それ以上は語らなかった。語らないことに、躊躇がなかった。


 話している間、目を逸らさなかった。一度も。


 帰り際、こちらを見たまま言った。「真壁さんは、眠れていますか」


異常は認められない。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


 面接室は白かった。


 壁が白く、天井が白く、机が白く、椅子が白かった。窓があった。曇りガラスで、外の形が見えなかった。光だけが入ってきた。拡散した白い光が、部屋全体に均等に広がっていた。影がなかった。影のない部屋だった。


 真壁は早めに来て、部屋を確認した。出入り口は一つ。逃げ場のない構造だった。カウンセリング用に設計された部屋だった。ここで何人もの子供が泣いたのだろうと思った。ここで何人もの親が崩れたのだろうと思った。


 部屋に入ってきたのは、ごく普通の男だった。


 「真壁さんですか。九条です」


 白いシャツ。紺のスラックス。清潔だった。整っていた。三十二歳。でも実際に見ると、もう少し若く見えた。顔立ちが整っていた。穏やかだった。笑顔だった。


 真壁は立ち上がって名刺を渡した。九条が受け取った。両手で受け取った。丁寧に見た。ポケットにしまった。その動作の一つ一つが、過不足がなかった。多くもなく、少なくもない。計算されたような、でも計算されているように見えない動作だった。


 向かい合って座った。



 「三島壮介さんについて、お聞きしたいことがあります」


 「はい」


 「センターに来ていたんですね」


 「来ていました。三ヶ月ほど」


 「どういう経緯で」


 「お母さんが連れてきました。学校での孤立が気になると。お父さんが単身赴任で、お母さんが一人で抱えていた。そういうケースです」


 「壮介くん自身は、どういう状態でしたか」


 九条が少し考えた。真壁は九条の顔を観察した。考える顔だった。本当に思い出しているような顔だった。演じているのか、本物なのか、真壁には判断できなかった。


 「孤独でした」と九条は言った。

「でも孤独であることを、自覚していなかった。自覚していないから、つらいとも言えない。つらいと言えないから、誰も気づかない。気づかれないから、さらに孤独になる。そういう循環にいました」


 「あなたとのカウンセリングでは、何を話していましたか」


 「主に、学校のことです。クラスメートのこと。先生のこと。家のこと」


 「最後に会ったのはいつですか」


 「失踪する、三日前です」


 三日前。真壁は手帳にメモした。最後のセッションで、変化はありましたか、と聞こうとした。でも九条が先に言った。


 「元気そうでした」


 「元気、ですか」


 「はい。いつもより、少し表情が明るかった。何かあったのかと聞いたら、笑って『誰かに見つけてもらえた気がする』と言いました」


 真壁の手が止まった。


 「見つけてもらえた」


 「そう言いました」


 「誰に」


 「分からない、と言っていました。でもそういう気がする、と。うれしそうでした」


 真壁は九条を見た。九条は真壁を見ていた。視線が交差したとき、九条が微笑んだ。ごく自然な微笑みだった。


 「それが最後の言葉でした」と九条は言った。「三日後に、いなくなった」



 話しながら、真壁はずっと九条を観察していた。


 刑事の仕事は観察だ。人の顔を読む。声のトーンを読む。目の動きを読む。言葉と体の動きのズレを読む。それを積み重ねて、相手の内側を推測する。二十年やってきた。たいていの人間は、何かが「ズレている」。


 九条には、ズレがなかった。


 感情と表情が、一致していた。言葉と目線が、一致していた。身振りと声のトーンが、一致していた。何もかもが、一致していた。


 それが——不自然だった。


 人間は、何かが必ずズレている。意識と無意識のズレ。言いたいことと言えることのズレ。感じていることと表現できることのズレ。そのズレが人間の証拠だ。完璧に一致している人間は、いない。


 九条には、一致があった。


 一致しすぎていた。


 それは演技か、と考えた。演技なら、どこかにズレが出るはずだ。演技の下に本物があるはずで、本物が漏れ出る瞬間があるはずだ。


 でも——漏れなかった。


 ただ、完璧に一致していた。


 「他に、何かお聞きになりたいことは」


 九条の声だった。真壁は我に返った。考えに引き込まれていた。何秒経ったのか、分からなかった。


 「失踪前後に、壮介くんと接触した人間に心当たりは」


 「私以外には、思い当たりません」


 「壮介くんが、『見つけてもらえた』と言った相手について——」


 「分かりません」九条が静かに言った。「でも、その言葉の意味は分かります」


 「どういう意味ですか」


 「孤独な人間が、誰かに気づいてもらえたとき——それが誰であっても、どんな形であっても、人は動きます。どこへでも。見つけてくれた方向へ」


 真壁は黙っていた。


 「壮介くんは、長い間一人でした。一人でいることに、慣れていた。慣れていたから、孤独だと思っていなかった。でも体は覚えていた。誰かに気づいてもらえることの感触を。その感触が戻ってきたとき——彼はどこへでも行けた」


 「どこへでも、というのは」


 九条が真壁を見た。真壁も九条を見た。


 「見つけてくれた人が連れて行く場所なら、どこへでも」


 部屋が静かだった。拡散した白い光の中で、二人は向かい合って座っていた。


 真壁は何かを言おうとした。言葉が出なかった。九条の言葉が頭の中で反響していた。孤独な人間は、見つけてくれた方向へ動く。どこへでも。


 山田義雄が浮かんだ。六十一歳。橋の下で四年間、誰にも気づかれなかった男が。死ぬ前夜、うれしそうに誰かと話していた。


 壮介が浮かんだ。孤立した中学生が。失踪する三日前、「見つけてもらえた気がする」と笑っていた。


 「ありがとうございました」


 真壁は立ち上がった。手帳を閉じた。九条も立ち上がった。


 「お役に立てれば」と九条は言った。


 部屋を出た。廊下に出た。白い廊下だった。センターの廊下には子供の絵が貼ってあった。色とりどりの絵。家族の絵。動物の絵。笑っている絵。


 その中に一枚、人の形だけが描かれた絵があった。色がなかった。輪郭だけだった。顔がなかった。ただ立っていた。


 真壁は少し立ち止まった。それを見た。


 「真壁さん」


 九条の声だった。振り返った。九条が廊下の入口に立っていた。


 「眠れていますか」


 真壁は少し驚いた。「……なぜですか」


 「目の下に隈があります。三日以上、十分に眠れていない顔です」


 「仕事柄、眠れない夜もある」


 「そうですね」九条が微笑んだ。「でも、眠れない理由が『後ろが気になるから』だとしたら——それは仕事のせいではないかもしれない」


 真壁は動けなかった。


 後ろが気になる、と言ったか。誰かに言ったか。相馬には言った。でも九条には言っていない。言っていないはずだった。


 「……どういう意味ですか」


 「目でわかります」九条は穏やかに言った。「後ろを気にする人間は、目の動き方が変わる。会話中に、一瞬、視線が横に逃げる。ほんの少しだけ。でも確かにある。そういう目をしていました」


 真壁は九条を見た。九条は真壁を見ていた。


 「プロの観察ですね」と真壁は言った。


 「お互い様です」と九条は言った。「刑事さんも、ずっと私を観察していた」


 「それが仕事ですから」


 「私もそうです」


 九条が微笑んだ。その微笑みが——真壁には読めなかった。笑顔の意味が、分からなかった。



 センターを出た。


 駐車場で、真壁は少し立ち止まった。空が曇っていた。風がなかった。湿っていた。


 九条玲司。


 おかしい、という感覚があった。でもおかしい理由を言葉にできなかった。言葉にできないから、証拠にならない。証拠にならないから、何もできない。


 ただ——何かが引っかかっていた。


 「見つけてくれた方向へ、どこへでも行ける」という言葉が、頭から消えなかった。


 その言葉の意味を、九条はよく知っているように見えた。説明として語っているのではなく——経験として語っているように見えた。


 気のせいかもしれなかった。


 でも気のせいとも言い切れなかった。


 車に乗った。エンジンをかけた。バックミラーを見た。後部座席が見えた。誰もいなかった。


 当然だ。


 でも——確認した。確認しなければ、気になってしまうから。


 確認した後も、少しだけ気になった。


 真壁はアクセルを踏んだ。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


FILE 07 捜査メモ②


事件番号:██-████

記録日時:██月██日 18:20

担当:真壁恒一


九条玲司について。


経歴:

 大学で臨床心理を専攻。大学院修了後、児童支援センター入職。勤続四年。上司の評価:非常に優秀。子供からの信頼が厚い。クレームゼロ。


問題点:

 三島壮介との最後の面談から失踪まで三日。最後の言葉が「見つけてもらえた気がする」。九条がその言葉の意味を、詳しく知っているように見えた。


 会話中、目を一度も逸らさなかった。こちらの観察を、逆に観察していた。


 「後ろが気になる」ことを、言っていないのに言い当てた。


違和感:

 ズレがない。感情と表現が一致しすぎている。それが——不自然だった。


 人間的すぎるのか、人間ではないのか。その判断が、つかなかった。


追記:

 帰宅後、バックミラーを四回確認した。いずれも誰もいなかった。

 それでも気になった。


 九条と話した後から、後ろの気になり方が変わった気がする。変わったのか、気のせいなのか、分からない。


異常は認められない。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


 夜、結菜が珍しく早く帰ってきた。


 「今日、早いな」


 「うん」結菜がコートを脱いだ。「お父さんこそ、なんか顔色悪くない?」


 「眠れていない」


 「また?」結菜が冷蔵庫を開けた。「最近ずっとそうじゃん」


 「仕事だ」


 「嘘ついてる顔してる」


 真壁は黙った。結菜が振り返った。十六歳。母親に似た目をしていた。鋭い目だった。


 「なんか変なことあった?」


 「ない」


 「本当に?」


 「本当だ」


 結菜が少し考えた。「……ねえ、お父さん」


 「何だ」


 「最近、夜中に廊下歩いてる?」


 真壁は手が止まった。「お前が歩いているんじゃないのか」


 結菜が首を振った。「私、ここ最近ずっとよく眠れてる。夜中に起きた記憶がない」


 「そうか」


 「お父さんじゃないの?」


 「私じゃない。お前だと思っていた」


 二人が黙った。夜の台所は静かだった。冷蔵庫のモーター音がした。


 「じゃあ誰が歩いてたの」結菜が少し笑った。「幽霊?」


 真壁は笑わなかった。「気のせいだろう」


 「そっか。うん、そうだよね」結菜がコップに水を注いだ。「あ、でも昨日の夜、なんか変な夢見たよ」


 「どんな夢だ」


 「誰かにずっと見られてる夢。姿は見えないんだけど、見られてる感じがずっとして。怖くなかったんだけど——なんか、落ち着いた気持ちになってた。変な夢だよね」


 真壁は結菜を見た。


 落ち着いた、と言った。見られていて、落ち着いた。


 「怖くなかったのか」


 「うん。むしろ、安心したっていうか。見ててくれてる人がいる、みたいな感じで。目が覚めたとき、少し寂しかった」


 少し寂しかった。


 「結菜」


 「なに?」


 「最近、学校で誰かに——妙に親切にされたとか、気にかけてもらったとか、そういうことはないか」


 結菜が少し考えた。「んー、特には。なんで?」


 「何でもない」


 「なんか刑事みたいな聞き方だね」結菜が笑った。「お父さんいつもそうだけど」


 真壁は笑えなかった。


 見られていて、落ち着いた。見ててくれてる人がいる、みたいな感じ。


 その言葉が、山田義雄と重なった。壮介と重なった。


 三島壮介が言ったのだ。見つけてもらえた気がする、と。うれしそうに。


 そして三日後にいなくなった。


 真壁はコーヒーを飲んだ。苦かった。



 夜中、眠れなかった。


 布団の中で天井を見ていた。電気は消していた。暗かった。


 廊下で音がした。


 真壁は起き上がった。廊下に出た。暗かった。結菜の部屋のドアが閉まっていた。向こうから寝息が聞こえた。眠っていた。


 廊下には誰もいなかった。


 いつものことだった。でも今夜は違うことをした。


 廊下の端に立った。暗闇の中に立った。目を閉じた。耳を澄ました。


 何も聞こえなかった。風もなかった。音もなかった。


 ただ——いる気がした。


 いる気がした。そのいる気がする方向に、意識を向けた。何もなかった。見えなかった。聞こえなかった。


 でも「いる」という確信は、消えなかった。


 目を開けた。暗い廊下があった。誰もいなかった。


 九条玲司の声が浮かんだ。「後ろが気になるから眠れない——それは仕事のせいではないかもしれない」


 どういう意味だったのか。


 言い当てた。言っていないのに言い当てた。なぜ分かったのか。目の動きから、と言った。でもそれだけで分かるのか。


 真壁は廊下の壁に手をついた。


 九条と話してから、何かが変わった気がした。変わったのか、気のせいなのか。でも確かに——九条と会う前より、後ろの気になり方が強くなった。廊下への意識が強くなった。


 引っ張られている、と思った。


 何かに。誰かに。


 「まだなかにいる」


 その言葉がまた来た。どこから来るのかも分からない言葉が。頭の中で勝手に鳴る言葉が。


 なかに、何が。


 自分の中に。この廊下に。この暗闇に。


 「まだ」というのは——まだいる、ということか。最初からいる、ということか。


 真壁は自分の部屋に戻った。布団に入った。電気はつけなかった。


 暗い天井を見た。目を閉じた。


 また音がした。


 廊下で。


 今度は——止まらなかった。確認しに行かなかった。


 音を聞きながら、目を閉じたまま、動かなかった。


 音がした。また音がした。


 止まった。


 静かになった。


 真壁は目を閉じたまま、長い時間をかけてゆっくりと眠った。


 眠りながら思った。確認しなかったのは、怖かったからではない。


 確認すると、いなくなる気がした。


 いなければ、また探し始めなければならない。それが——怖かったのかもしれない。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


九条玲司 業務日誌(センター保管)


██月██日


 本日、警察の方が来訪。三島壮介の件で。


 真壁恒一警部補。五十代。眠れていない。後ろを気にしている。観察力は高い。気づくが、確信を持てない。それがちょうどよい。


 目の動き:左後方への逸れが四回。話している最中に、廊下が気になった回数:推定二回。帰り際にバックミラーを確認する可能性:ほぼ確実。


 反応は予想通り。


 「見つけてもらえた気がする」という言葉を、壮介の言葉として伝えた。効いた。目が止まった。手が止まった。その後、回復した。でも、頭の中には残った。残るように渡した言葉だから。


 追記:結菜(真壁の娘・16歳)の動向も確認済み。学校での孤立傾向はまだない。時間がある。


 次の接触は自然に訪れる。真壁の方から来る。そういう構造になった。


 あとは、待つだけでよい。


異常は認められない。



 翌朝、署に着くと相馬が待っていた。


 「昨夜、眠れましたか」


 「少し」と真壁は言った。「お前は」


 「眠れました」相馬が珍しく、すっきりした顔をしていた。「四時間だけど、ちゃんと眠れた。何も気にならなかった」


 「後ろも」


 「昨夜は——気にならなかったです」相馬が少し考えた。「でも今朝、署に来る途中で、また少し気になって。気にならない時間が続いたら、なんか——物足りないというか」


 真壁は相馬を見た。「物足りない」


 「変なこと言ってますよね。でも、そう感じたんです。気になって振り返ってる方が、なんか——いる気がして。気にならないと、ただ一人な感じがして」


 一人な感じ。


 真壁は昨夜の廊下を思い出した。音がして、確認しに行かなかった。確認すると、いなくなる気がした。いなければ、また一人になる気がした。


 「相馬」


 「はい」


 「それは、おかしい」


 「……分かってます」


 「後ろに何かがいる気がすることに、慣れてはいけない。それは正常ではない」


 「分かってます」相馬が繰り返した。「でも、正常に戻ろうとすると——そっちの方が怖い気がして」


 真壁は何も言えなかった。


 分かった、と思った。相馬の言っていることが、分かった。分かってしまった。


 正常に戻ることへの怖さ。後ろに何もいない状態への怖さ。


 それが、おかしかった。おかしいと分かっていた。でも分かっていても、その感覚は消えなかった。


 「九条玲司という人物を、もう少し調べる」真壁は立ち上がった。「経歴の裏を取れ。関わった子供の追跡調査。センターの他の職員から話を聞く。表からではなく、横から」


 「横から、というのは」


 「九条本人に分からないように。知られたら——まずい気がする」


 知られたら何がまずいのか、真壁には言葉にできなかった。でも確かにそう思った。


 「分かりました」相馬がノートを取り出した。「ただ——課長」


 「何だ」


 「昨夜、結菜さんは何かおかしいことを言いませんでしたか」


 真壁は手が止まった。「なぜ結菜の名前が出る」


 「すみません。なんとなく、聞きたかっただけです」相馬が少し視線を落とした。「センターで、九条さんが——ちらっと、家族のことを聞いてきませんでしたか」


 真壁は九条との会話を頭の中で反芻した。家族については——聞かれたか。聞かれなかったか。


 聞かれなかった。


 でも。


 業務日誌の最後の行が、頭に浮かんだ。


 ——いや、業務日誌など見ていない。


 真壁はその考えを振り払った。


 「何も聞かれていない」


 「そうですか」相馬が頷いた。「……気のせいですね」


 「そうだ」


 二人が黙った。


 真壁は窓の外を見た。今日も曇っていた。


 「まだなかにいる」がまた鳴った。消えなかった。今日も消えなかった。


 いる、と思った。


 どこかに。廊下の暗さの向こうに。バックミラーの後部座席に。防犯カメラの映像の〇・三秒に。


 まだ、いる。


 真壁はコーヒーを一口飲んだ。苦かった。鉄の味はしなかった。今日は普通の苦さだった。


 普通に戻った、と思うよりも先に——少しだけ、物足りないと感じた。


 その感覚に気づいた瞬間、真壁は自分が正常ではなくなり始めていることを、初めて確かに思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ