第一話 「どうでもいい死体」
通報が入ったのは、午前二時五十八分だった。
真壁恒一は缶コーヒーを置いて立ち上がった。眠っていなかった。眠れない夜が続いていた。理由は分かっていた。結菜が最近、夜中に廊下を歩く。泣いていない。物音を立てていない。ただ、歩いている気配がある。確認しに行くと、何もない。戻ってくる気配がする。また静かになる。それだけのことだった。
それだけのことなのに、真壁はその気配があるあいだ、眠れなかった。なぜ眠れないのかも、分からなかった。
だから電話が鳴ったとき、真壁はすでに起きていた。リビングで缶コーヒーを飲みながら、天井を見ていた。
第四橋の下。ブルーシートの陰。男性。推定六十代。
真壁はコートを手に取った。
*
橋の下は静かだった。
川の音がした。遠く、国道を車が通る音がした。それだけだった。虫の声がなかった。風もなかった。橋の下のあの場所だけ、音が死んでいるようだった。草が濡れていた。昨夜の雨が地面に残っている。足元がぬかるんで、靴底に土が張りついた。
鑑識がライトを当てていた。白い光が広がるたびに、草の影が伸びた。真壁は規制線をくぐった。
相馬涼介が横に来た。二十八歳。五年目。今夜の相馬は、顔色が悪かった。目の下に隈があった。昨夜も眠れていないのかもしれなかった。
「外傷はほぼないそうです」
「死因は」
「不明です。窒息の可能性があるって。でも索条痕がない」
「絞められた跡もないのに窒息」
「はい」
真壁は遺体に近づいた。
*
ホームレスの変死体は、たいてい乱れている。
着衣が崩れている。体勢が歪んでいる。最後まで生きようとした跡が、死んだあとも残っている。
この男には、それがなかった。
仰向け。両手は腹の上。指先まで、揃っていた。
真壁はしゃがんだ。顔が近くなった。空気が、ぬるかった。夜の河川敷は冷えるはずだった。川から風が吹くはずだった。でも遺体の周りだけ、温度が違う気がした。密閉された部屋の空気のような、ぬるくて少し重い感触。
穏やかだった。苦しんだ跡がなかった。目は閉じていた。口角が、わずかに上がっていた。笑顔ではなかった。でも笑顔に見えた。何かに、応えたような顔だった。何かに会えたような、そういう顔だった。長年路上で暮らした男の、風雨に晒されて深く刻まれた皺が、ただ穏やかに収まっていた。
真壁はその表情を、どこかで見た気がした。すぐには思い出せなかった。
「相馬」
「はい」
「この手を見ろ」
相馬がしゃがんでライトを当てた。黙った。
路上生活者の手ではなかった。爪の中が白かった。土がなかった。長年外で暮らした人間の手に刻まれるはずの汚れが、なかった。手だけではなかった。首筋も。耳の後ろも。清潔だった。
「誰かに洗われてる」
「本人が?」
「路上で暮らした人間が自分で手を洗う理由があるか」
「……ないですね」
「他に触れた人間がいる」
誰かがここに来た。この男が死んだあとで——あるいは死ぬ直前に。隣に座って、丁寧に体を拭いた。手を洗った。体勢を整えた。指先まで、揃えた。なぜ。
「相馬、遺体の顔を見るな」
「え?」
「じっと見るな。引っ張られる」
「引っ張られるって」
「見ていると、そこに何かを感じたくなる。そういう顔だ。見るな」
相馬が視線を外した。少し、息を吐いた。「……なんか、目が離せなくて」
「分かっている。だから言っている」
真壁は立ち上がった。周囲を見渡した。橋桁。川。コンビニの灯り。誰もいなかった。
「目的は何だ」独り言だった。相馬は答えなかった。
もう一度、遺体の顔を見た。この表情を、どこかで見た気がした。しばらくして、気づいた。
結菜だった。
夜中に廊下を歩いて、部屋に戻って、ベッドで眠る結菜の寝顔。あれと同じだった。何かに、見つけてもらえたような顔。
真壁は立ち上がった。考えを振り払った。関係ない。
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FILE 01 初動報告書
事件番号:██-████
記録日時:██月██日 03:21
担当:相馬涼介
発見場所:第四橋下(橋桁より北へ約60m)
対象:男性 推定60代 身元照会中 住所不定
状況:ブルーシートの下に仰向けで倒れていた。外傷なし。死因不明。
特記事項:
遺体の体勢が整えられていた。両手が腹の上で揃えられ、衣服の乱れなし。
路上生活者にしては異常に清潔な状態。手および首筋に清拭の痕跡。
口角がわずかに上がった状態で固定。眼球点状出血確認。索条痕なし。
遺体より約4m北に円形の踏み跡。一名が長時間立っていたと推定。遺体を見下ろせる位置。
異常は認められない。
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署に戻ったのは夜明け前だった。松田が真壁を呼んだ。五十代。定年まで三年。
「第四橋の件、自然死で処理していいか」
「死因がまだ出ていません」
「出ても、ホームレスだろ」
「手が綺麗でした。誰かが洗っています。体も整えられていた」
「だから何だ」
「自然死ではない可能性があります」
「可能性ね」松田が煙草に火をつけた。窓を開けながら言った。「真壁、お前はいつもそうだな。どうでもいい死体に、意味を見つけようとする」
「どうでもいい死体はない」
「建前はいい。こっちにはリソースが」
「一日だけください」
松田が煙を吐いた。「……一日だ」
*
身元が割れた。山田義雄。六十一歳。元会社員。四年前から住所不定。前歴なし。
「普通の人です」と相馬が言った。
普通の人。真壁はその言葉を心の中で繰り返した。どこにでもいる、誰にも気づかれない人間。誰かと繋がっていたはずなのに、一人で橋の下に流れ着いた人間。その人間が、丁寧に整えられて死んでいた。
*
橋の下の住人から話を聞いた。数年前から同じ場所に定住していた女性だった。
「昨日の夕方ごろ、誰かと話してるのを見た。山田さんが。うれしそうだったよ。久しぶりに誰かに話しかけてもらったみたいな顔で」
「相手の特徴は」
「遠くてよく見えなかった。でもちゃんとした人みたいだった。路上の人じゃなくて」
「顔は」
女性が少し考えた。「顔の方向が——こっちじゃなかった気がして」
「こっちじゃない、というのは」
「山田さんと話してたのに、どこか別のところを見てるような。でも山田さんはすごくうれしそうで。だから変だなとは思ったけど、声はかけなかった」
どこかを、見ていた。山田と話しながら、別の方向を。何を見ていたのか。
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FILE 02 現場写真ログ
写真003 顔(正面)
眼球閉じた状態。点状出血確認。口角わずかに上がった状態。
備考:この表情について、鑑識員A「見ていると目が離せなくなる」と発言。翌日、鑑識員Aが体調不良で欠勤。
写真005 防犯カメラ映像(静止画)
山田義雄が入場する映像より抽出。背後約6mに人影と思われる像。次フレーム(0.3秒後)で消失。
【別添:拡大画像】
ノイズ多。判別困難。顔に相当する位置にこちらを向いた像が確認される。
こちらを向いている。
異常は認められない。
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映像を見た。真壁と相馬は並んでモニターを見た。
山田義雄が歩いてくる。午後八時十四分。その後ろ。
「止めろ」
映像が止まった。拡大した。ノイズの向こうに。輪郭。顔。
相馬が黙った。真壁も黙った。
顔があった。こちらを向いていた。カメラを見ていた。笑っていなかった。怒ってもいなかった。ただ、見ていた。カメラを見ていた。映像を見ている自分たちを、見ていた。
「誰だ、これ」
次のフレームで——消えていた。
「切り替わりは」
「〇・三秒です」
「どこへ消えた」
「分かりません」
*
翌朝、相馬の目が真っ赤だった。
「昨夜、映像を持ち帰って見直したんです」
「勝手に持ち出すな」
「三回見直したんですけど——顔、なかったんです。署で見たときは確かにあった。でも家で見たら、ただのノイズで」
「見間違いだ」
「そうだと思うんですけど。どっちが本当なのか、分からなくなって。家に帰ってから、後ろが気になって。何回も振り返って。眠れなくて、朝まで電気つけたままで」
「何回振り返った」
「……数えなかったけど、たぶん二十回は」
真壁は何も言わなかった。見間違いだ、と思った。でも——真壁にも、その顔が残っていた。顔の向き。こちらを見ていた角度。
「見間違いだ」
もう一度、言った。相馬が「そうですね」と言った。二人とも、それ以上話さなかった。
*
昼過ぎ、解剖結果が出た。心停止。原因不明。松田が処理を決めた。
「自然死で行く」
「清拭の件は」
「誰かが体を整えた。怖くて通報できなかった。十分ありうる話だ」
反論できなかった。ありうる話だった。
「……分かりました」
廊下を歩いた。足が重かった。山田の顔が頭から消えなかった。穏やかすぎた。まるで最後に何かに「見つけてもらえた」ような顔だった。
*
帰宅した。結菜は眠っていた。冷めた夕食を一人で食べた。味はしなかった。
行方不明の女子高校生のことを、なぜか思った。担当は別の係だ。関係はない。なぜ浮かんだのか、分からなかった。
缶コーヒーを飲みながら、今日の出来事を頭の中で整理した。整えられた遺体。綺麗な手。「別のところを見ていた」相手。防犯カメラに映った顔。〇・三秒で消えた顔。
それだけだった。証拠とも呼べない断片の羅列だ。
コーヒーが苦かった。コーヒーはいつも苦かった。でも今日は、苦さに混じって、何か別の味がした。
鉄の味。
血の味、に似ていた。
真壁は缶を見た。普通の缶コーヒーだった。何も変わっていなかった。でも、舌の上に、その味が残った。
気のせいだ、と思った。眠れていないせいだ、と思った。
缶を置いた。
廊下で音がした。
立ち上がった。廊下に出た。暗かった。結菜の部屋のドアが閉まっていた。向こうから寝息が聞こえた。眠っていた。
廊下には誰もいなかった。
真壁は廊下に立ったまま、動けなかった。気配があった。確かにあった。廊下を歩く、軽い気配が。でも結菜は眠っていた。では——今の気配は、何だったのか。
結菜ではなかった。では、何が。
玄関のチェーンを確認した。かかっていた。窓を確認した。全部閉まっていた。
それでも、廊下のどこかに、まだ何かがいる気がした。
電気をつけた。明るくなった。誰もいなかった。電気を消した。暗くなった。また、いる気がした。
真壁は電気をつけたまま、自分の部屋に戻った。布団に入った。電気を消せなかった。
明け方まで、電気がついたままだった。
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FILE 04 捜査メモ①
事件番号:██-████
記録日時:██月██日 22:40
担当:真壁恒一
整えられた遺体。綺麗な手。「別のところを見ていた」相手。死因不明。証拠なし。
山田の顔が頭から離れない。穏やかすぎた。「見つけてもらえた」ような顔だった。そしてその表情を、どこかで見た気がした。結菜の寝顔だった。
女子高生の件との関連:同じカメラの消え方。同じ人影。同じ顔の向き。こちらを向いている。
踏み跡の場所に立った。整えることではなく、見ることが目的だった可能性。見ることに、意味があった。
帰り道、足音が一つ多い気がした。確かめられなかった。確かめたら何かが変わる気がして。
眠れない。結菜の気配がする。廊下。確認に行けない。
鑑識員Aが翌日欠勤した。遺体の顔を「見ていると目が離せなくなる」と言っていた鑑識員が。
異常は認められない。
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翌日の午後、真壁は一人で第四橋に寄った。
昼間の橋は、昨夜と別の場所のようだった。光が入っていた。子供たちが自転車で渡っていた。老人が欄干に寄りかかって川を見ていた。山田義雄の痕跡は片付けられていた。橋桁だけが残っていた。
踏み跡の場所に立ってみた。山田が倒れていた場所が、正面に見えた。ちょうど見下ろせる位置だった。
この場所から、誰かが長時間見ていた。体が整えられていく様子を。手が洗われていく様子を。指先が揃えられていく様子を。ただ、見ていた。
整えることではなく——見ることが、目的だったのかもしれなかった。
その「見ること」に、どんな意味があるのか。
背後で何かが動いた気がした。振り返った。誰もいなかった。もう一度だけ、後ろを見た。やはり、誰もいなかった。
歩き始めた。足音を聞いた。自分の足音だけがするはずだった。
でも——一つ多い気がした。
確かめようとして、止まった。止まったら確かめてしまうような気がして、止まれなかった。そのまま橋を渡り切った。振り返らなかった。
自分のものだと、思いたかった。
でも確かめられなかった。
*
夜、署に戻ってから、相馬が待っていた。
「行方不明の女子高生の通学路の防犯カメラです」
映像を見た。制服の女子高校生が歩いている。その後ろ。
「止めろ」
「拡大できるか」
ノイズの向こうに——同じ顔があった。昨日の映像と、同じ顔が。同じ角度で、こちらを向いていた。
「管轄外ですけど」相馬が静かに言った。
「……行くだけだ」
真壁は映像から目を離せなかった。モニターの中の顔が、こちらを見ていた。映像の中にいるはずの顔が、映像の外にいる自分たちを、見ていた。
次のフレームで、消えた。
〇・三秒。
また、〇・三秒で消えた。
「同じだ」と真壁は言った。
「同じです」と相馬が言った。
二人が黙った。
モニターの電源を落とした。
暗くなったモニターの画面に、自分たちの顔が映った。真壁と相馬の、疲れた顔が。
その後ろに——
真壁は振り返った。
誰もいなかった。
蛍光灯の白い光。がらんとした部屋。椅子。机。それだけだった。
「何か」と相馬が言った。
「いない」と真壁は言った。
「見ましたか、後ろを」
「何も」
「そうですか」
相馬がモニターを見た。暗いモニターを。自分たちの顔が映っているモニターを。
「俺も、さっき後ろを見ました」と相馬が言った。「課長が振り返る前に」
「何があった」
「……何もなかったです。でも」
相馬が少し間を置いた。
「一瞬、映りましたよ。モニターに」
真壁はモニターを見た。暗い画面。自分の顔だけが映っていた。
「見間違いだ」と真壁は言った。
「そうです」と相馬は言った。
でも二人とも、その後しばらく、モニターから目を離せなかった。
*
夜、真壁は一人でリビングに座っていた。
電気をつけていた。結菜はもう眠っていた。缶コーヒーが三本、空になっていた。
山田義雄のことを考えた。六十一歳。元会社員。離婚。住所不定。四年間、橋の下に住んでいた。
「普通の人」だったはずだ。どこかに家族がいて、仕事があって、定食屋のカウンターに座って、ニュースを眺めていた。そういう人間だったはずだ。それがどこかで崩れて、四年間、橋の下にいた。
誰にも気づかれないまま。
誰にも見つけられないまま。
でも——死ぬ前夜、誰かと話していた。うれしそうだったと、橋の下の住人は言った。久しぶりに誰かに話しかけてもらったみたいな顔で、と。
見つけてもらえた、と思ったのかもしれない。
そしてその夜、死んだ。
真壁は缶コーヒーの空き缶を見た。三本。飲みすぎだ。
手帳を開いた。今日の記録を書こうとした。ペンが止まった。
何を書けばいいのか、分からなかった。証拠がない。事件かどうかも分からない。ただ——おかしい。何かがおかしい。でもその「おかしい」を、言葉にできなかった。
手帳を閉じた。
廊下の電気が、消えていた。
いつ消したのか、覚えていなかった。
リビングの電気だけがついていた。その光の境界線で、廊下が暗くなっていた。その暗さの中に、何かがいる気がした。いる、というより——見ている、という感じだった。廊下の暗さの向こうから、こちらを見ている何かが。
真壁は立ち上がった。廊下の電気をつけた。明るくなった。誰もいなかった。
当然だ。
電気を消した。また暗くなった。
また、いる気がした。
真壁はリビングに戻った。ソファに座った。電気をつけたまま、横になった。目を閉じた。
山田の顔が浮かんだ。穏やかな顔。口角が上がった顔。
結菜の寝顔に、似ていた。
眠れなかった。
時計を見た。午前一時過ぎだった。
廊下で、音がした。
少し間を置いて、また音がした。
足音だった。軽い足音。
真壁は起き上がった。廊下に出た。結菜の部屋のドアが、わずかに開いていた。
「結菜」
返事がなかった。
ドアを開けた。結菜はベッドで眠っていた。穏やかな寝息を立てていた。ドアが開いていたのは、たぶん最初からだった。真壁が気づかなかっただけだ。
廊下には誰もいなかった。
足音も、もう聞こえなかった。
真壁は自分の部屋に戻った。布団に入った。電気を消した。
暗くなった。
「まだなかにいる」
その言葉が、どこからか来た。
相馬が言ったのか。SNSで見たのか。それとも、自分の頭の中から来たのか。
分からなかった。でもその言葉は、確かにそこにあった。
「まだなかにいる」
何が。何がなかにいるのか。
答えが出ないまま、真壁はいつの間にか眠っていた。眠りの中で、防犯カメラの映像が繰り返された。〇・三秒で消える顔が。こちらを向いたまま消える顔が。
夢の中でも、その顔は真壁を見ていた。
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FILE 05 検視報告(補足)
事件番号:██-████
報告日時:██月██日 16:30
担当:法医学教室
山田義雄(61歳・男性)の検視補足報告。
死因:心停止(原因不明)
外傷:眼球点状出血のみ
推定死亡時刻:20:00〜23:00
追加所見:
胃内容物の分析を実施。死亡直前(推定3〜4時間以内)に飲食あり。内容:温かい飲み物(茶系)。路上生活者が入手できる品質ではない可能性。
体表の清拭については——使用された液体の痕跡を微量検出。アルコール系。市販の消毒液に近い成分。誰かが、意図的に体を清めた。動機:不明。
死亡時の体温を推定したところ、通常の死後体温低下よりも、やや遅いペースで冷えていた可能性。誰かが、長時間そばにいた可能性を示唆する。
所見:
第三者の関与は明らかだが、死因との直接的な関連は証明できない。本件を事件として立件するには証拠が不十分。
異常は認められない。
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翌朝、真壁は署に来た。
相馬が待っていた。目の下の隈が昨日より濃くなっていた。
「昨夜、眠れましたか」
「少し」と真壁は言った。「お前は」
「眠れなかったです」相馬がコーヒーを飲んだ。「映像のことが、ずっと頭から離れなくて」
「見間違いだ」
「分かってます。でも——」相馬が少し考えた。「家に帰ってから、後ろが気になって。何回も振り返って。でも誰もいなくて。それでも気になって。また振り返って。その繰り返しで、朝になってました」
「何回振り返った」
「……覚えてないです。でも多分、三十回くらいは」
真壁は相馬を見た。三十回。
「俺も、似たようなものだった」
相馬が少し驚いた顔をした。「課長も」
「振り返るたびに、誰もいなかった。でもまた気になった」
「それって——」相馬が言いかけた。止まった。
「何だ」
「映像を見てから、そうなってませんか。あの顔を見てから」
真壁は黙っていた。
そうだ、と思った。映像を見た夜から、後ろが気になるようになった。足音が一つ多い気がするようになった。廊下の暗さが、気になるようになった。
でも。
「映像は見間違いだ」
「はい」
「眠れていないから、認識がおかしくなっている」
「……そうですね」
二人が黙った。コーヒーの蒸気が、上に向かって消えていった。
「ただ」と真壁は言った。「山田義雄の件は、続ける」
「証拠がなくても」
「証拠がないから、続ける」
相馬が頷いた。目の下の隈を、指で押さえた。「分かりました。何から始めますか」
「山田が死ぬ前夜、誰と話していたか。それだけを、まず調べる」
真壁は窓の外を見た。曇っていた。今日は雨になるかもしれなかった。
防犯カメラの映像の顔が、また頭に浮かんだ。こちらを向いた顔が。〇・三秒で消えた顔が。
消えた後も、真壁の頭の中に残っていた。
消えないまま、今朝もそこにいた。




