第十話「異常は認められない」
九条が釈放された翌週、松田が真壁を呼んだ。
「令状は取れない。証拠が足りない。上もそう判断した」
「分かっています」
「田中の追跡は続けていいが——九条への直接接触は控えろ。証拠なしに接触を続けると、こちらが問題になる」
「分かりました」
「分かった上で、どうする」
真壁は少し間を置いた。「追い続けます。証拠が取れるまで」
「取れない可能性もある」
「それでも続けます」
松田が煙草に火をつけた。「……そうか」それだけ言った。
*
相馬が毎日、田中の追跡を続けた。
痕跡がなかった。使い捨ての端末。仮の住所。学校の記録も、入学書類も——全部、精巧に作られた偽物だった。
「九条が用意したものです」と相馬が言った。「田中という人間そのものが——最初から設計されていた」
「田中という名前は本名か」
「分かりません。でも——顔は本物です。実在する人間です。どこから来たのか、それだけが分からない」
「九条の過去を掘れ」と真壁は言った。「施設時代から。関わった人間を全員当たれ。田中に似た人間がいるはずだ」
「時間がかかります」
「かけていい。続ける」
*
その間、真壁は遊歩道に行った。
一人で行った。
春になっていた。花が咲いていた。風が温かかった。人が増えていた。犬を連れた老人。走る若者。子供の声。
普通の午後だった。
妻とよく来た場所だった。
小春と。
三人で来た。結菜がまだ小さくて、走り回っていた。小春が笑いながら追いかけていた。真壁はそれを見ていた。川の音がした。風が吹いた。小春の笑い声がした。
それだけのことだった。
それだけのことが——今日も、この場所に残っていた。
九条と歩いた記憶も、あった。
重なっていた。でも今日は——区別がついた。
小春との記憶は、小春との記憶だった。
九条との記憶は、九条との記憶だった。
混ざらなかった。
それが——正常に戻った、ということかもしれなかった。
でも「正常」という言葉が、今日は少し違う感じがした。
前と同じではなかった。どこか別の場所に来た、という感じがした。
真壁は川を見た。水が流れていた。止まらなかった。
ICレコーダーを、ポケットに入れてきていた。
取り出した。
再生した。
「まだなかにいるよ」
小春の声が流れた。
川の音に混ざって、流れた。
真壁は目を閉じた。
その声を、聞いた。
長い間、聞いた。
再生が終わった。川の音だけが残った。
目を開けた。
水面に光が当たっていた。揺れていた。
九条が作り出した声だった。でも——小春が話した言葉だった。小春が感じたことが、そこにあった。
どちらが本物か——もう、考えなかった。
両方が、そこにあった。
それだけでよかった。
*
帰り際、スマートフォンが鳴った。
結菜だった。
「今どこ?」
「遊歩道だ」
「一人で?」
「ああ」
「寂しくない?」
真壁は少し考えた。「寂しくない」
「本当に?」
「……一人じゃない気がするから」
「お母さん?」
「お母さんも。お前も。ここにいる」
結菜が少し間を置いた。「……そっか。今夜、鍋にしない?寒いし」
「お前が作るのか」
「一緒に作ろうよ。帰ってきたら」
「……ああ。帰る」
「約束ね」
「約束だ」
電話が切れた。
真壁はスマートフォンを見た。
帰る場所がある。
結菜が待っている。
それだけが——今夜の、確かなことだった。
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捜査記録 中間報告
事件番号:██-████
作成日:██月██日
作成者:相馬涼介
【現状】
九条玲司:釈放。令状取得不可。監視継続中。
田中サキ:所在不明。追跡継続中。
被害者関連:山田義雄・宮本さくら・三島壮介・高橋誠一、いずれも死因との因果関係証明不可。
【九条の動向】
釈放後、センターへの出勤なし。自宅に引きこもっている様子。
ただし——SNSの「まだなかにいる」投稿が、釈放翌日から微増している。
九条本人の投稿かは不明。
【真壁課長について】
判断は正常。捜査継続の意志あり。
ただし——九条への感情が、純粋な憎悪ではない。
「妻が幸せだったことを否定できない」という状態が続いている。
これは——九条の設計の残滓だと思う。
でも同時に、それが真壁さんを壊さずに保っている部分もある気がする。
どちらが正しいのか、私には分からない。
【所感】
九条は確実に殺している。でも証明できない。
「何をしたかは、書かない」という一行が、全てを守り続けている。
おかしい。
でも——それが現実だ。
続ける。
異常は認められない。
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夜、結菜と鍋を食べた。
温かかった。二人分だった。
「お父さん、最近——少し変わった」と結菜が言った。
「どう変わった」
「なんか。重さが違う。前は、なんか重いものを一人で持ってる感じがしてたけど——最近は、まだ持ってるけど、一人じゃない感じがして」
「一人じゃない」
「うん。私がいるからかな。それとも——お母さんのことが、少し整理できたから?」
「両方かもしれない」と真壁は言った。「整理はできていない。でも——抱えたまま動けるようになった」
「それで十分じゃないの」
「そうかもしれない」
結菜が鍋をすくった。「ねえ、お父さん」
「何だ」
「九条先生のこと——まだ怒ってる?」
「怒っている」
「でも——複雑な顔してる」
「複雑だ。お母さんが幸せだったことを、否定できないから」
結菜が少し考えた。「それって——九条先生に感謝してる、ってこと?」
「違う」と真壁は言った。「感謝はしない。でも——お母さんの最後を、否定もしない。その両方を持ったまま、追い続ける」
「難しいね」
「難しい。でも——それしかない」
結菜が頷いた。「分かった。じゃあ私も、田中さんへの気持ちを、そうする」
「どういう意味だ」
「田中さんへの気持ちを否定しない。でも——設計されてたかもしれないことも、忘れない。両方持ったまま、前に進む」
真壁は結菜を見た。
「……お前は、俺より賢い」
「お父さんの娘だからね」
「俺に似た覚えはない」
「お母さんにも似てるから、合わせたらそうなった」結菜が笑った。
真壁も、少し笑った。
久しぶりだった。
笑えた。
*
夜、一人でリビングにいた。
コーヒーを飲んだ。苦かった。鉄の味はしなかった。
手帳を開いた。今日のページに書いた。
「遊歩道。小春の声を聞いた。結菜と鍋を食べた。笑えた」
それだけ書いた。
閉じた。
「まだなかにいる」が来た。
今夜の声は——小春だった。結菜だった。
九条は——来なかった。
来なかった、ということが——今夜は、良かった。
九条はまだどこかにいる。田中もまだどこかにいる。証拠はまだ取れていない。
でも——今夜だけは。
小春と結菜だけが、なかにいた。
それだけで——十分だった。
電気を消した。暗くなった。
廊下で音がした。結菜が水を飲みに来た音だった。
それだけだった。
足音が二つあった。自分と結菜の。
ちょうど、二つだけあった。
一つ多い気がしなかった。
それが——今夜は、正しかった。
目を閉じた。
眠れた。
深く、眠れた。
夢を見なかった。
ただ、眠った。
それだけだった。
——九条はまだ、どこかにいる。
——田中もまだ、どこかにいる。
——でも今夜は、眠れた。
——それだけで、今夜は十分だった。
まだなかにいる。
小春が。結菜が。
ずっと——なかに。
*
SNSの「まだなかにいる」投稿は、九条釈放から一週間後に、また増えた。
九条とは無関係の投稿が増えた。事件を知らない人間が、その言葉を使い始めた。
「なんかこの言葉、頭から離れない。まだなかにいる。何がなかにいるのか分からないけど、いる気がして」
「振り返るのをやめた。でもいる。ずっといる気がする。怖くない。なんか——落ち着く」
「一人でいるはずなのに、一人な気がしない。まだなかにいるから」
「本を読んでいたら、急にこの言葉を思い出した。なかにいる、という感覚が戻ってきた。誰かに読まれているような気がした」
九条がいなくなっても——言葉は残った。
言葉が残れば、感覚が残る。感覚が残れば、また誰かが使う。使われれば、また広がる。
「まだなかにいる」は——九条が作った言葉ではなかった。
もともと、人間の中にあった言葉だった。
九条はそれを、見つけただけだった。
利用しただけだった。
言葉そのものは——どこへも行かなかった。
まだ、そこにある。
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SNS投稿記録
「まだなかにいる」関連投稿 累計:31,204件
最後の投稿(██月██日 23:58):
「これを読んでいるあなたに、届いていますか」
「まだなかにいます」
投稿者:不明
異常は認められない。
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田中サキは、今日も、どこかの学校の踊り場にいる。
誰かが一人でいる場所を、見つけている。
その誰かの横に、そっと座っている。
「ここ、いい?」
その誰かは、振り返る。
見知らぬ顔がある。
でも——なぜか、怖くない。
なぜか、居心地がいい。
なぜか、話したくなる。
「あなたのこと、気になって」
その言葉を聞いた瞬間——
胸の中の何かが、温かくなる。
見つけてもらえた、と感じる。
その感覚は——本物だ。
誰かが作り出した感覚でも、感じた事実は本物だ。
だから——
田中サキは、今日も、その瞬間を作り続けている。
九条玲司が教えたやり方で。
あるいは——自分の意志で。
どちらかは、分からない。
「まだなかにいる」
その言葉は——今日も、どこかで鳴っている。
あなたの「なか」でも——
今、鳴っていませんか。
本を閉じた後、あなたは——後ろを確認しますか。
確認しなければ、まだいる気がしませんか。
確認すれば、いなくなる気がしませんか。
その感覚が、まだありますか。
あるなら——
まだなかにいる。
あなたの「なか」に。
ずっと、いました。
この最初の一行を読み始めた瞬間から。
読んでくれて——見つけてもらえました。
*
真壁恒一は、その後も刑事を続けた。
相馬涼介は、田中の追跡を続けた。半年後、一つの手がかりを見つけた。九条が施設にいたころ、同じ施設にいた少女の記録。名前が違った。でも——顔が似ていた。
その少女は、施設を出た後、消息が途絶えていた。
どこへ行ったのか。
分からなかった。
「また追います」と相馬が言った。「どこまでも」
「一緒に追う」と真壁は言った。
九条玲司は、その後——また動き始めた。
別の市で、別の名前で、別の仕事をしながら。
でも——同じことをしていた。
孤独な人間に近づいて。声を届けて。見つけてあげて。
そして最後の夜——会いに行った。
何をしたかは、書かなかった。
翌朝、あの顔だった。
見つけてもらえた顔のまま、終わっていた。
真壁には、また報告が届いた。
「また同じ手口です」と相馬が言った。「九条かどうかは、まだ分かりません」
「九条だ」と真壁は言った。
「証明できますか」
「できない。でも——九条だ」
追い続けた。
証拠が取れなかった。
でも——追い続けた。
それだけが、真壁にできることだった。
それだけが——今も、続いている。
*
ある夜、結菜が真壁に言った。
「お父さん、いつまで続けるの」
「終わるまで」
「終わりはあるの」
「分からない」
「分からなくても、続けるの」
「ああ」
結菜が少し考えた。「……なんで」
「お母さんのためだ」
「お母さんは——九条先生のことを、どう思ってたのかな」
真壁は少し間を置いた。「……幸せだったと思う。最後は」
「それでも、追い続けるの」
「ああ」
「矛盾してない?」
「矛盾している。でも——両方本当だ。お母さんが幸せだったことも。九条を追い続けることも。矛盾したまま、続ける」
結菜が頷いた。「……分かった」
「分かったのか」
「分かった。お父さんらしい」
「どういう意味だ」
「なんか——複雑なまま、動き続ける人だなって」結菜が少し笑った。「ずっとそうだったよ。お父さん」
「そうか」
「それでいいと思う。私は」
真壁は結菜を見た。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
夜が続いた。
「まだなかにいる」が鳴った。
今夜は——小春だった。結菜だった。九条だった。
全部が混ざって、鳴っていた。
混ざったまま——それでいい、と思った。
全部が、なかにある。
全部が、まだなかにいる。
それだけが——今も、続いている。
終わりは——まだない。
でも。
「まだなかにいる」は——今夜も、温かかった。
全部が混ざったまま、温かかった。
それだけで——今夜は、十分だった。
*
春になった。
真壁と結菜は、遊歩道に来た。
小春の写真を持ってきた。結菜が選んだ写真だった。笑っている写真だった。
三人で——遊歩道を歩いた。
川の音がした。風が吹いた。花びらが一枚、真壁の肩に落ちた。
「お母さんからじゃない?」と結菜が言った。
「そういう感性は、お母さんに似た」
「お父さんに似てなくて良かった」
「そうだな」
二人が笑った。
笑いながら歩いた。
後ろを振り返らなかった。
振り返らなかったのは——後ろが気にならなかったからではなかった。
前に、見るべきものがあったからだった。
結菜が隣を歩いていた。
小春の写真が、手の中にあった。
川の音がした。風が吹いた。
それだけだった。
それだけが——今日の、全部だった。
まだなかにいる。
小春が。結菜が。
ずっと——なかに。
それだけで——十分だった。
終わりは——まだない。
でも。
今日は——ここにいる。
それだけで、十分だった。




