第四話「消えた子供」
高橋誠一の家族が最後に確認されたのは、二年と四ヶ月前だった。
近所の住人が覚えていた。母親が買い物袋を持って帰ってくるのを見た。子供が学校の制服を着て自転車に乗っているのを見た。父親は見かけなかった。父親は最後にいつ見たか、思い出せなかった。
「ある日、静かになったんです」と住人は言った。七十代の女性。「物音がしなくなって。でも越してくる前から、あまり音のしない家でしたから。引っ越したんだなと思って、気にしませんでした」
「業者は来ましたか」
「来ませんでした。荷物を運び出す様子もなかった。だから越したというより——いなくなった、という感じで」
「警察には連絡しなかったんですか」
女性が少し考えた。「しようとは思ったんですが……変な話なんですけど、なんか、いなくなったことが自然な気がして。ずっと前からそこに誰もいなかったような気がして。だから連絡しなかった」
ずっと前からそこに誰もいなかったような気がした。
真壁は手帳にメモした。
「今もそう思いますか」
「今も——正直、あそこに家族がいたのかどうか、よく思い出せないんです。でも確かに見たはずなんですが。女の子か男の子か、どっちでしたっけ」
「男の子です」
「そうでしたっけ」女性が首を傾けた。「なんか、記憶がぼやけていて。不思議なんですけど」
真壁は女性の顔を見た。嘘をついている様子はなかった。ぼやけている、という言葉通りの顔だった。本当に思い出せていなかった。
「ありがとうございました」
帰り際、真壁は高橋家だった建物を見た。二階建ての普通の一戸建てだった。今は別の家族が住んでいた。カーテンから光が漏れていた。子供の笑い声がした。
誰もいなかったような気がする、と女性は言った。
でも確かにいた。記録がある。九条のケースファイルに名前がある。高橋誠一。十一歳。
記録がある。だから、いた。
真壁は車に乗った。エンジンをかけた。バックミラーを見た。後部座席が見えた。
今日は——確認しなかった。
確認しなくなっていた。
いつから確認しなくなったのか、分からなかった。
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FILE 10 捜査メモ④
事件番号:██-████
記録日時:██月██日 16:40
担当:真壁恒一
高橋誠一(現在15歳)の件。
近隣住人の証言:「いなくなったことが自然な気がした」「ずっと前からそこに誰もいなかったような気がした」「記憶がぼやけている」
これは何だ。
証人の記憶が、対象の消失と同時に薄れている。消えた人間の記憶が、周囲から削られている。
または——最初からそういう人間だったのかもしれない。目立たない、気づかれない、記憶に残らない人間。存在感のない子供。
九条のケースになる前から、そういう状態だったのかもしれない。
ただ——
九条のケースになった子供が、消えた。
それだけは、事実だ。
追記:
バックミラーを確認しなくなっていることに、帰宅後気づいた。
いつから確認しなくなったのか、不明。
確認しなくなったことへの、不安はない。
その「不安がない」ことを、不安に思う。
異常は認められない。
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翌日の朝、九条から連絡が来た。
メッセージだった。「少しお時間いただけますか。お伝えしたいことがあります」
二度目の「伝え忘れ」だった。
真壁は少し考えた。また何かを「伝え忘れた」という口実で接触してくる。パターンが見えていた。見えているのに——返信した。
「いつがいいですか」
「今日の昼、いかがですか。こちらから伺います」
こちらから来る。初めてだった。これまでは真壁が出向いていた。今日は九条が来る。
何かが変わった、と感じた。変化の意味を考えた。でも昼になる前に、考えることをやめた。
*
署の近くの公園だった。
九条が先に来ていた。ベンチに座っていた。コートを着ていた。風が吹いていた。落ち葉が地面を転がった。曇った空の下で、九条は真壁を見て、立ち上がった。
「わざわざすみません」
「こちらこそ」と真壁は言った。「何ですか」
二人でベンチに並んで座った。
「高橋誠一くんのことを、調べていますね」
真壁は九条を見た。「なぜ知っていますか」
「センターに問い合わせが来たと、同僚から聞きました。高橋くんの件で警察が動いていると」
「誰が」
「総務の担当者が受けたそうです。私には直接関係ないかもしれませんが——高橋くんのことは、気になっていたので」
「気になっていた、というのは」
九条が少し間を置いた。「担当を外れた後も、ずっと。あの子は——特別な子でした」
「どういう意味で特別ですか」
「誰にも気づかれない子でした。存在が薄い、というより——自分から薄くしていた。気づかれないように、気づかれないように、生きていた。そういう子でした」
真壁は手帳を取り出した。「いつから担当しましたか」
「十一歳のとき。母親が連れてきました。学校で誰とも話さない。家でも話さない。食事も一人でとる。でも特に問題を起こすわけでもない。ただ——いる。それだけで、誰も気にしない。母親だけが気にしていた」
「カウンセリングの内容は」
「主に、自分について話してもらいました。好きなもの、嫌いなもの、楽しいこと、つらいこと。誠一くんは最初、何も答えられなかった。好きなものが分からない。楽しいことが思い浮かばない。自分がどういう人間か、説明できない」
「それは」
「誰にも見てもらったことがないからです。誰かに見てもらうことで、人は自分を知る。見てもらえないと、自分が何者か分からなくなる。誠一くんは、長い間誰にも見てもらえていなかった」
真壁はメモした。見てもらえないと、自分が何者か分からなくなる。
「カウンセリングの成果は出ましたか」
「半年後に、少し変わりました。笑うようになった。自分の好きなものを言えるようになった。学校で、一人だけ話せる友達ができた。お母さんがとても喜んでいました」
「それから」
「卒業しました。センターに来る必要がなくなったと判断して」九条が少し目を細めた。「あの判断が、正しかったのか——今も分かりません」
「消えたのはその後ですか」
「はい。卒業から半年後に」
半年。センターを卒業して、半年で消えた。
「最後に会ったのはいつですか」
「卒業のとき。普通に別れました。また何かあれば来ていい、と伝えました。誠一くんは頷いて、帰りました。振り返らなかった」
「振り返らなかった」
「壮介くんとは、その点が違いました。誠一くんは、振り返らなかった。それが今も——気になっています」
振り返らなかった。その言葉の意味を、九条はどう捉えているのか。真壁には分からなかった。
「一つ聞きます」と真壁は言った。「誠一くんが消えた件に、あなたは関係していますか」
九条が真壁を見た。真壁も九条を見た。
「関係していません」と九条は言った。
その目が、動かなかった。一点も動かなかった。
嘘か本当か——真壁には、読めなかった。読めないことが、初めてだった。二十年で初めて、相手の目から何も読めなかった。
「分かりました」と真壁は言った。
「信じてもらえましたか」
「調査中です」
九条が微笑んだ。「そうですね。それが正しい答えです」
*
公園を出た。
風が強くなっていた。落ち葉が足元を流れた。空が暗くなり始めていた。
歩きながら考えた。九条が「こちらから来る」と言ったとき、何かが変わった気がした。距離が縮まった、というより——囲まれた、という感覚に近かった。でもそれは正確ではない。囲まれた、というほど圧迫感はなかった。
むしろ——近くなった。
九条が近くなった。距離が縮まった。それが——嫌ではなかった。
嫌ではなかった、ということに気づいた瞬間、真壁は足を止めた。
公園の入口の前だった。後ろを振り返った。公園の中に、九条がまだいた。ベンチに座って、真壁を見ていた。
目が合った。九条が、静かに頭を下げた。
真壁は向き直った。歩き始めた。
背中に、視線を感じた。
感じながら歩いた。角を曲がった。視線が、切れた。
切れた瞬間に——物足りなかった。
また、物足りなかった。
真壁は歩く速度を落とした。足元を見た。アスファルトに自分の影が伸びていた。細長い影。冬の低い太陽が作る影。
影が一つだった。
当然だった。でも——一つだけであることが、少し寂しかった。
その感覚を、真壁は手帳に書かなかった。
書けなかった。
書いてしまうと、それが本当のことになる気がして。
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FILE 11 相馬涼介 個人メモ(非公式)
日時:██月██日
課長のことが、気になっている。
最近、様子が変わった。具体的に言うと——笑わなくなった。もともと笑う人ではないが、今は違う。表情が、内側を向いている。外に向けていない。考えている、というより——聴いている、みたいな顔をしている。何かに。
九条玲司と会ってから、変わった。確かにそうだ。
九条の調査を続けている。問題のある記録は、今のところない。でも——記録がないことと、問題がないことは、違うのかもしれない。課長が言いそうなことを、最近自分も考えるようになった。
高橋誠一の件。消息不明の家族。近隣住人の「記憶がぼやけている」という証言。これは何だ。
怖い、という感覚がある。でも何が怖いのか、言葉にできない。九条が怖いのではない。九条に会ってから変わっていく課長が、怖い。
いや——正確には。
課長が変わっていくことを止めたいのか、止めたくないのか、自分でも分からなくなってきた。
変わっていく課長の顔が——どこか、穏やかになっているから。
眠れているようになったから。
それが怖い。
異常は認められない。
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夜、結菜が珍しく早く部屋から出てきた。
リビングで真壁がコーヒーを飲んでいると、隣に座った。
「ねえ、お父さん」
「何だ」
「最近、なんか——ちょっとだけ変わった気がする」
真壁は結菜を見た。「どう変わった」
「なんか。顔が、落ち着いてる」結菜が少し考えた。「前は、帰ってきてもずっとどこか張り詰めてたじゃん。でも最近、そうじゃない気がして。顔が、ちょっとだけ柔らかい」
「そうか」
「なんかあった?いいことか、悪いことか、どっちかあった気がして」
真壁は少し考えた。いいことも悪いことも、言葉にできなかった。ただ——何かが変わっていることは、確かだった。
「お前の方こそ、最近どうだ」
「私?普通だよ」
「友達は」
「田中さん?うん、仲良くしてる。面白い人でさ——」結菜が少し顔を輝かせた。「なんか、話してると自分のことがよく分かる気がして。自分でも気づいてなかったこととか、引き出してくれるっていうか」
自分でも気づいていなかったことを引き出してくれる。
真壁はその言葉を頭の中で繰り返した。
「田中さんは、自分のことを話すか」
「あんまりしないかな。でもそれが逆に——すごく聞いてくれてる感じがして。私のことだけ考えてくれてる感じがして、なんか、うれしいんだよね」
自分のことだけ考えてくれている感じ。
それは——九条との会話で感じた感覚に、似ていた。
九条と話しているとき、九条の意識が全部こちらに向いていた。一度も視線を逸らさなかった。こちらのことだけ、見ていた。その集中が——居心地よかった。
居心地よかった。
真壁はコーヒーを飲んだ。
「その田中さんと、この前深夜に電話していたな」
結菜が少し固まった。「……なんで知ってるの」
「聞こえた」
「盗聴してたの?」
「廊下を歩いていたら、聞こえた」
結菜が少し黙った。「……怒ってる?」
「怒っていない。ただ、深夜に電話する理由があったのか、聞きたかった」
「理由って——なんか、眠れなくて。電話したら、話聞いてくれて。落ち着いた」
「眠れなかった理由は」
「分からない。なんか、ざわざわして。でも電話したら落ち着いた」
ざわざわして。電話したら落ち着いた。
真壁は結菜の顔を見た。結菜はまっすぐ真壁を見ていた。隠している様子はなかった。ただ——その顔が、どこか。
どこか、穏やかだった。
前より、穏やかだった。
「分かった」と真壁は言った。「早く眠れ」
「うん」結菜が立ち上がった。「おやすみ」
「おやすみ」
結菜が部屋に戻った。ドアが閉まった。
真壁はコーヒーを見た。冷めていた。
田中さん。深夜に電話。落ち着いた。
九条。センターで会う。眠れるようになった。
構造が、同じだった。
でも——証拠はなかった。田中さんと九条を結ぶものが、何もなかった。偶然かもしれなかった。
偶然かもしれない。
でも——偶然であってほしいと思っているのか、偶然であってほしくないと思っているのか。
分からなかった。
繋がっていてほしい、という感覚があった。繋がっていれば、まだ何かがそこにある。まだ、この感覚が続く。
その感覚を手放したくなかった。
「まだなかにいる」が鳴った。
今夜は——応えたくなった。
どこにいるのか、と聞きたくなった。
まだ、どこにいるのか、と。
*
深夜、真壁は眠れなかった。
でも今夜は、後ろが気になるからではなかった。考えていた。
高橋誠一。山田義雄。三島壮介。行方不明の女子高生。
全員、孤独だった。
全員、誰かに「見つけてもらえた」気がした直後に、消えた。
消えた先が、どこなのか。
死か。どこかへ行ったのか。それとも——本当に「消えた」のか。近所の住人の記憶から消えるように、存在ごと。
存在ごと消える、ということが、可能なのか。
可能ではない。そんなことはない。でも——近所の住人の「記憶がぼやけている」という言葉が、頭から離れなかった。
消えた人間の記憶が、周囲から薄れていく。
それは何なのか。
それとも——最初から、そういう人間だったのか。誰にも覚えられない、誰の記憶にも残らない人間。そういう人間が、静かにいなくなっても、誰も気づかない。
九条は、そういう人間を選んでいるのか。
選んで、近づいて、「見つけてあげる」。
その後で。
その後で、どうするのか。
どこへ連れていくのか。
真壁は天井を見た。暗かった。
視線を感じた。今夜も、天井の向こうから、何かが見ている気がした。
でも今夜は——怖くなかった。物足りなくもなかった。
ただ、確認したかった。
見ているのが九条なのか、と確認したかった。
見ているのが何なのか、と確認したかった。
でも確認できなかった。
天井は暗いままだった。
真壁はいつの間にか眠っていた。
夢を見なかった。
ただ、深く眠った。
翌朝、手帳を開いた。昨夜のページ。
書いてあった。自分の字で。
「まだなかにいる——どこに」
書いた記憶が、なかった。
*
午前、署に着いた。
相馬が待っていた。顔色が悪かった。
「消息不明の一件、少し動きがありました」
「何だ」
「高橋誠一の母親ですが——別の市の児童支援センターに、一度だけ相談に来た記録がありました。二年と二ヶ月前。誠一くんが消える直前です」
「何を相談していた」
「息子が、知らない人と話しているところを見た、と。誰かは分からない。でも息子がうれしそうにしていた。それがなんとなく怖かった。根拠はない。でも怖かった、と」
知らない人。うれしそうにしていた。
「九条か」
「センターには来ていません。ただ——その相談から一週間後に、一家は消えています」
一週間。
山田義雄は、誰かと話した翌日に死んだ。三島壮介は、「見つけてもらえた気がする」と言った三日後にいなくなった。高橋誠一の母親は、相談から一週間後に消えた。
時間が違う。でも——構造は同じだ。
「九条の当日の行動記録は取れるか」
「令状なしでは難しいです。課長」相馬が少し間を置いた。「令状を取りますか」
真壁は黙った。
令状を取る、ということは、九条を正式に容疑者として動かすということだ。動かせば、九条は知る。知ったら——何かが変わる。
変わってほしくなかった。
変わってほしくない、という感覚が、まずあった。それが先に来た。
その感覚に気づいた。
おかしい。令状を取ることへの躊躇が、捜査上の理由ではなく、個人的な感情から来ていた。
「……まだ待て」と真壁は言った。「もう少し、証拠を固める」
相馬が真壁を見た。何かを言いかけて、やめた。
「分かりました」とだけ言った。
真壁は相馬の顔を見た。相馬は視線を外した。
何かを、考えていた。でも言わなかった。
言わないことに、真壁は気づいた。気づいて——何も聞かなかった。
聞かなかった理由も、うまく言葉にできなかった。
*
昼過ぎ、松田に呼ばれた。
「九条玲司の件、どこまで進んでいる」
「調査中です」
「証拠は」
「ありません」
「接触は何回した」
「三回」
松田が煙草に火をつけた。「三回」繰り返した。「何かおかしいことはあったか」
「言葉にできないおかしさが、あります」
「言葉にできないものは証拠にならない」
「分かっています」
「真壁」松田が煙を吐いた。「お前は今、その九条という人間について、どう思っている」
「調査対象です」
「それだけか」
真壁は少し間を置いた。「……それだけです」
「そうか」松田がまた煙を吐いた。「一つだけ言う。相手が何者であっても、距離を保て。分かるな」
「はい」
「感情が入ると、判断が狂う。お前は昔からそれがない刑事だった。今もそうであることを、信じている」
真壁は何も言わなかった。
感情が入ると、判断が狂う。
入っているか、入っていないか。
分からなかった。
分からなくなっていた。
*
帰り道、スマートフォンを見た。
九条からメッセージが来ていた。
「今日、お時間はありますか。少しお話ししたいことがあります」
また、「お話ししたいこと」。
真壁はしばらく画面を見た。
返信しないべきだった。捜査対象からの接触には、記録が必要だ。一対一で会うべきではない。相馬を同席させるべきだ。
分かっていた。全部、分かっていた。
「場所はどこがいいですか」と返信した。
しばらくして、九条から返信が来た。
「真壁さんの、お好きな場所でいいです」
お好きな場所で。
真壁は立ち止まった。
好きな場所。そんなものが、あったか。二十年仕事をして、好きな場所などなかった。署と自宅の往復だった。寄り道をする習慣がなかった。好きな喫茶店も、好きな公園も、ない。
でも——一つだけ、思い浮かんだ場所があった。
妻が生きていたころ、三人でよく行った川沿いの遊歩道。結菜がまだ小さかったころ。妻が笑っていたころ。
そこを、思い浮かべた。
「川沿いの遊歩道で」と送った。
場所を送ってから、気づいた。
なぜその場所を送ったのか。
なぜ、その場所を九条に教えたのか。
九条と会う前に、その場所のことを誰かに話した記憶がなかった。でも——九条は知っているかもしれない、という気がした。根拠のない、おかしい直感だった。
でも——知っていてほしかった。
知っていれば、九条がずっとそこにいたことになる。ずっと、真壁の近くにいたことになる。
その感覚が——怖いのか、うれしいのか。
分からなかった。
分からなくなっていた。
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九条玲司 業務日誌(センター保管)
██月██日
今日、真壁が自分から「川沿いの遊歩道で」と送ってきた。
予定より、早い。
妻との記憶がある場所。結菜との記憶がある場所。真壁にとって意味のある場所。その場所を、私に教えた。
意識していない。意識せずに、自然に、その場所を選んだ。
それが一番、深い段階を示している。
意識してやることには、理由がある。理由があれば、取り消せる。でも無意識でやることは、取り消せない。自分でも気づいていないから。
真壁は今、無意識の部分で私を受け入れ始めている。
結菜の件も、順調だ。田中が毎日少しずつ近づいている。深夜の電話。「自分のことを引き出してくれる」という感覚。「落ち着く」という感覚。
真壁と結菜、二つのルートから同時に進んでいる。
一つが完成に近づくと、もう一つが引っ張られる。父と娘が同時に同じ感覚に近づいていく。その事実をどちらかが知ったとき——
その瞬間が、一番美しい。
一番、救いがない。
川沿いの遊歩道。明日、行く。
真壁が来る。
まだなかにいる。
まだ、深いところには届いていない。
もう少し。
異常は認められない。




