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エピローグ「あの日の顔」


 通報が入ったのは、深夜だった。


 匿名。発信元不明。真壁の個人番号に、文字で届いた。


      まだなかにいる


 その下に、住所があった。


 十五年前に閉鎖された廃病院だった。九条と来たあの廃病院ではなかった。もっと古く、もっと深く山の中にある別の廃病院だった。


 真壁はその住所を見た。


 見た瞬間、体の奥で何かが動いた。


 行ったことがある場所だった。


 いつ行ったのか、思い出せなかった。



 相馬に連絡した。「今から来られるか」


 「行きます」とだけ言った。


 車で向かった。雨が降り始めた。フロントガラスを雨粒が叩いた。ワイパーが動いた。ギ、ギ、と古い音を立てながら。


 山道を登った。木が深くなった。霧が出た。


 霧の向こうに、建物が浮かんだ。


 黒く。巨大に。


 「気味悪いですね」と相馬が言った。


 「ああ」


 「来たことがある気がします。でも——いつか思い出せない」


 「俺もだ」


 二人が黙った。体が知っていた。頭は思い出せないのに、体が知っていた。


 それが——一番、おかしかった。



 中は暗かった。甘ったるい臭いがした。湿気。カビ。腐敗臭。


 懐中電灯をつけた。廊下を進んだ。床に足跡があった。複数。一つは大人のもの。もう一つは——小さかった。


 奥へ進んだ。遠くで水滴の音がした。


 ぽた。ぽた。ぽた。


 「……真壁さん」と相馬が小声で呼んだ。


 懐中電灯の先。二階へ続く階段。その踊り場に——誰かが座っていた。


 小さい影だった。



 真壁の呼吸が止まった。


 娘だった。


 裸足。白いワンピース。痩せた肩。俯いたまま、床に座っていた。顔色が悪かった。目に光がなかった。


 両腕で、古いファイルを抱えていた。


 真壁はゆっくり受け取った。


 表紙に、黒いマジックで書かれていた。


【未発見者記録】



 ページを開いた。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


【未発見者記録】


No.01 山田 義雄 52歳

発見場所:第四橋下

状態:外傷なし

備考:【笑顔確認】


No.02 宮本 さくら 38歳

発見場所:自宅マンション

状態:外傷なし

備考:【笑顔確認】【声を認識】


No.03 三島 壮介 13歳

発見場所:不明

状態:記録なし

備考:【未発見】


No.04 高橋 誠一 11歳

発見場所:不明

状態:記録なし

備考:【未発見】


No.05 真壁 小春 34歳

発見場所:自宅寝室

状態:外傷なし

備考:【笑顔確認】【まだなかにいる】


No.06 ██ ██ ██歳

発見場所:██████

状態:██████

備考:【██████】


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


 真壁の手が止まった。


 小春。妻の名前だった。「笑顔確認」と書かれていた。「まだなかにいる」と書かれていた。


 No.06は——全部、黒塗りだった。


 次のページ。写真が綴じられていた。


 全員、外傷がなかった。全員、笑っていた。


 穏やかな顔で。安心した顔で。まるでようやく救われた人間みたいに。


 めくるたびに——笑顔。笑顔。笑顔。


 そのページをめくった瞬間——真壁の頭の奥で、何かが弾けた。



 記憶が来た。止められなかった。


 夜だった。自宅だった。


 小春が「まだいるよ」と言っていた。「声が聞こえる」と言っていた。


 真壁は苛立っていた。「いい加減にしろ」


 小春が怯えた。追いかけてきた。「ねえ、聞いて。その人が、私のことを見つけてくれてるんだよ」


 真壁は振り返った。小春の顔が穏やかだった。うれしそうだった。自分ではなく、声の主に、そんな顔を向けている小春が。


 何かが、切れた。


 小春の首に——手が伸びた。


 その瞬間の小春の顔が——笑っていた。怖がっていなかった。穏やかだった。見つけてもらえた、という顔だった。真壁ではなく——声の主に、見つけてもらえた、という顔だった。


 記憶が、そこで——止まった。


 止めていた。六年間、止め続けていた。今夜、戻ってきた。



 真壁は笑い始めた。壊れたみたいに。涙が出ていた。


 「違う」と言った。「俺じゃない」


 「真壁さん」と相馬が肩を掴んだ。


 「九条がやったんだ。九条の声が——小春を壊したんだ」


 「真壁さん」


 「九条のせいだ。九条さえいなければ——」


 「真壁さん」相馬が静かに言った。「娘さんのことを——教えてください」


 真壁は娘を見た。踊り場に座っていた。俯いたまま。


 「ここにいる」


 「……娘さんの記録を、調べたことがあります」と相馬はゆっくり言った。「戸籍にも、学校にも、どこにも——記録が、なかったです」


 「なかった」


 「はい」


 真壁は娘を見た。「おい」と呼んだ。「結菜」


 娘が顔を上げた。


 知っている顔だった。「約束ね」と言った顔だった。「ちゃんと帰ってきて」と言った顔だった。でも同時に——小春の顔と、どこか、似ていた。


 「お父さん」と娘が言った。


 「……ああ」


 「ずっと、探してた」


 「……俺もだ」


 娘の顔が変わった。真壁ではなく——後ろを、見た。


 青ざめていた。唇を震わせていた。


 「まだなかにいる」


 ただの、事実の報告だった。


 「……うしろ」


 真壁が、ゆっくり振り返った。



 相馬は——その瞬間から、覚えていない。


 次に気づいたとき、相馬は自分のアパートの部屋にいた。


 ベッドに横になっていた。天井を見ていた。


 白い天井だった。


 いつ帰ったのか、分からなかった。


 どうやって帰ったのか、分からなかった。


 廃病院から——ここまでの記憶が、なかった。


 真壁が——いなかった。


 隣に、いなかった。


 相馬はベッドから起き上がった。


 スマートフォンを見た。着信が複数あった。署からだった。


 時刻を見た。


 翌朝の、七時過ぎだった。



 署に連絡した。


 「真壁さんを知りませんか」と相馬は聞いた。


 「来ていない」と言われた。「昨夜から連絡が取れない」と言われた。


 相馬はスマートフォンを持ったまま、動けなかった。


 真壁の番号に電話した。


 呼び出し音が鳴った。一回。二回。三回。


 繋がらなかった。


 「おかけになった電話番号は——」


 相馬はスマートフォンを下ろした。


 廃病院に戻るべきだった。でも——体が動かなかった。


 昨夜、真壁が振り返った。


 その後が——ない。


 記憶の中に、何もない。


 ただ——目が覚めたとき、自分の部屋にいた。


 それだけだった。



 松田から連絡が来た。「真壁を知らないか」


 「知りません」と相馬は言った。


 「昨夜、一緒にいたんじゃないのか」


 「……いました。廃病院で」


 「それから」


 「分かりません。気づいたら——自分の部屋にいました」


 松田が沈黙した。


 「廃病院に行ってみます」と相馬は言った。


 「俺も行く」



 廃病院に戻った。


 昨夜と同じ建物だった。でも——昨夜と違って、静かだった。


 懐中電灯をつけた。廊下を進んだ。


 床の足跡を見た。


 昨夜は複数あった。大人のものと、小さいもの。


 今日は——一種類だった。


 自分たちの足跡だけだった。


 昨夜の足跡が——消えていた。


 踊り場まで行った。


 誰もいなかった。


 ただ、床があった。


 床に——何かが残っていた。


 相馬はしゃがんだ。


 細い、浅い傷だった。爪で引っ掻いたような傷が三本、平行に並んでいた。


 新しかった。


 傷の縁に、白い粉のようなものが残っていた。


 相馬は指で触れた。冷たかった。


 「真壁さん」と相馬は呼んだ。


 返事がなかった。


 「真壁さん」


 廊下に声が響いた。


 返ってこなかった。



 捜索が始まった。


 廃病院の中を全部当たった。周辺の山道を当たった。


 いなかった。


 手がかりがなかった。


 「最後に見たのはいつか」と捜査員が相馬に聞いた。


 「廃病院の踊り場で」と相馬は言った。「振り返ったところまでは——見ていました」


 「振り返った後は」


 「……覚えていません」


 「なぜ覚えていないんですか」


 相馬は答えられなかった。


 なぜ覚えていないのか。


 分からなかった。


 ただ——記憶がなかった。


 振り返った瞬間から——何もなかった。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


失踪者捜索記録


対象:真壁恒一(██歳)

最終確認:██月██日 旧██療養院内

現在の所在:不明

捜索状況:継続中


同行者(相馬涼介)の証言:

 「振り返ったところまでは見ていた。その後の記憶がない」


備考:

 廃病院内に遺留品なし。

 踊り場の床に引っ掻き傷三本を確認。新しいもの。

 足跡:相馬の入場前の状態で、昨夜の複数の足跡が消失していた。


近隣への聞き込み:

 「最近あの病院に人が来ていたのか、気づかなかった」

 「そういえば——真壁という人のことが、よく思い出せない。顔は分かるんですが、どんな人だったか、うまく思い出せなくて」


 ——記憶が、薄れている。


異常は認められない。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


 その夜、相馬は一人で部屋にいた。


 真壁の捜索資料を広げていた。


 でも——手が動かなかった。


 「どんな人だったか、よく思い出せない」という近隣住人の言葉が、頭から離れなかった。


 相馬は真壁のことを——思い出そうとした。


 顔は分かった。


 声は分かった。


 「どうでもいい死体はない」という言葉も、分かった。


 でも——それ以上が、出てこなかった。


 どんな人だったか。どういう刑事だったか。六年間、娘と暮らしてきた人間の、日常が。


 出てこなかった。


 「……おかしい」と相馬は言った。一人で、言った。


 六年間、隣で仕事をしてきた。


 なのに——薄くなっている。


 記憶が、薄くなっている。


 相馬はスマートフォンを取り出した。真壁との写真を探した。


 なかった。


 一枚も、なかった。


 「……おかしい」


 もう一度、言った。


 でも——「おかしい」と言いながら、体は動かなかった。


 確認しようとすると——手が止まった。


 確認すると、何かが確定してしまう気がして。


 確定してほしくなかった。


 相馬は資料を閉じた。


 電気を消した。


 暗くなった。


 廊下で音がした。


 相馬は振り返った。


 誰もいなかった。


 でも——いる気がした。


 まだ、いる気がした。


 「まだなかにいる」が——来た。


 今夜初めて、来た。


 相馬の「なか」に、初めて来た。


 怖くなかった。


 それが——おかしかった。


 でも——怖くなかった。


 相馬は目を閉じた。


 「まだなかにいる」が、また鳴った。


 今度は——真壁の声で、鳴った気がした。


 「どうでもいい死体はない」という声で。


 まだなかにいる。


 真壁が——まだなかにいる。


 記録が薄れても。


 写真がなくても。


 捜索が続いても。


 まだ——なかにいる。


 相馬はその感覚の中で、目を閉じたまま、動かなかった。


 温かかった。


 その温かさが——おかしかった。


 でも——温かかった。


 それだけだった。



 翌朝、相馬は署に来た。


 真壁の机があった。


 椅子があった。


 コーヒーカップが、まだそこにあった。


 相馬はその机を見た。


 しばらく見ていた。


 松田が来た。「捜索、続ける」


 「はい」


 「手がかりが出ていない」


 「はい」


 「お前は——昨夜のことを、思い出せるか」


 相馬は少し間を置いた。「……振り返るところまでは」


 「それから」


 「分かりません」


 松田が頷いた。何も言わなかった。


 「課長の娘さんに——連絡しましたか」と相馬は聞いた。


 松田が相馬を見た。


 「娘?」


 「はい。結菜さんに」


 松田がまた相馬を見た。今度は少し長く。


 「……真壁に、娘がいたか」


 相馬の手が止まった。


 「いました」と相馬は言った。「結菜さんという娘が」


 「そうか」松田が少し考えた。「……思い出せないな。そういえば、話を聞いたことがあったか」


 「あります。何度も」


 「そうか」松田がまた言った。「……なぜ思い出せないんだろうな」


 二人が黙った。


 机の上のコーヒーカップが、そこにあった。


 真壁がいた証拠が、そこにあった。


 でも——真壁がどんな人間だったか。


 薄くなっていた。


 確かにいた。でも——薄くなっていた。


 「捜索を続けます」と相馬は言った。


 「ああ」と松田は言った。


 二人が、それぞれの仕事を始めた。


 真壁の机だけが、空のまま、残っていた。



 その日の夕方。


 相馬は一人で廊下を歩いていた。


 真壁がいつも歩いていた廊下を。


 足音を聞いた。


 自分の足音だけがするはずだった。


 でも——一つ多い気がした。


 相馬は止まった。


 振り返ろうとした。


 止まった。


 振り返ると——いなくなる気がした。


 いなくなってほしくなかった。


 相馬はそのまま、前を向いた。


 歩き始めた。


 足音が——また、一つ多い気がした。


 確認しなかった。


 確認しなければ——まだいる。


 まだなかにいる。


 真壁が——まだなかにいる。


 廊下に。記憶に。「まだなかにいる」という声に。


 まだ——なかに。


 相馬は歩き続けた。


 振り返らなかった。


 振り返らなければ——まだいる。


 それだけが、今日の、全部だった。



 一週間後。


 相馬は真壁の自宅に行った。


 呼び鈴を押した。


 出なかった。


 ドアを開けた。鍵がかかっていなかった。


 中に入った。


 リビングがあった。テーブルがあった。コーヒーカップが一つ、置きっぱなしだった。


 結菜の部屋を探した。


 廊下の奥にドアがあった。開けた。


 部屋は空だった。


 ベッドがあった。机があった。


 でも——長い間、誰も使っていない部屋の、埃があった。


 生活感が、なかった。


 相馬は部屋の中に立った。


 「結菜さん」と呼んだ。


 返事がなかった。


 「結菜さん」


 なかった。


 相馬は部屋を出た。リビングに戻った。


 コーヒーカップを見た。


 真壁が最後に使ったカップだった。


 その横に——付箋が貼ってあった。


 色あせた付箋だった。


 「帰ったら食べて」と書いてあった。


 でも——食べ物が、なかった。


 付箋だけが、残っていた。


 いつから貼られていたのか、分からなかった。


 誰が書いたのか——分からなかった。


 相馬はその付箋を見た。


 長い間、見ていた。


 「まだなかにいる」が——鳴った。


 今日は——二つの声で鳴った。


 真壁の声と。


 結菜の声と。


 まだなかにいる。


 記録がなくても。部屋が空でも。付箋だけが残っても。


 まだ——なかにいる。


 相馬はリビングを出た。


 玄関を出た。


 ドアを閉めた。


 廊下に出た。


 振り返らなかった。


 振り返ると——いなくなる気がした。


 だから——振り返らなかった。


 それだけだった。


 階段を下りた。外に出た。


 空が曇っていた。


 風が吹いた。


 相馬は空を見た。


 「まだなかにいる」が——また、鳴った。


 怖くなかった。


 それが——おかしかった。


 でも——怖くなかった。


 相馬は歩き始めた。


 夕方の街を、一人で歩いた。


 足音が一つあった。


 自分の足音だけが、するはずだった。


 でも——また、一つ多い気がした。


 確認しなかった。


 まだなかにいる。


 まだ——なかに。


 ずっと——


 なかに。

⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿

【未発見者記録】 追記

No.07 真壁 恒一 ██歳

発見場所:旧██療養院

状態:外傷なし

備考:【笑顔確認】【まだなかにいる】

異常は認められない。



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