エピローグ「あの日の顔」
通報が入ったのは、深夜だった。
匿名。発信元不明。真壁の個人番号に、文字で届いた。
まだなかにいる
その下に、住所があった。
十五年前に閉鎖された廃病院だった。九条と来たあの廃病院ではなかった。もっと古く、もっと深く山の中にある別の廃病院だった。
真壁はその住所を見た。
見た瞬間、体の奥で何かが動いた。
行ったことがある場所だった。
いつ行ったのか、思い出せなかった。
*
相馬に連絡した。「今から来られるか」
「行きます」とだけ言った。
車で向かった。雨が降り始めた。フロントガラスを雨粒が叩いた。ワイパーが動いた。ギ、ギ、と古い音を立てながら。
山道を登った。木が深くなった。霧が出た。
霧の向こうに、建物が浮かんだ。
黒く。巨大に。
「気味悪いですね」と相馬が言った。
「ああ」
「来たことがある気がします。でも——いつか思い出せない」
「俺もだ」
二人が黙った。体が知っていた。頭は思い出せないのに、体が知っていた。
それが——一番、おかしかった。
*
中は暗かった。甘ったるい臭いがした。湿気。カビ。腐敗臭。
懐中電灯をつけた。廊下を進んだ。床に足跡があった。複数。一つは大人のもの。もう一つは——小さかった。
奥へ進んだ。遠くで水滴の音がした。
ぽた。ぽた。ぽた。
「……真壁さん」と相馬が小声で呼んだ。
懐中電灯の先。二階へ続く階段。その踊り場に——誰かが座っていた。
小さい影だった。
*
真壁の呼吸が止まった。
娘だった。
裸足。白いワンピース。痩せた肩。俯いたまま、床に座っていた。顔色が悪かった。目に光がなかった。
両腕で、古いファイルを抱えていた。
真壁はゆっくり受け取った。
表紙に、黒いマジックで書かれていた。
【未発見者記録】
*
ページを開いた。
⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿
【未発見者記録】
No.01 山田 義雄 52歳
発見場所:第四橋下
状態:外傷なし
備考:【笑顔確認】
No.02 宮本 さくら 38歳
発見場所:自宅マンション
状態:外傷なし
備考:【笑顔確認】【声を認識】
No.03 三島 壮介 13歳
発見場所:不明
状態:記録なし
備考:【未発見】
No.04 高橋 誠一 11歳
発見場所:不明
状態:記録なし
備考:【未発見】
No.05 真壁 小春 34歳
発見場所:自宅寝室
状態:外傷なし
備考:【笑顔確認】【まだなかにいる】
No.06 ██ ██ ██歳
発見場所:██████
状態:██████
備考:【██████】
⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿
真壁の手が止まった。
小春。妻の名前だった。「笑顔確認」と書かれていた。「まだなかにいる」と書かれていた。
No.06は——全部、黒塗りだった。
次のページ。写真が綴じられていた。
全員、外傷がなかった。全員、笑っていた。
穏やかな顔で。安心した顔で。まるでようやく救われた人間みたいに。
めくるたびに——笑顔。笑顔。笑顔。
そのページをめくった瞬間——真壁の頭の奥で、何かが弾けた。
*
記憶が来た。止められなかった。
夜だった。自宅だった。
小春が「まだいるよ」と言っていた。「声が聞こえる」と言っていた。
真壁は苛立っていた。「いい加減にしろ」
小春が怯えた。追いかけてきた。「ねえ、聞いて。その人が、私のことを見つけてくれてるんだよ」
真壁は振り返った。小春の顔が穏やかだった。うれしそうだった。自分ではなく、声の主に、そんな顔を向けている小春が。
何かが、切れた。
小春の首に——手が伸びた。
その瞬間の小春の顔が——笑っていた。怖がっていなかった。穏やかだった。見つけてもらえた、という顔だった。真壁ではなく——声の主に、見つけてもらえた、という顔だった。
記憶が、そこで——止まった。
止めていた。六年間、止め続けていた。今夜、戻ってきた。
*
真壁は笑い始めた。壊れたみたいに。涙が出ていた。
「違う」と言った。「俺じゃない」
「真壁さん」と相馬が肩を掴んだ。
「九条がやったんだ。九条の声が——小春を壊したんだ」
「真壁さん」
「九条のせいだ。九条さえいなければ——」
「真壁さん」相馬が静かに言った。「娘さんのことを——教えてください」
真壁は娘を見た。踊り場に座っていた。俯いたまま。
「ここにいる」
「……娘さんの記録を、調べたことがあります」と相馬はゆっくり言った。「戸籍にも、学校にも、どこにも——記録が、なかったです」
「なかった」
「はい」
真壁は娘を見た。「おい」と呼んだ。「結菜」
娘が顔を上げた。
知っている顔だった。「約束ね」と言った顔だった。「ちゃんと帰ってきて」と言った顔だった。でも同時に——小春の顔と、どこか、似ていた。
「お父さん」と娘が言った。
「……ああ」
「ずっと、探してた」
「……俺もだ」
娘の顔が変わった。真壁ではなく——後ろを、見た。
青ざめていた。唇を震わせていた。
「まだなかにいる」
ただの、事実の報告だった。
「……うしろ」
真壁が、ゆっくり振り返った。
*
相馬は——その瞬間から、覚えていない。
次に気づいたとき、相馬は自分のアパートの部屋にいた。
ベッドに横になっていた。天井を見ていた。
白い天井だった。
いつ帰ったのか、分からなかった。
どうやって帰ったのか、分からなかった。
廃病院から——ここまでの記憶が、なかった。
真壁が——いなかった。
隣に、いなかった。
相馬はベッドから起き上がった。
スマートフォンを見た。着信が複数あった。署からだった。
時刻を見た。
翌朝の、七時過ぎだった。
*
署に連絡した。
「真壁さんを知りませんか」と相馬は聞いた。
「来ていない」と言われた。「昨夜から連絡が取れない」と言われた。
相馬はスマートフォンを持ったまま、動けなかった。
真壁の番号に電話した。
呼び出し音が鳴った。一回。二回。三回。
繋がらなかった。
「おかけになった電話番号は——」
相馬はスマートフォンを下ろした。
廃病院に戻るべきだった。でも——体が動かなかった。
昨夜、真壁が振り返った。
その後が——ない。
記憶の中に、何もない。
ただ——目が覚めたとき、自分の部屋にいた。
それだけだった。
*
松田から連絡が来た。「真壁を知らないか」
「知りません」と相馬は言った。
「昨夜、一緒にいたんじゃないのか」
「……いました。廃病院で」
「それから」
「分かりません。気づいたら——自分の部屋にいました」
松田が沈黙した。
「廃病院に行ってみます」と相馬は言った。
「俺も行く」
*
廃病院に戻った。
昨夜と同じ建物だった。でも——昨夜と違って、静かだった。
懐中電灯をつけた。廊下を進んだ。
床の足跡を見た。
昨夜は複数あった。大人のものと、小さいもの。
今日は——一種類だった。
自分たちの足跡だけだった。
昨夜の足跡が——消えていた。
踊り場まで行った。
誰もいなかった。
ただ、床があった。
床に——何かが残っていた。
相馬はしゃがんだ。
細い、浅い傷だった。爪で引っ掻いたような傷が三本、平行に並んでいた。
新しかった。
傷の縁に、白い粉のようなものが残っていた。
相馬は指で触れた。冷たかった。
「真壁さん」と相馬は呼んだ。
返事がなかった。
「真壁さん」
廊下に声が響いた。
返ってこなかった。
*
捜索が始まった。
廃病院の中を全部当たった。周辺の山道を当たった。
いなかった。
手がかりがなかった。
「最後に見たのはいつか」と捜査員が相馬に聞いた。
「廃病院の踊り場で」と相馬は言った。「振り返ったところまでは——見ていました」
「振り返った後は」
「……覚えていません」
「なぜ覚えていないんですか」
相馬は答えられなかった。
なぜ覚えていないのか。
分からなかった。
ただ——記憶がなかった。
振り返った瞬間から——何もなかった。
⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿
失踪者捜索記録
対象:真壁恒一(██歳)
最終確認:██月██日 旧██療養院内
現在の所在:不明
捜索状況:継続中
同行者(相馬涼介)の証言:
「振り返ったところまでは見ていた。その後の記憶がない」
備考:
廃病院内に遺留品なし。
踊り場の床に引っ掻き傷三本を確認。新しいもの。
足跡:相馬の入場前の状態で、昨夜の複数の足跡が消失していた。
近隣への聞き込み:
「最近あの病院に人が来ていたのか、気づかなかった」
「そういえば——真壁という人のことが、よく思い出せない。顔は分かるんですが、どんな人だったか、うまく思い出せなくて」
——記憶が、薄れている。
異常は認められない。
⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿
その夜、相馬は一人で部屋にいた。
真壁の捜索資料を広げていた。
でも——手が動かなかった。
「どんな人だったか、よく思い出せない」という近隣住人の言葉が、頭から離れなかった。
相馬は真壁のことを——思い出そうとした。
顔は分かった。
声は分かった。
「どうでもいい死体はない」という言葉も、分かった。
でも——それ以上が、出てこなかった。
どんな人だったか。どういう刑事だったか。六年間、娘と暮らしてきた人間の、日常が。
出てこなかった。
「……おかしい」と相馬は言った。一人で、言った。
六年間、隣で仕事をしてきた。
なのに——薄くなっている。
記憶が、薄くなっている。
相馬はスマートフォンを取り出した。真壁との写真を探した。
なかった。
一枚も、なかった。
「……おかしい」
もう一度、言った。
でも——「おかしい」と言いながら、体は動かなかった。
確認しようとすると——手が止まった。
確認すると、何かが確定してしまう気がして。
確定してほしくなかった。
相馬は資料を閉じた。
電気を消した。
暗くなった。
廊下で音がした。
相馬は振り返った。
誰もいなかった。
でも——いる気がした。
まだ、いる気がした。
「まだなかにいる」が——来た。
今夜初めて、来た。
相馬の「なか」に、初めて来た。
怖くなかった。
それが——おかしかった。
でも——怖くなかった。
相馬は目を閉じた。
「まだなかにいる」が、また鳴った。
今度は——真壁の声で、鳴った気がした。
「どうでもいい死体はない」という声で。
まだなかにいる。
真壁が——まだなかにいる。
記録が薄れても。
写真がなくても。
捜索が続いても。
まだ——なかにいる。
相馬はその感覚の中で、目を閉じたまま、動かなかった。
温かかった。
その温かさが——おかしかった。
でも——温かかった。
それだけだった。
翌朝、相馬は署に来た。
真壁の机があった。
椅子があった。
コーヒーカップが、まだそこにあった。
相馬はその机を見た。
しばらく見ていた。
松田が来た。「捜索、続ける」
「はい」
「手がかりが出ていない」
「はい」
「お前は——昨夜のことを、思い出せるか」
相馬は少し間を置いた。「……振り返るところまでは」
「それから」
「分かりません」
松田が頷いた。何も言わなかった。
「課長の娘さんに——連絡しましたか」と相馬は聞いた。
松田が相馬を見た。
「娘?」
「はい。結菜さんに」
松田がまた相馬を見た。今度は少し長く。
「……真壁に、娘がいたか」
相馬の手が止まった。
「いました」と相馬は言った。「結菜さんという娘が」
「そうか」松田が少し考えた。「……思い出せないな。そういえば、話を聞いたことがあったか」
「あります。何度も」
「そうか」松田がまた言った。「……なぜ思い出せないんだろうな」
二人が黙った。
机の上のコーヒーカップが、そこにあった。
真壁がいた証拠が、そこにあった。
でも——真壁がどんな人間だったか。
薄くなっていた。
確かにいた。でも——薄くなっていた。
「捜索を続けます」と相馬は言った。
「ああ」と松田は言った。
二人が、それぞれの仕事を始めた。
真壁の机だけが、空のまま、残っていた。
*
その日の夕方。
相馬は一人で廊下を歩いていた。
真壁がいつも歩いていた廊下を。
足音を聞いた。
自分の足音だけがするはずだった。
でも——一つ多い気がした。
相馬は止まった。
振り返ろうとした。
止まった。
振り返ると——いなくなる気がした。
いなくなってほしくなかった。
相馬はそのまま、前を向いた。
歩き始めた。
足音が——また、一つ多い気がした。
確認しなかった。
確認しなければ——まだいる。
まだなかにいる。
真壁が——まだなかにいる。
廊下に。記憶に。「まだなかにいる」という声に。
まだ——なかに。
相馬は歩き続けた。
振り返らなかった。
振り返らなければ——まだいる。
それだけが、今日の、全部だった。
*
一週間後。
相馬は真壁の自宅に行った。
呼び鈴を押した。
出なかった。
ドアを開けた。鍵がかかっていなかった。
中に入った。
リビングがあった。テーブルがあった。コーヒーカップが一つ、置きっぱなしだった。
結菜の部屋を探した。
廊下の奥にドアがあった。開けた。
部屋は空だった。
ベッドがあった。机があった。
でも——長い間、誰も使っていない部屋の、埃があった。
生活感が、なかった。
相馬は部屋の中に立った。
「結菜さん」と呼んだ。
返事がなかった。
「結菜さん」
なかった。
相馬は部屋を出た。リビングに戻った。
コーヒーカップを見た。
真壁が最後に使ったカップだった。
その横に——付箋が貼ってあった。
色あせた付箋だった。
「帰ったら食べて」と書いてあった。
でも——食べ物が、なかった。
付箋だけが、残っていた。
いつから貼られていたのか、分からなかった。
誰が書いたのか——分からなかった。
相馬はその付箋を見た。
長い間、見ていた。
「まだなかにいる」が——鳴った。
今日は——二つの声で鳴った。
真壁の声と。
結菜の声と。
まだなかにいる。
記録がなくても。部屋が空でも。付箋だけが残っても。
まだ——なかにいる。
相馬はリビングを出た。
玄関を出た。
ドアを閉めた。
廊下に出た。
振り返らなかった。
振り返ると——いなくなる気がした。
だから——振り返らなかった。
それだけだった。
階段を下りた。外に出た。
空が曇っていた。
風が吹いた。
相馬は空を見た。
「まだなかにいる」が——また、鳴った。
怖くなかった。
それが——おかしかった。
でも——怖くなかった。
相馬は歩き始めた。
夕方の街を、一人で歩いた。
足音が一つあった。
自分の足音だけが、するはずだった。
でも——また、一つ多い気がした。
確認しなかった。
まだなかにいる。
まだ——なかに。
ずっと——
なかに。
⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿
【未発見者記録】 追記
No.07 真壁 恒一 ██歳
発見場所:旧██療養院
状態:外傷なし
備考:【笑顔確認】【まだなかにいる】
異常は認められない。




