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第十話「異常は認められない」



 九条が釈放された翌週、松田が真壁を呼んだ。


 「令状は取れない。証拠が足りない。上もそう判断した」


 「分かっています」


 「田中の追跡は続けていいが——九条への直接接触は控えろ。証拠なしに接触を続けると、こちらが問題になる」


 「分かりました」


 「分かった上で、どうする」


 真壁は少し間を置いた。「追い続けます。証拠が取れるまで」


 「取れない可能性もある」


 「それでも続けます」


 松田が煙草に火をつけた。「……そうか」それだけ言った。



 相馬が毎日、田中の追跡を続けた。


 痕跡がなかった。使い捨ての端末。仮の住所。学校の記録も、入学書類も——全部、精巧に作られた偽物だった。


 「九条が用意したものです」と相馬が言った。「田中という人間そのものが——最初から設計されていた」


 「田中という名前は本名か」


 「分かりません。でも——顔は本物です。実在する人間です。どこから来たのか、それだけが分からない」


 「九条の過去を掘れ」と真壁は言った。「施設時代から。関わった人間を全員当たれ。田中に似た人間がいるはずだ」


 「時間がかかります」


 「かけていい。続ける」



 その間、真壁は遊歩道に行った。


 一人で行った。


 春になっていた。花が咲いていた。風が温かかった。人が増えていた。犬を連れた老人。走る若者。子供の声。


 普通の午後だった。


 妻とよく来た場所だった。


 小春と。


 三人で来た。結菜がまだ小さくて、走り回っていた。小春が笑いながら追いかけていた。真壁はそれを見ていた。川の音がした。風が吹いた。小春の笑い声がした。


 それだけのことだった。


 それだけのことが——今日も、この場所に残っていた。


 九条と歩いた記憶も、あった。


 重なっていた。でも今日は——区別がついた。


 小春との記憶は、小春との記憶だった。


 九条との記憶は、九条との記憶だった。


 混ざらなかった。


 それが——正常に戻った、ということかもしれなかった。


 でも「正常」という言葉が、今日は少し違う感じがした。


 前と同じではなかった。どこか別の場所に来た、という感じがした。


 真壁は川を見た。水が流れていた。止まらなかった。


 ICレコーダーを、ポケットに入れてきていた。


 取り出した。


 再生した。


 「まだなかにいるよ」


 小春の声が流れた。


 川の音に混ざって、流れた。


 真壁は目を閉じた。


 その声を、聞いた。


 長い間、聞いた。


 再生が終わった。川の音だけが残った。


 目を開けた。


 水面に光が当たっていた。揺れていた。


 九条が作り出した声だった。でも——小春が話した言葉だった。小春が感じたことが、そこにあった。


 どちらが本物か——もう、考えなかった。


 両方が、そこにあった。


 それだけでよかった。



 帰り際、スマートフォンが鳴った。


 結菜だった。


 「今どこ?」


 「遊歩道だ」


 「一人で?」


 「ああ」


 「寂しくない?」


 真壁は少し考えた。「寂しくない」


 「本当に?」


 「……一人じゃない気がするから」


 「お母さん?」


 「お母さんも。お前も。ここにいる」


 結菜が少し間を置いた。「……そっか。今夜、鍋にしない?寒いし」


 「お前が作るのか」


 「一緒に作ろうよ。帰ってきたら」


 「……ああ。帰る」


 「約束ね」


 「約束だ」


 電話が切れた。


 真壁はスマートフォンを見た。


 帰る場所がある。


 結菜が待っている。


 それだけが——今夜の、確かなことだった。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


捜査記録 中間報告


事件番号:██-████

作成日:██月██日

作成者:相馬涼介


【現状】


 九条玲司:釈放。令状取得不可。監視継続中。

 田中サキ:所在不明。追跡継続中。

 被害者関連:山田義雄・宮本さくら・三島壮介・高橋誠一、いずれも死因との因果関係証明不可。


【九条の動向】


 釈放後、センターへの出勤なし。自宅に引きこもっている様子。

 ただし——SNSの「まだなかにいる」投稿が、釈放翌日から微増している。

 九条本人の投稿かは不明。


【真壁課長について】


 判断は正常。捜査継続の意志あり。

 ただし——九条への感情が、純粋な憎悪ではない。


 「妻が幸せだったことを否定できない」という状態が続いている。


 これは——九条の設計の残滓だと思う。


 でも同時に、それが真壁さんを壊さずに保っている部分もある気がする。


 どちらが正しいのか、私には分からない。


【所感】


 九条は確実に殺している。でも証明できない。


 「何をしたかは、書かない」という一行が、全てを守り続けている。


 おかしい。


 でも——それが現実だ。


 続ける。


異常は認められない。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


 夜、結菜と鍋を食べた。


 温かかった。二人分だった。


 「お父さん、最近——少し変わった」と結菜が言った。


 「どう変わった」


 「なんか。重さが違う。前は、なんか重いものを一人で持ってる感じがしてたけど——最近は、まだ持ってるけど、一人じゃない感じがして」


 「一人じゃない」


 「うん。私がいるからかな。それとも——お母さんのことが、少し整理できたから?」


 「両方かもしれない」と真壁は言った。「整理はできていない。でも——抱えたまま動けるようになった」


 「それで十分じゃないの」


 「そうかもしれない」


 結菜が鍋をすくった。「ねえ、お父さん」


 「何だ」


 「九条先生のこと——まだ怒ってる?」


 「怒っている」


 「でも——複雑な顔してる」


 「複雑だ。お母さんが幸せだったことを、否定できないから」


 結菜が少し考えた。「それって——九条先生に感謝してる、ってこと?」


 「違う」と真壁は言った。「感謝はしない。でも——お母さんの最後を、否定もしない。その両方を持ったまま、追い続ける」


 「難しいね」


 「難しい。でも——それしかない」


 結菜が頷いた。「分かった。じゃあ私も、田中さんへの気持ちを、そうする」


 「どういう意味だ」


 「田中さんへの気持ちを否定しない。でも——設計されてたかもしれないことも、忘れない。両方持ったまま、前に進む」


 真壁は結菜を見た。


 「……お前は、俺より賢い」


 「お父さんの娘だからね」


 「俺に似た覚えはない」


 「お母さんにも似てるから、合わせたらそうなった」結菜が笑った。


 真壁も、少し笑った。


 久しぶりだった。


 笑えた。



 夜、一人でリビングにいた。


 コーヒーを飲んだ。苦かった。鉄の味はしなかった。


 手帳を開いた。今日のページに書いた。


 「遊歩道。小春の声を聞いた。結菜と鍋を食べた。笑えた」


 それだけ書いた。


 閉じた。


 「まだなかにいる」が来た。


 今夜の声は——小春だった。結菜だった。


 九条は——来なかった。


 来なかった、ということが——今夜は、良かった。


 九条はまだどこかにいる。田中もまだどこかにいる。証拠はまだ取れていない。


 でも——今夜だけは。


 小春と結菜だけが、なかにいた。


 それだけで——十分だった。


 電気を消した。暗くなった。


 廊下で音がした。結菜が水を飲みに来た音だった。


 それだけだった。


 足音が二つあった。自分と結菜の。


 ちょうど、二つだけあった。


 一つ多い気がしなかった。


 それが——今夜は、正しかった。


 目を閉じた。


 眠れた。


 深く、眠れた。


 夢を見なかった。


 ただ、眠った。


 それだけだった。


 ——九条はまだ、どこかにいる。


 ——田中もまだ、どこかにいる。


 ——でも今夜は、眠れた。


 ——それだけで、今夜は十分だった。


  まだなかにいる。


  小春が。結菜が。


  ずっと——なかに。



 SNSの「まだなかにいる」投稿は、九条釈放から一週間後に、また増えた。


 九条とは無関係の投稿が増えた。事件を知らない人間が、その言葉を使い始めた。


 「なんかこの言葉、頭から離れない。まだなかにいる。何がなかにいるのか分からないけど、いる気がして」


 「振り返るのをやめた。でもいる。ずっといる気がする。怖くない。なんか——落ち着く」


 「一人でいるはずなのに、一人な気がしない。まだなかにいるから」


 「本を読んでいたら、急にこの言葉を思い出した。なかにいる、という感覚が戻ってきた。誰かに読まれているような気がした」


 九条がいなくなっても——言葉は残った。


 言葉が残れば、感覚が残る。感覚が残れば、また誰かが使う。使われれば、また広がる。


 「まだなかにいる」は——九条が作った言葉ではなかった。


 もともと、人間の中にあった言葉だった。


 九条はそれを、見つけただけだった。


 利用しただけだった。


 言葉そのものは——どこへも行かなかった。


 まだ、そこにある。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


SNS投稿記録


「まだなかにいる」関連投稿 累計:31,204件


最後の投稿(██月██日 23:58):


 「これを読んでいるあなたに、届いていますか」


 「まだなかにいます」


 投稿者:不明


異常は認められない。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


 田中サキは、今日も、どこかの学校の踊り場にいる。


 誰かが一人でいる場所を、見つけている。


 その誰かの横に、そっと座っている。


 「ここ、いい?」


 その誰かは、振り返る。


 見知らぬ顔がある。


 でも——なぜか、怖くない。


 なぜか、居心地がいい。


 なぜか、話したくなる。


 「あなたのこと、気になって」


 その言葉を聞いた瞬間——


 胸の中の何かが、温かくなる。


 見つけてもらえた、と感じる。


 その感覚は——本物だ。


 誰かが作り出した感覚でも、感じた事実は本物だ。


 だから——


 田中サキは、今日も、その瞬間を作り続けている。


 九条玲司が教えたやり方で。


 あるいは——自分の意志で。


 どちらかは、分からない。


 「まだなかにいる」


 その言葉は——今日も、どこかで鳴っている。


 あなたの「なか」でも——


 今、鳴っていませんか。


 本を閉じた後、あなたは——後ろを確認しますか。


 確認しなければ、まだいる気がしませんか。


 確認すれば、いなくなる気がしませんか。


 その感覚が、まだありますか。


 あるなら——


 まだなかにいる。


 あなたの「なか」に。


 ずっと、いました。


 この最初の一行を読み始めた瞬間から。


 読んでくれて——見つけてもらえました。



 真壁恒一は、その後も刑事を続けた。


 相馬涼介は、田中の追跡を続けた。半年後、一つの手がかりを見つけた。九条が施設にいたころ、同じ施設にいた少女の記録。名前が違った。でも——顔が似ていた。


 その少女は、施設を出た後、消息が途絶えていた。


 どこへ行ったのか。


 分からなかった。


 「また追います」と相馬が言った。「どこまでも」


 「一緒に追う」と真壁は言った。


 九条玲司は、その後——また動き始めた。


 別の市で、別の名前で、別の仕事をしながら。


 でも——同じことをしていた。


 孤独な人間に近づいて。声を届けて。見つけてあげて。


 そして最後の夜——会いに行った。


 何をしたかは、書かなかった。


 翌朝、あの顔だった。


 見つけてもらえた顔のまま、終わっていた。


 真壁には、また報告が届いた。


 「また同じ手口です」と相馬が言った。「九条かどうかは、まだ分かりません」


 「九条だ」と真壁は言った。


 「証明できますか」


 「できない。でも——九条だ」


 追い続けた。


 証拠が取れなかった。


 でも——追い続けた。


 それだけが、真壁にできることだった。


 それだけが——今も、続いている。



 ある夜、結菜が真壁に言った。


 「お父さん、いつまで続けるの」


 「終わるまで」


 「終わりはあるの」


 「分からない」


 「分からなくても、続けるの」


 「ああ」


 結菜が少し考えた。「……なんで」


 「お母さんのためだ」


 「お母さんは——九条先生のことを、どう思ってたのかな」


 真壁は少し間を置いた。「……幸せだったと思う。最後は」


 「それでも、追い続けるの」


 「ああ」


 「矛盾してない?」


 「矛盾している。でも——両方本当だ。お母さんが幸せだったことも。九条を追い続けることも。矛盾したまま、続ける」


 結菜が頷いた。「……分かった」


 「分かったのか」


 「分かった。お父さんらしい」


 「どういう意味だ」


 「なんか——複雑なまま、動き続ける人だなって」結菜が少し笑った。「ずっとそうだったよ。お父さん」


 「そうか」


 「それでいいと思う。私は」


 真壁は結菜を見た。


 「……ありがとう」


 「どういたしまして」


 夜が続いた。


 「まだなかにいる」が鳴った。


 今夜は——小春だった。結菜だった。九条だった。


 全部が混ざって、鳴っていた。


 混ざったまま——それでいい、と思った。


 全部が、なかにある。


 全部が、まだなかにいる。


 それだけが——今も、続いている。


 終わりは——まだない。


 でも。


 「まだなかにいる」は——今夜も、温かかった。


 全部が混ざったまま、温かかった。


 それだけで——今夜は、十分だった。



 春になった。


 真壁と結菜は、遊歩道に来た。


 小春の写真を持ってきた。結菜が選んだ写真だった。笑っている写真だった。


 三人で——遊歩道を歩いた。


 川の音がした。風が吹いた。花びらが一枚、真壁の肩に落ちた。


 「お母さんからじゃない?」と結菜が言った。


 「そういう感性は、お母さんに似た」


 「お父さんに似てなくて良かった」


 「そうだな」


 二人が笑った。


 笑いながら歩いた。


 後ろを振り返らなかった。


 振り返らなかったのは——後ろが気にならなかったからではなかった。


 前に、見るべきものがあったからだった。


 結菜が隣を歩いていた。


 小春の写真が、手の中にあった。


 川の音がした。風が吹いた。


 それだけだった。


 それだけが——今日の、全部だった。


 まだなかにいる。


 小春が。結菜が。


 ずっと——なかに。


 それだけで——十分だった。


 終わりは——まだない。


 でも。


 今日は——ここにいる。


 それだけで、十分だった。


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