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第九話「廃病院」


 廃病院は、山の中にあった。


 舗装されていない道を、三十分近く走った。木が深くなった。光が少なくなった。道が細くなった。最後は車を降りて歩いた。九条が先を歩いた。迷わなかった。来たことがある歩き方だった。


 相馬が真壁の隣を歩いた。黙っていた。


 「来たことがあるんですね」と相馬が九条に言った。


 「何度か」と九条が答えた。振り返らなかった。


 木の間から、建物が見えた。二階建て。白かったはずの壁が、灰色になっていた。窓が割れていた。蔦が這っていた。でも——建物の形は崩れていなかった。三十年以上経っているのに、崩れていなかった。


 真壁は建物を見ながら、頭の中で並べていた。


 山田義雄。第四橋の下。死亡推定時刻の前後、遺体から四メートルの場所に、誰かが長時間立っていた踏み跡。


 宮本さくら。自宅マンション。死亡前夜、エントランスの防犯カメラに不審な人影。〇・三秒で消えた。


 三島壮介。失踪前夜、携帯の位置情報が一時間だけ動いた。動いた先の記録が、途切れている。


 全員、最後の夜に——誰かがいた。


 その誰かが誰なのか。真壁には分かっていた。


 でも証明できなかった。



 中は暗かった。


 懐中電灯をつけた。三本の光が廊下に伸びた。九条が前を歩いた。迷わなかった。


 においがした。湿った木のにおい。黴のにおい。古い紙のにおい。それと——もう一つ。


 何の臭いか、すぐには言葉にならなかった。でも体が知っていた。現場で何度も嗅いだ臭いだった。


 「においがしますね」と相馬が小声で言った。


 「分かっている」と真壁は言った。


 九条は何も言わなかった。前を歩き続けた。



 二階の廊下の奥、一室だけドアが閉まっている部屋があった。


 九条がそこへ向かった。ドアの前に立った。


 真壁が先に手をかけた。「俺が開ける」


 九条が手を引いた。「どうぞ」


 ドアを開けた。



 部屋は小さかった。


 机が一つ。その上にICレコーダーが置いてあった。埃の中で、そこだけ拭われていた。


 そして——もう一つ。


 机の横に、古いノートが置いてあった。


 真壁はICレコーダーより先に、ノートを手に取った。


 表紙には何も書いていなかった。


 開いた。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


九条玲司 個人記録(廃病院保管)


██年██月██日


山田義雄。六十一歳。第四橋の下。四年間、誰にも見つけられなかった男。


三ヶ月間、声を届けた。毎晩電話した。話を聞いた。「まだいるよ」と言った。「見つけたよ」と言った。


山田さんは笑うようになった。少しずつ、笑うようになった。


最後の夜、会いに行った。


橋の下に座っていた。寒かった。でも温かいものを持っていった。二人で飲んだ。話した。


「見つけてもらえた」と山田さんは言った。


その顔が——良かった。


ずっと見ていたかった。


でも顔は、時間とともに変わる。明日になれば、また孤独に戻る。また暗くなる。見つけてもらえた、という感覚は——薄れる。


だから。


その顔のまま、終わらせた。


何をしたかは、書かない。


翌朝、あの顔だった。口角が上がっていた。見つけてもらえた顔のまま、終わっていた。


それで——良かった。


異常は認められない。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


 真壁の手が止まった。


 「何をしたかは、書かない」


 その一行が、頭の中で鳴り続けた。


 次のページを開いた。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


██年██月██日


宮本さくら。三十八歳。シングルマザー。八歳の息子がいた。


二ヶ月間、録音を届けた。毎晩、就寝前に再生されるように設計した。「まだここにいるから」「一人じゃないよ」。


さくらさんは明るくなった。職場でも変わったと言われるようになった。息子のために朝食を三人分作るようになった。


一度だけ、連絡を絶った。


三日間、声を届けなかった。


三日後、さくらさんから連絡が来た。「また来てくれた」と言った。声が震えていた。


その震えが——良かった。


最後の夜、会いに行った。


マンションの前に立った。電気がついていた。カーテン越しに影が見えた。


インターフォンは押さなかった。


ドアも開けなかった。


ただ、立っていた。


さくらさんは気づいた。気づいて——分かった。来てくれた、と思った。


それだけで——良かった。


翌朝、息子が通報した。


「お母さんが起きない」


あの顔だった。


何をしたかは、書かない。


異常は認められない。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


 相馬が真壁の隣に来た。ページを読んでいた。黙っていた。読み終えて、また黙っていた。


 「課長」


 「分かっている」


 「これは——」


 「証拠だ」と真壁は言った。「でも——何をしたかが書いていない」


 「本人の自白として使えませんか」


 「『見つけてもらえた顔のまま終わらせた』——これが何を意味するか、証明できるか」


 相馬が黙った。


 「『立っていただけ』と言われれば終わる。『気づいてもらっただけ』と言われれば終わる。直接の死因との因果が証明できない」


 「……でも」


 「でも、俺には分かる」と真壁は言った。「お前にも分かる。このノートを読んだ全員に分かる。でも——裁判では使えない」


 相馬が拳を握った。「おかしい」


 「おかしい。でもそれが現実だ」



 真壁は九条を見た。


 九条は部屋の隅に立っていた。窓の光を背に受けて。穏やかだった。


 「読みましたか」と九条が言った。


 「読んだ」


 「全部、書いてあります」


 「何をしたかは、書いていない」


 「はい」九条が静かに言った。「書く必要がないので」


 「なぜ」


 「書かなくても——あなたには分かるから」


 真壁は九条を見た。「俺に分かることが、お前の目的か」


 「目的の一つです」


 「見つけてほしかったのか。俺に」


 九条が少し間を置いた。「……そうかもしれません」


 「それだけのために、人を殺したのか」


 「殺した、とは言っていません」


 「何をしたかは、書かない——と書いた」


 「はい」


 「でも——やった」


 「……」


 九条が黙った。否定しなかった。肯定もしなかった。


 ただ、黙った。


 その沈黙が——答えだった。


 「逮捕する」と真壁は言った。


 「根拠は」と九条が静かに言った。


 「このノートだ」


 「『見つけてもらえた顔のまま終わらせた』——これが殺人の証拠になりますか」


 真壁は答えられなかった。


 「『立っていただけです』と私が言えば、それ以上の証明ができますか」


 「……できない」


 「では」


 「でも——逮捕する」と真壁は言った。「証拠が固まるまで、拘束する。令状を取る。時間をかけて、証拠を集める」


 九条が少し考えた。「……そうですか」


 抵抗しなかった。


 「それでいいんですか」と真壁は言った。「逮捕されて」


 「いいです」と九条は言った。「あなたに見つけてもらえたので」


 「見つけてもらえた」


 「はい。ずっと——見つけてほしかった。あなたに」


 真壁はその言葉を聞いた。


 「それが——お前の動機か」


 「動機の一つです」九条が穏やかに言った。「孤独な人間を見つけることと、あなたに見つけてもらうことが——私の中で、ずっと重なっていた」


 「人を殺してまで」


 「殺したとは言っていません」


 「でも——やった」


 九条が沈黙した。


 その沈黙の向こうに——答えがあった。読者には見えていた。でも真壁には、永遠に証明できない答えが。



 相馬が九条に手錠をかけた。


 九条は抵抗しなかった。手を差し出した。


 「令状なしでは」と相馬が真壁に小声で言った。


 「任意同行だ。署に来てもらう。令状はその間に取る」


 「証拠が固まるかどうか」


 「固まらなくても——時間を使う。その間に田中を追う。九条が動けない時間を作る」


 相馬が頷いた。


 「行きましょう」と九条が言った。穏やかだった。まるで、自分がお願いしたことが叶ったみたいな顔だった。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


FILE 28 現場記録


場所:旧○○療養院 二階個室

記録日時:██月██日 14:30

担当:相馬涼介


発見物①:

 ICレコーダー一台。

 「真壁小春(真壁恒一の妻・故人)」と思われる声を含む。

 その他、宮本さくらと酷似した声を確認。


発見物②:

 手書きノート一冊。九条玲司の自筆と思われる。

 被害者ごとの「記録」が書かれている。

 全員に共通する記述:「何をしたかは、書かない」


捜査上の問題:

 ノートの記述は、直接の殺意・殺害行為を示していない。

 「終わらせた」「あの顔だった」——何をしたかが書かれていない。

 本人は「立っていただけ」「声を届けただけ」と主張できる。


 死因との因果関係:証明不可能。


 逮捕:任意同行の形で実施。令状請求中。


備考(相馬個人):

 このノートを読めば、誰でも分かる。


 九条がやった。


 でも証明できない。


 「何をしたかは、書かない」という一行が——全てを守っている。


 書かれていないことが、証拠にならない。


 おかしい。


 でもそれが——現実だ。


異常は認められない。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


 廃病院を出た。


 外に出ると、光が戻った。木の間から空が見えた。青かった。


 九条が先を歩いた。手錠をかけられたまま、穏やかに歩いた。


 「一つだけ、聞かせてください」と九条が言った。


 「聞く」


 「奥様の声を——聞けましたか」


 「聞いた」


 「良かった」九条が言った。本当に良かった、という声だった。「奥様は——最後まで、幸せでした。見つけてもらえた、と感じながら」


 「お前がそれを作った」


 「はい」


 「妻を騙した」


 「騙した、とは思っていません。本物の感覚をお届けした、と思っています」


 「本物か偽物かを決める権利は——お前にはない」


 「そうですね」九条が頷いた。「でも——奥様は幸せでした。それだけは、確かです」


 真壁は答えなかった。


 答えられなかった。


 妻が幸せだったことを——否定できなかった。


 否定したくなかった。


 それが——一番、辛かった。



 車に乗った。相馬が運転した。九条が後部座席に座った。真壁が助手席に座った。


 山道を下りた。誰も喋らなかった。


 しばらくして、九条が後部座席から言った。


 「真壁さん」


 「何だ」


 「結菜さんのことを、大切にしてください」


 「……お前に言われる必要はない」


 「そうですね。でも——言いたかった」


 「なぜだ」


 九条が少し間を置いた。「結菜さんは——田中との関係で、何かが開きました。開いたものは、九条がいなくなっても残ります。良いものが開いたと思っています」


 「良いものかどうかを——お前が決めるな」


 「そうですね」


 沈黙が続いた。


 「一つだけ」と九条がまた言った。


 「まだあるのか」


 「田中については——私が動けなくなれば、田中も止まります。少なくとも、しばらくは」


 「しばらく、とは」


 「私が動けない間は。でも——田中は私ではない。田中自身の意志で動くこともある」


 「どういう意味だ」


 「田中は——最初は私の設計で動いていました。でも途中から、自分の意志が混ざり始めた。結菜さんのことを、本当に気にかけるようになった部分がある」


 「それは——お前の設計か」


 「最初は。でも今は——分かりません」


 真壁は九条を見た。バックミラーに、九条の顔が映っていた。穏やかだった。


 「お前は——今でも設計しているのか。この会話も」


 「……分かりません」九条が静かに言った。「自分のことは、観察できないので」


 「分からない、とよく言うな」


 「自分のことだけは、本当に分からない。それだけは、嘘ではありません」


 真壁はバックミラーから目を離した。


 前を見た。山道が続いていた。


 九条の言葉が、本当か嘘か——最後まで、分からなかった。


 分からないまま、山を下りた。



 署に着いた。


 九条を取調室に入れた。弁護士を呼んだ。


 令状の請求を始めた。その間に、真壁が取調室に入った。



 取調室は白かった。


 蛍光灯の光が、均等に広がっていた。影がなかった。


 九条が向かいに座っていた。穏やかだった。手錠を外してある。逃げない、と分かっていたから。


 「改めて聞きます」と真壁は言った。「山田義雄の最後の夜——何をしましたか」


 「会いに行きました」


 「それだけですか」


 「一緒に温かいものを飲みました。話しました。それだけです」


 「翌朝、死んでいた」


 「はい」


 「因果関係は」


 「ありません」と九条は静かに言った。「私が帰った後、山田さんは一人で死んだ。それだけです」


 「宮本さくらの最後の夜は」


 「マンションの前に立っていました。インターフォンは押しませんでした。ドアも開けませんでした。ただ、立っていました」


 「それだけで、翌朝死んでいた」


 「はい」


 「三島壮介の失踪前夜は」


 「会いに行きました。話しました。それだけです」


 「全員——最後の夜にあなたが会いに行って、翌朝消えるか死んでいる」


 「偶然の一致です」


 「偶然」


 「はい」九条が真壁を見た。「証明できますか」


 真壁は答えなかった。


 できなかった。


 「一つ、聞いていいですか」と九条が言った。


 「聞く」


 「奥様のことを」


 真壁の手が、止まった。


 「奥様は——六年前に亡くなりましたね」


 「関係ない話だ」


 「関係あります」九条が静かに言った。「私にとって」


 「どういう意味だ」


 「奥様に、声を届けていました。三ヶ月間。毎晩」


 「それは——山岡から聞いた」


 「でも——」九条が少し間を置いた。「奥様が亡くなった夜のことを、あなたは正確に覚えていますか」


 真壁は九条を見た。「何が言いたい」


 「覚えていますか、と聞いています」


 「……覚えている」


 「全部、覚えていますか」


 真壁は答えなかった。


 全部。


 全部、覚えているか。


 覚えていない部分が——あった。


 空白があった。あの夜の空白が。六年間、そこだけが抜け落ちていた。


 「……何が言いたいんですか」と真壁は言った。


 「あなたの奥様は——最後の夜、何と言いましたか」


 「まだなかにいる、と言った」


 「その言葉を聞いたとき、あなたはどう思いましたか」


 「……意味が分からなかった」


 「意味が分からなかった、だけですか」


 真壁は九条を見た。


 九条が真壁を見ていた。


 その目が——読んでいた。真壁の「なか」を。


 「何かを、感じませんでしたか」


 「……」


 「奥様が、あなたではない誰かに、見つけてもらっている、と感じませんでしたか」


 部屋が静かになった。


 蛍光灯の音がした。


 真壁は手帳を閉じた。「関係ない話だ」


 「関係あります」九条がまた言った。「あなたが今、私を追っている理由と——深く関係している」


 「私が追っているのは、お前が人を殺したからだ」


 「殺した、とは言っていません」


 「やった」


 「証明できません」


 「でも——やった」


 九条が少し間を置いた。「あなたも——やりましたか」


 真壁の体が、固まった。


 「何の話だ」


 「奥様の最後の夜の、空白の話です」


 「……」


 「空白がある、と顔に書いてあります。六年間、そこだけ抜け落ちている。それは——なぜだと思いますか」


 「出ていけ」と真壁は言った。


 「まだ取調べ中では」


 「弁護士を呼べ。今日はここまでだ」


 九条が立ち上がった。椅子を引いた。音がした。


 ドアに向かう前に——振り返った。


 「真壁さん」


 「何だ」


 「私とあなたは——似ています」


 「似ていない」


 「孤独だった。見つけてほしかった。でも見つけてもらえなかった。その夜に——何かをした」九条が静かに言った。「私も。あなたも」


 「出ていけ」


 「違いは——私は書かなかった。あなたは——忘れた」


 ドアが閉まった。


 取調室に、真壁一人が残った。


 蛍光灯の音がした。


 影のない部屋に、一人で座っていた。


 九条の言葉が、頭の中で鳴り続けた。


 「私も。あなたも」


 「私は書かなかった。あなたは——忘れた」


 あの夜の空白が——今夜、少し大きくなった気がした。


 空白の縁が、少しだけ——輪郭を持ち始めた気がした。


 真壁は手帳を開いた。


 今日のページ。


 書こうとした。


 ペンが、止まった。


 何も書けなかった。


 手帳を閉じた。



 松田が来た。「どこまで行ける」


 「分かりません」と真壁は言った。「でも——時間を使います。その間に田中を追います。その間に証拠を固めます」


 「固まるか」


 「……分かりません」


 松田が煙草に火をつけた。「正直だな」


 「正直に言うしかない」


 「そうだな」松田が煙を吐いた。「やれるだけやれ」


 「はい」


 「お前の勘は——今回も正しかった」


 「でも証明できていない」


 「それが現実だ」松田が言った。「おかしいが、それが現実だ」


 真壁は頷いた。


 おかしい。でもそれが現実だ。


 その言葉が——今夜の全部だった。



 夜、相馬が来た。


 「令状は——難しいです。裁判官に見せましたが、ノートの記述だけでは根拠不十分と」


 「そうか」


 「課長。九条を——釈放しなければならないかもしれません」


 真壁は答えなかった。


 「任意同行の限界があります。令状が取れなければ、明日の朝までには」


 「分かっている」


 「……本当に、おかしい」相馬が言った。「あのノートを読めば誰でも分かる。でも証明できない。そんなことが——」


 「ある」と真壁は言った。「それが現実だ」


 相馬が拳を握った。「悔しいです」


 「俺も悔しい」


 「課長は——悔しそうに見えない」


 「悔しい。でも——妻が最後に幸せだったことが、否定できない。そこで止まっている。止まったまま、動いている」


 相馬が真壁を見た。「それは——九条の設計じゃないですか」


 真壁は少し間を置いた。「……そうかもしれない。でも——感じていることは本物だ」


 「本物でも——九条が作ったものなら」


 「作られた感覚でも、感じた事実は本物だ」


 相馬が黙った。


 「それを——九条自身が言っていた。俺は否定できない。否定すると、妻の最後の時間を否定することになる」


 「……辛いですね」


 「辛い」と真壁は言った。「でも動く」


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


九条玲司 個人記録(続き)


██年██月██日


 真壁恒一に見つけてもらえた。


 廃病院で。ノートを読まれた。全部、分かった顔をしていた。


 分かっている。


 でも証明できない。


 「何をしたかは、書かない」——その一行が、全てを守る。


 書かれていないことは、証拠にならない。


 これは——最初から、そういう設計だった。


 真壁に見つけてもらう。でも捕まらない。


 見ていてもらいながら、続ける。


 それが——私の望んでいたことだったのかもしれない。


 自分のことは、分からない。


 でも——今夜、取調室で真壁を見た。


 怒っていた。悔しそうだった。でも——どこかで、止まっていた。


 妻が幸せだったことを、否定できないから。


 その矛盾の中で、止まっていた。


 その顔が——良かった。


 見つけてもらえた顔の次に、私が好きな顔だ。


 分かっているのに、動けない顔。


 真壁恒一は——これからも追ってくる。


 追ってくることが、見ていてくれることだ。


 見ていてくれる人間がいる。


 それで——十分だ。


 まだなかにいる。


 真壁の「なか」に。


 妻の声と一緒に。


 ずっと——なかに。


異常は認められない。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


 翌朝。


 令状が取れなかった。


 九条を釈放した。


 取調室のドアが開いた。九条が廊下に出てきた。


 真壁が廊下で待っていた。


 「釈放します」と真壁は言った。


 「ありがとうございます」と九条は言った。


 「また来る」と真壁は言った。


 「はい」


 「証拠が取れるまで、何度でも来る」


 「はい」九条が微笑んだ。「待っています」


 「待っている、とはどういう意味だ」


 「そのままの意味です」


 九条が歩き始めた。廊下を。署の出口に向かって。


 真壁は見ていた。


 九条の背中を見ていた。


 遠くなった。


 角を曲がった。


 見えなくなった。


 見えなくなってから——真壁は動けなかった。


 廊下に立ったまま、動けなかった。


 相馬が来た。「課長」


 「……分かっている」


 「また来ます。九条は——また誰かに近づきます」


 「分かっている」


 「止められなかった」


 「今回は。でも——次は止める」


 「次も、証拠が取れないかもしれない」


 「それでも止める」


 相馬が真壁を見た。「どうやって」


 真壁は少し間を置いた。「分からない。でも——追い続ける。それしかできないから」


 相馬が頷いた。


 「……一緒に追います」


 「余計なことを言うな」


 「余計じゃないです」


 廊下が静かだった。九条がいなくなった廊下が。


 「まだなかにいる」が鳴った。


 今夜の声は——九条だった。


 釈放した。でもまだ、なかにいた。


 まだ——なかにいる。


 それが——今夜の、一番怖いことだった。



 夜、真壁は帰宅した。


 結菜が待っていた。


 「遅かったね」


 「ああ」


 「どうだった」


 「……釈放した」


 結菜が少し間を置いた。「捕まえられなかった?」


 「証拠が足りなかった」


 「そっか」結菜が真壁を見た。「悔しそうじゃないね」


 「悔しい」


 「顔が、そうじゃない」


 「……止まっているところがある。悔しいのに、止まっているところが」


 「どこで止まってるの」


 「お母さんのことだ」


 結菜が静かになった。「どういうこと」


 「九条が——お母さんの最後の時間に関わっていた。それは許せない。でも——お母さんが幸せだったことを、否定できない。そこで止まっている」


 結菜がしばらく黙った。


 「……そっか」と結菜は言った。「それは——止まって当然だよ」


 「当然か」


 「当然だよ。悔しいのと、お母さんが幸せだったことが、両方本当なんでしょ。どっちかを消せないなら、両方抱えるしかないじゃん」


 「両方抱えたまま、動けるか」


 「動けるよ」結菜が言った。「だって今日、帰ってきたじゃん」


 帰ってきた。


 「……そうだな」


 「ご飯食べた?」


 「食べていない」


 「じゃあ食べよ。私も食べてない」


 二人で台所に立った。結菜が冷蔵庫を開けた。何かを取り出した。真壁はそれを見ていた。


 普通の夜だった。


 九条が釈放された夜なのに。まだどこかにいる夜なのに。


 結菜が隣にいた。


 それだけが——今夜の、確かなことだった。



 夕食を食べながら、結菜が言った。


 「田中さんから、連絡が来なくなった」


 「知っている。田中は動けなくなった」


 「九条先生が捕まったから?」


 「一時的に。また動くかもしれない」


 「田中さんは——本当に計算だけで動いてたのかな」


 「なぜだ」


 「なんか、途中から、本当に気にしてくれてる感じがしてたから。最初は違和感あったけど、途中から——本物になってった気がして」


 「九条も、同じことを言っていた」


 「え、九条先生が?」


 「田中は途中から、自分の意志が混ざり始めた、と」


 結菜が少し考えた。「じゃあ——田中さんの気持ちは、本物だったのかな。最後は」


 「分からない」


 「でも——本物だったかもしれない」


 「そうかもしれない」


 結菜が箸を置いた。「なんか、全部が——本物とそうじゃないものが混ざってて、どこで線を引けばいいか分からなくなってきた」


 「俺も分からない」


 「お父さんでも分からないの」


 「分からない。でも——感じたことは本物だ、とは思っている」


 「田中さんへの気持ちも?」


 「お前が感じたことは、本物だ」


 結菜が少し黙った。「そっか」


 「それを作り出したのが誰であれ、お前の中から出てきたものだから」


 「……うん」


 夕食が終わった。皿を洗った。結菜が自分の部屋に戻った。


 「おやすみ、お父さん」


 「おやすみ」


 ドアが閉まった。


 真壁は一人になった。


 リビングで、コーヒーを飲んだ。


 苦かった。


 ICレコーダーを取り出した。机の上に置いた。


 再生しなかった。


 ただ、置いた。


 そこにある、という事実だけが——今夜は十分だった。



 深夜。


 廊下で音がした。


 今夜は——確認しなかった。


 結菜かもしれなかった。別の何かかもしれなかった。


 どちらでも——まだなかにいる。


 結菜も。妻の声も。九条も。


 全部が、まだなかにあった。


 「まだなかにいる」が鳴った。


 今夜の声は——複数だった。全部が混ざっていた。


 混ざったまま——どれが本物か分からなかった。


 分からなくていい、と思った。


 全部が、なかにある。それだけだった。


 真壁は目を閉じた。


 九条は今夜——どこかにいる。


 まだ動いているかもしれない。


 また誰かに声を届けているかもしれない。


 でも——証拠がなければ、動かせない。


 動かせないまま、見ていることしかできない。


 見ていることが——今の、全部だった。


 「次は止める」と言った。


 止められるかどうか、分からなかった。


 でも——追い続ける。


 それだけが、今の真壁にできることだった。


 目を閉じた。


 眠れるかどうか、分からなかった。


 廊下でまた音がした。


 今夜は——音がしても、怖くなかった。


 まだなかにいる。


 それだけだった。


 音がするたびに——まだいる、と思った。


 まだいる。


 それが——今夜だけは、支えだった。


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