プロローグ「最初の記憶」
音を数えることにしていた。
ガラスが割れる音。一。
何かが壁に当たる音。二。
母の声が途切れる音。三。
三つ数えたら、押し入れに入る。
それだけでよかった。誰かに教わったわけではない。気づいたときにはもう、体が知っていた。数え終わる前に、足が動いていた。
*
布団を引き寄せて、膝を胸に当てた。
暗かった。狭かった。古い木のにおいがした。湿った綿のにおいがした。埃のにおいがした。最初のころは気になった。今は気にならない。このにおいを嗅ぐと、少しだけ落ち着く。体の力が、わずかに抜ける。
ここにいる、という合図だった。
外では父が怒鳴っていた。
何かが壊れる音がした。陶器だろうか、と少年は思った。昨日は椅子だった。一昨日は窓ガラスだった。日によって違う。でも必ず何かが壊れた。壊れた音のあとに、しばらく静かになって、また声が始まる。その繰り返しだった。少年はその繰り返しを、ほとんど正確に予測できるようになっていた。次は何が壊れるか。静寂が何秒続くか。父の声が低くなるのはどのタイミングか。
母の声がした。
途切れた。
その瞬間が、一番怖かった。声が聞こえているうちは、母がまだそこにいると分かる。でも途切れると、何も分からなくなる。想像だけが残る。想像の中の母は、いつも動かなかった。床に倒れていた。起き上がらなかった。目を開けていた。でも何も見ていなかった。
少年は耳を塞いだ。
効果はなかった。音は手のひらを通り抜けた。骨を伝って、頭の内側で反響した。父の声の低い振動が、胸の奥の肋骨のあたりまで届いた。骨が共鳴した。体の中で父の声が鳴っているみたいだった。
だから少年は、別のことを始めた。
暗闇を、見ること。
暗闇には何もない。何もないものを見ていれば、音は少しだけ薄くなる。そう思うことにした。思うことにする、というのが重要だった。実際に薄くなるかどうかは関係ない。そう思えれば、体が少しだけ緩む。体が緩めば、音が少しだけ遠くなる。遠くなれば、また少しだけ思える。その繰り返しで、夜をやり過ごした。
六歳の少年が編み出した、唯一の方法だった。
*
押し入れの戸には隙間があった。
板と板の合わさる場所に、細い隙間。昼間はそこから光が差し込んだ。廊下の電球の光が、細い線になって入ってきた。少年はその光を指でなぞることがあった。触れても何もないのに、温かい気がした。
夜は廊下の暗闇が見えた。
その夜、少年はその隙間から目を離せなくなった。
気配がした。
気配、という言葉を少年はまだ知らなかった。でもその概念は知っていた。父がドアの前に立っているとき、足音がする前から体が知る。空気が変わる、としか言いようのない何か。温度でも湿度でもない。音でも光でもない。もっと説明のつかない何かが、変わる。
少年の体は、その変化を感じ取ることに長けていた。生き延びるために、覚えた能力だった。
今もそれを感じた。
押し入れの外に、何かがいた。
少年は布団を顎まで引き上げた。暗闇の中で目を見開いた。隙間を見た。細い隙間の向こうに、廊下の暗闇があった。
その暗闇の中に、何かが立っていた。
白かった。
人の形をしていた。でも顔がなかった。目も鼻も口も、なかった。滑らかで、何もない白い面。輪郭だけがそこにあって、隙間からこちらを——
見ていた。
目がないのに、見られていると分かった。どこを見ているのかも分からないのに、自分を見ていると確信した。その確信には根拠がなかった。でも確かにそこにあった。体の奥の方に直接届くような、確信だった。
少年は動けなかった。
叫ぼうとした。声が出なかった。声が出ないのではなく、体が声を止めた。声を出すとルールに違反する。父が来る。父が来るより、これがいる方がまだましだという判断が、六歳の頭の中で瞬時に完了した。
喉の奥で何かが固まっていた。唾を飲もうとしたが、飲めなかった。口の中が乾いていた。奥歯が、わずかに震えていた。
そして気づいた。
怖くない。
怖いはずだった。得体の知れないものが隙間からこちらを見ている。それは恐怖の定義そのものだった。でも体は震えていなかった。心臓は速く打っていたが、それは怖いときの打ち方ではなかった。もっと別の何か。胸のあたりが、じわりと熱かった。
見つけてもらえた、と思った。
押し入れの中にいる自分を、何かが見つけた。父でも母でも先生でも隣の人でもない何かが、ここにいる少年を見つけて、見ていた。ここにいると知っていた。ここにいることを、知ってくれていた。
それだけで、胸の中の何かがゆるんだ。
いつからそこにあったのか分からないほど長い間、ずっと張り続けていた何かが、少しだけゆるんだ。奥歯の力が抜けた。肩が落ちた。膝を抱えていた指の力が、少しだけ緩んだ。息ができた。
外では父がまだ怒鳴っていた。
母の声は相変わらず聞こえなかった。
それでも少年は、少しだけ息ができた。
深く息を吸った。布団の古いにおいが入ってきた。それが今夜は悪くなかった。
そのとき、声がした。
声というより——頭の内側に直接生まれた言葉、のようなものだった。外から聞こえたのか、内側から湧いたのか、その区別がつかなかった。耳で聞いたのか、別の何かで受け取ったのか、分からなかった。ただ音の質感があった。温度があった。重さがあった。それだけは確かだった。
ただ確かに、言葉があった。
まだなかにいる
それだけだった。
少年は泣かなかった。泣き方を、もう忘れていた。
ただ、その言葉を——覚えた。声の質感ごと、温度ごと、覚えた。忘れないように、心のどこかにしまった。引き出しの奥の、一番深いところに。
*
どのくらい経ったのか分からない。
気づいたとき、隙間の向こうに白いものはなかった。廊下はただ暗く、静かだった。外の物音も止んでいた。父の声も、何かが壊れる音も、もう聞こえなかった。母の声も、聞こえなかった。
少年はゆっくりと引き戸を開けた。
廊下に出た。暗かった。誰もいなかった。
床を踏んだ。冷たかった。素足の裏に、夜の床の冷たさが伝わった。
そのとき、足が止まった。
押し入れの前の床板。
傷があった。
細い、浅い傷。爪で引っ掻いたような傷が三本、平行に並んでいた。昨日はなかった。少年はその床を毎日踏んでいたから、確かだった。新しい傷だった。
少年はしゃがんで、指でなぞった。
冷たかった。床はいつも冷たい。でもその傷の部分だけ、もう少しだけ冷たかった。もっと深いところから冷えているみたいだった。
傷の縁に、白い粉のようなものが残っていた。指で触れた。なんだろう、と思った。でも考えるのをやめた。考えてはいけない気がした。
少年は立ち上がった。リビングに行くと、母がソファに座っていた。うつむいて、膝の上で手を組んでいた。父の姿はなかった。
「お母さん」
母は顔を上げなかった。
少年は母の隣に座った。母の手に自分の手を重ねた。母の手は冷たかった。少年の手も冷たかった。二つの冷たいものが重なっても、温かくはならなかった。
でも少年は、その冷たさの中で、さっきの声を思い出した。
まだなかにいる。
誰かが見ていてくれた。
その事実は、夢であっても変わらない、と思った。
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近隣住民 通報記録
受付番号:██-████
受付日時:██年██月██日 21:44
受付機関:○○警察署 生活安全課
通報者:匿名(女性・推定50代)
内容:
隣の家から怒鳴り声と物が壊れる音が聞こえる。頻繁にある。今夜も続いている。子供がいるはずだが、子供の声が聞こえない。それが気になる。
対応:
パトカーを派遣。現場確認。夫婦間のトラブルと判断。当事者に口頭注意。
備考:
子供(男児・6歳)の姿は確認された。外傷なし。本人は「大丈夫」と答えた。笑顔だった。
対応した巡査の備考(非公式):
「子供の目が笑っていなかった。でも何も言えなかった」
異常は認められない。
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翌朝、少年は学校に行った。
先生が笑顔で言った。「おはよう」
少年も笑顔で言った。「おはようございます」
作り方は知っていた。口角を少し上げる。目を少し細める。それだけで、人は笑顔だと判断する。発見したのは四歳のころだった。鏡の前で、意図的に試した。口を動かすと、鏡の中の自分が笑っているように見えた。笑っているように見える顔をすれば、周りの人間は「この子は笑っている」と判断する。今では意識しなくても作れる。
クラスメートが走り回っていた。笑い声がした。少年には笑う理由が分からなかった。でもクラスメートは笑っていた。だから少年も笑った。
人は見たいものを見る。
笑っていれば楽しいと思われる。普通にしていれば何もないと思われる。大丈夫と言えば大丈夫だと思われる。それだけで、人は安心する。安心した人間は、踏み込んでこない。
「大丈夫」という言葉一つで、玄関に来た警官は帰っていった。先生も、隣の人も、みんな安心して帰っていった。
それでいい、と少年は思った。
*
昼休み、少年は校庭の隅に一人で座っていた。芝生の上に座って、クラスメートが走り回っているのを見ていた。陽の光が眩しかった。風がなかった。
クラスメートが近づいてきた。「一緒に遊ぼうよ」
少年は立ち上がった。言われた通りに走った。言われた通りに笑った。転んだふりをして、起き上がるときに笑った。クラスメートは喜んだ。少年には何も感じなかった。
走りながら、頭の別の部分で考えていた。
言葉は人を助けない。言葉は人の気分を変えるだけだ。気分が変わっても現実は変わらない。だから言葉は飾りだ。相手の気分をどう変えるか、それを計算するときだけ、言葉に意味がある。
六歳の少年が、押し入れの中で一人で辿り着いた答えだった。
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○○市立△△小学校
生活指導ファイル
対象児童:九条玲司(1年2組)
記録者:担任 佐藤恵子
記録日:██年██月
【所見】
授業態度:良好。提出物:遅れなし。友人関係:問題なし。休み時間は他の児童と遊んでいる。
【気になる点】
笑顔が多いが、目が笑っていないように感じることがある。感情の起伏が非常に少ない。怒らない。泣かない。転んでも泣かない。叱られても表情が変わらない。ただ、静かに頷く。良い子すぎる、という印象。
【家庭環境】
家庭訪問の際、母親は疲弊した様子だった。父親は不在。玄関に割れたものを直した跡があった。本人に聞いたが「普通です」と答えた。笑顔だった。
【対応】
現時点で介入の必要性は確認されず。引き続き様子を見る。
(追記)
帰り道、この子の笑顔がずっと頭から離れなかった。何かが違う、と思った。でも何が違うのか言えなかった。それが気持ち悪かった。
異常は認められない。
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夜、また父が帰ってきた。
玄関のドアが開く音がした。少年はリビングでテレビを見ていた。テレビの音が急に遠くなった。音量は変わっていない。自分の中で何かが切り替わったのだ。
父の靴音を聞いた。重さがあった。床が鳴った。今夜の靴音の間隔は、少しだけ短かった。それだけで分かった。今夜は、だめだ。
父がリビングに入ってきた。少年は夕食の間、父の顔を観察した。目の焦点は合っているか。声のトーンは高いか低いか。手の動きは速いか遅いか。首の筋肉が張っているか、緩んでいるか。眉の角度。目の動き。箸の持ち方。
夕食の途中で、父が箸を置いた。音が少し大きかった。
少年は数えた。
一。二。三。
席を立った。廊下に出た。自分の部屋に入った。押し入れを開けた。布団の隙間に潜り込んだ。
暗闇を見た。隙間の向こうを見た。
今夜は、何もいなかった。
廊下はただ暗く、静かだった。
少年は少しだけ、がっかりした。
がっかりする自分に、また気づいた。怖かったはずなのに。あれを見て、声を聞いて、怖かったはずなのに。でも今夜いないと分かると、胸の中に空白ができた。その空白が、外の怒鳴り声より辛かった。
あれが何だったのかは分からない。夢だったのか、現実だったのか。六歳の少年には判断できなかった。でもあの瞬間の感覚だけは残っていた。
見つけてもらえた。まだなかにいる。
少年はその言葉を頭の中で繰り返した。何度も。何度も。声の温度ごと、再生した。外では怒鳴り声が続いていた。何かが壊れる音がした。少年は目を閉じた。耳の中で、あの言葉だけを鳴らし続けた。
いつの間にか、眠っていた。
*
夢を見た。
押し入れの中だった。でも違った。普段よりずっと広かった。天井が見えなかった。床がなかった。どこまでも続く暗闇の中に、少年は浮いていた。
怖くなかった。静かだった。外の音が聞こえなかった。父の声も、壊れる音も、何もなかった。ただ暗闇と、少年だけがあった。
どこかから、光が来た。
光というより、白い何かだった。遠くにあった。近づいてきた。人の形だった。顔がなかった。でも少年は分かった。あれだ、と思った。昨夜、隙間の向こうにいたものだ。
近づいてきた。止まらなかった。少年は逃げようとしなかった。
すぐ目の前に来た。顔がない白い面が、少年の顔の真正面にあった。息がかかるほどの距離に。でも息はなかった。温度もなかった。ただそこにあった。
声がした。
みつけた
それだけだった。
少年は目が覚めた。
押し入れの中だった。いつもの、狭い押し入れだった。隙間から朝の光が入っていた。外から鳥の声が聞こえた。母が台所で何かをしている音がした。皿が重なる音。水が流れる音。普通の朝の音。
夢だった。
でも「みつけた」という言葉は、夢の中のものではない気がした。頭の中に残っていた。さっき聞いたばかりのように、鮮明に。
*
朝ごはんのとき、母の顔を見た。
頬に青いあざがあった。母は気づかれていないと思っていた。髪で隠していた。でも少年には見えた。見えてしまった。
少年は何も言わなかった。母も何も言わなかった。二人で黙って、朝ごはんを食べた。
少年はご飯を食べながら、考えた。これを誰かに言えば何かが変わるのか。言っても変わらないのか。変わるとしたら、どちらに変わるのか。良い方なのか、悪い方なのか。
言わないことにした。
言葉は人を助けない。それはもう分かっていた。
母が「いってらっしゃい」と言った。笑顔だった。少年も笑顔で「いってきます」と言った。ドアを閉めた。廊下に出た。一人になった。
笑顔を、外した。
外したとき、顔に何の感触もなかった。つけているときも、外したときも、何も変わらなかった。その無感覚が、少年には自然だった。
学校に向かって歩いた。途中、振り返った。なぜ振り返ったのか分からなかった。誰もいなかった。ただ住宅街の朝の風景が、そこにあった。
少年はまた歩き始めた。
でも——誰かに見られている気がした。後ろから。
見られているのが、怖くなかった。
それが一番、おかしかった。
*
その日の放課後、少年は一人で帰った。
いつもの道だった。角を曲がって、細い路地を抜けて、橋を渡って、家に帰る。毎日同じ道だった。橋の上で、少年は立ち止まった。欄干から川を見た。水が流れていた。光っていた。
何かが、川の底にいる気がした。
少年は目を細めた。川の底は見えなかった。濁っていた。でも何かがいる気がした。いる、というより——見ている、という感じだった。川の底から、上を見ている。
少年は長い間、そこに立っていた。風が吹いた。髪が揺れた。川の水面が揺れた。揺れた水面に、何かの形が見えた気がした。次の瞬間、波に消えた。
少年は欄干から手を離した。歩き始めた。
背後で、橋板が鳴いた。
少年の足音の後に、もう一つ。
少年は振り返らなかった。振り返らなかった理由は、怖かったからではなかった。
見てしまったら、いなくなる気がした。
見ていなければ、まだそこにいる。
そういう気がした。
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それから二十二年後。
九条玲司は面接室に座っていた。窓から光が入っていた。清潔な部屋だった。机の上に水の入ったグラスが置いてあった。審査官が向かいに座って、ファイルを見ていた。
玲司は待っていた。待つことは苦ではなかった。待ちながら、審査官の顔を読んだ。眉の角度。目の動き。ファイルをめくる指の速さ。今どういう状態にあるかが分かった。これは得意だった。昔から得意だった。押し入れの中で覚えた。
「なぜこの仕事を選んだのですか」
審査官が顔を上げた。
玲司は微笑んだ。口角を少し上げる。目を少し細める。六歳のころに覚えた動作が、今は完璧になっていた。完璧になりすぎて、自分でも本物との区別がつかなかった。それでよかった。区別がつかないほど完璧なら、誰にも見抜けない。
「子供の頃、助けてもらった経験があります」
審査官が頷いた。
「誰かの助けが必要なとき、適切な支援があれば人は変われる。そう信じているからです」
審査官がまた頷いた。満足そうだった。ファイルに何かを書いた。ペンを走らせる音がした。
玲司の言葉は、嘘ではなかった。ただ——本当でもなかった。
*
玲司が学んだのは、助けてもらうことの価値ではなかった。
人間は、孤独なとき何にでもすがる。暗闇の中で「見つけられた」と感じたとき——それが実在するかどうかは、関係ない。感じた、という事実だけが残る。その感覚は、どんな現実より強く人を動かす。
それが分かれば、あとは簡単だ。
孤独を作り、暗闇を作り、「見つけてあげる」。それだけで、人間は動く。どこへでも。
*
玲司は審査官の顔を見た。
満足そうに笑っているその顔を見ながら、思った。
あなたも今、見つけてもらったと思っている。私のことを理解した、と思っている。よい人材を見抜いた、と思っている。
でも私はまだ、押し入れの中にいる。ずっと、なかにいる。あの夜からずっと。
誰かの後ろに立つときも。誰かの暗闇を作るときも。誰かが気づかないように、隣に座って、ただ見ているときも。
まだなかにいる
まだ
なかに
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児童心理士資格審査委員会
審査記録
受験番号:████
氏名:九条玲司 28歳
面接評価:
傾聴力:優
共感力:優
専門知識:優
志望動機:明確かつ説得力あり
「子供の頃に助けてもらった経験がある」という動機は、この職種において非常に適性が高い。自身の経験を他者支援に昇華できる人材。面接中、一度も目を逸らさなかった。笑顔が自然だった。非常に好印象。
総合評価:合格
備考:
今後の活躍が期待される。
(審査官手書きメモ・非公式)
なぜか、帰り道にあの笑顔のことを考えていた。何かが気になった。でも何が気になったのか、分からない。
異常は認められない。
*
九条玲司は、その夜、帰宅してからも笑っていた。
アパートの一室。物が少ない部屋。本棚には心理学の専門書が並んでいた。机の上には何もなかった。窓の外は暗かった。自分の顔が窓ガラスに映っていた。
微笑んでいた。
本物か作り物か、もはや自分でも分からない微笑みだった。どちらでもよかった。区別がつかなくなったとき、それは完成したということだ。
玲司はコートを脱いだ。椅子に座った。机の引き出しを開けた。一番奥に、小さなノートが入っていた。
表紙には何も書いていなかった。
中を開いた。
最初のページに、一行だけ書いてあった。
六歳のころ、玲司自身が書いた字だった。
まだなかにいる
玲司はノートを閉じた。引き出しに戻した。電気を消した。暗くなった。
窓の外から、遠くに街の音がした。車の音。風の音。誰かが笑う声。
玲司は目を閉じた。
暗闇の中で、あの夜の押し入れを思い出した。隙間から差し込む廊下の光。湿った布団のにおい。外から聞こえる音。全てが壊れていく夜。
そして——隙間の向こうに現れた、白いもの。
あれが何だったのか、玲司はまだ分からない。夢だったのか、幻だったのか、それとも本当に何かがいたのか。
でも——「まだなかにいる」という言葉は、本物だった。
その言葉の温度が、今でも鮮明だった。
あの瞬間だけ、押し入れの中の少年は、孤独ではなかった。
だから——その感覚を、他の人間にも作ることができる。
孤独を作り、暗闇を作り、その中に「見つけてあげる」。
それが、玲司にとっての仕事の意味だった。
救済ではなかった。収集だった。
押し入れの中で、初めて「見つけられた」瞬間の表情を。
あの表情を——もう一度、見たかった。
何度でも。
何人からでも。
目を開けた。暗い部屋の天井を見た。
「まだなかにいる」が、頭の中で鳴った。
消えなかった。
消えないまま、玲司は目を閉じた。
翌日から、仕事が始まる。




