第九話「廃病院」
廃病院は、山の中にあった。
舗装されていない道を、三十分近く走った。木が深くなった。光が少なくなった。道が細くなった。最後は車を降りて歩いた。九条が先を歩いた。迷わなかった。来たことがある歩き方だった。
相馬が真壁の隣を歩いた。黙っていた。
「来たことがあるんですね」と相馬が九条に言った。
「何度か」と九条が答えた。振り返らなかった。
木の間から、建物が見えた。二階建て。白かったはずの壁が、灰色になっていた。窓が割れていた。蔦が這っていた。でも——建物の形は崩れていなかった。三十年以上経っているのに、崩れていなかった。
真壁は建物を見ながら、頭の中で並べていた。
山田義雄。第四橋の下。死亡推定時刻の前後、遺体から四メートルの場所に、誰かが長時間立っていた踏み跡。
宮本さくら。自宅マンション。死亡前夜、エントランスの防犯カメラに不審な人影。〇・三秒で消えた。
三島壮介。失踪前夜、携帯の位置情報が一時間だけ動いた。動いた先の記録が、途切れている。
全員、最後の夜に——誰かがいた。
その誰かが誰なのか。真壁には分かっていた。
でも証明できなかった。
*
中は暗かった。
懐中電灯をつけた。三本の光が廊下に伸びた。九条が前を歩いた。迷わなかった。
においがした。湿った木のにおい。黴のにおい。古い紙のにおい。それと——もう一つ。
何の臭いか、すぐには言葉にならなかった。でも体が知っていた。現場で何度も嗅いだ臭いだった。
「においがしますね」と相馬が小声で言った。
「分かっている」と真壁は言った。
九条は何も言わなかった。前を歩き続けた。
*
二階の廊下の奥、一室だけドアが閉まっている部屋があった。
九条がそこへ向かった。ドアの前に立った。
真壁が先に手をかけた。「俺が開ける」
九条が手を引いた。「どうぞ」
ドアを開けた。
*
部屋は小さかった。
机が一つ。その上にICレコーダーが置いてあった。埃の中で、そこだけ拭われていた。
そして——もう一つ。
机の横に、古いノートが置いてあった。
真壁はICレコーダーより先に、ノートを手に取った。
表紙には何も書いていなかった。
開いた。
⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿
九条玲司 個人記録(廃病院保管)
██年██月██日
山田義雄。六十一歳。第四橋の下。四年間、誰にも見つけられなかった男。
三ヶ月間、声を届けた。毎晩電話した。話を聞いた。「まだいるよ」と言った。「見つけたよ」と言った。
山田さんは笑うようになった。少しずつ、笑うようになった。
最後の夜、会いに行った。
橋の下に座っていた。寒かった。でも温かいものを持っていった。二人で飲んだ。話した。
「見つけてもらえた」と山田さんは言った。
その顔が——良かった。
ずっと見ていたかった。
でも顔は、時間とともに変わる。明日になれば、また孤独に戻る。また暗くなる。見つけてもらえた、という感覚は——薄れる。
だから。
その顔のまま、終わらせた。
何をしたかは、書かない。
翌朝、あの顔だった。口角が上がっていた。見つけてもらえた顔のまま、終わっていた。
それで——良かった。
異常は認められない。
⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿
真壁の手が止まった。
「何をしたかは、書かない」
その一行が、頭の中で鳴り続けた。
次のページを開いた。
⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿
██年██月██日
宮本さくら。三十八歳。シングルマザー。八歳の息子がいた。
二ヶ月間、録音を届けた。毎晩、就寝前に再生されるように設計した。「まだここにいるから」「一人じゃないよ」。
さくらさんは明るくなった。職場でも変わったと言われるようになった。息子のために朝食を三人分作るようになった。
一度だけ、連絡を絶った。
三日間、声を届けなかった。
三日後、さくらさんから連絡が来た。「また来てくれた」と言った。声が震えていた。
その震えが——良かった。
最後の夜、会いに行った。
マンションの前に立った。電気がついていた。カーテン越しに影が見えた。
インターフォンは押さなかった。
ドアも開けなかった。
ただ、立っていた。
さくらさんは気づいた。気づいて——分かった。来てくれた、と思った。
それだけで——良かった。
翌朝、息子が通報した。
「お母さんが起きない」
あの顔だった。
何をしたかは、書かない。
異常は認められない。
⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿
相馬が真壁の隣に来た。ページを読んでいた。黙っていた。読み終えて、また黙っていた。
「課長」
「分かっている」
「これは——」
「証拠だ」と真壁は言った。「でも——何をしたかが書いていない」
「本人の自白として使えませんか」
「『見つけてもらえた顔のまま終わらせた』——これが何を意味するか、証明できるか」
相馬が黙った。
「『立っていただけ』と言われれば終わる。『気づいてもらっただけ』と言われれば終わる。直接の死因との因果が証明できない」
「……でも」
「でも、俺には分かる」と真壁は言った。「お前にも分かる。このノートを読んだ全員に分かる。でも——裁判では使えない」
相馬が拳を握った。「おかしい」
「おかしい。でもそれが現実だ」
*
真壁は九条を見た。
九条は部屋の隅に立っていた。窓の光を背に受けて。穏やかだった。
「読みましたか」と九条が言った。
「読んだ」
「全部、書いてあります」
「何をしたかは、書いていない」
「はい」九条が静かに言った。「書く必要がないので」
「なぜ」
「書かなくても——あなたには分かるから」
真壁は九条を見た。「俺に分かることが、お前の目的か」
「目的の一つです」
「見つけてほしかったのか。俺に」
九条が少し間を置いた。「……そうかもしれません」
「それだけのために、人を殺したのか」
「殺した、とは言っていません」
「何をしたかは、書かない——と書いた」
「はい」
「でも——やった」
「……」
九条が黙った。否定しなかった。肯定もしなかった。
ただ、黙った。
その沈黙が——答えだった。
「逮捕する」と真壁は言った。
「根拠は」と九条が静かに言った。
「このノートだ」
「『見つけてもらえた顔のまま終わらせた』——これが殺人の証拠になりますか」
真壁は答えられなかった。
「『立っていただけです』と私が言えば、それ以上の証明ができますか」
「……できない」
「では」
「でも——逮捕する」と真壁は言った。「証拠が固まるまで、拘束する。令状を取る。時間をかけて、証拠を集める」
九条が少し考えた。「……そうですか」
抵抗しなかった。
「それでいいんですか」と真壁は言った。「逮捕されて」
「いいです」と九条は言った。「あなたに見つけてもらえたので」
「見つけてもらえた」
「はい。ずっと——見つけてほしかった。あなたに」
真壁はその言葉を聞いた。
「それが——お前の動機か」
「動機の一つです」九条が穏やかに言った。「孤独な人間を見つけることと、あなたに見つけてもらうことが——私の中で、ずっと重なっていた」
「人を殺してまで」
「殺したとは言っていません」
「でも——やった」
九条が沈黙した。
その沈黙の向こうに——答えがあった。読者には見えていた。でも真壁には、永遠に証明できない答えが。
*
相馬が九条に手錠をかけた。
九条は抵抗しなかった。手を差し出した。
「令状なしでは」と相馬が真壁に小声で言った。
「任意同行だ。署に来てもらう。令状はその間に取る」
「証拠が固まるかどうか」
「固まらなくても——時間を使う。その間に田中を追う。九条が動けない時間を作る」
相馬が頷いた。
「行きましょう」と九条が言った。穏やかだった。まるで、自分がお願いしたことが叶ったみたいな顔だった。
⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿
FILE 28 現場記録
場所:旧○○療養院 二階個室
記録日時:██月██日 14:30
担当:相馬涼介
発見物①:
ICレコーダー一台。
「真壁小春(真壁恒一の妻・故人)」と思われる声を含む。
その他、宮本さくらと酷似した声を確認。
発見物②:
手書きノート一冊。九条玲司の自筆と思われる。
被害者ごとの「記録」が書かれている。
全員に共通する記述:「何をしたかは、書かない」
捜査上の問題:
ノートの記述は、直接の殺意・殺害行為を示していない。
「終わらせた」「あの顔だった」——何をしたかが書かれていない。
本人は「立っていただけ」「声を届けただけ」と主張できる。
死因との因果関係:証明不可能。
逮捕:任意同行の形で実施。令状請求中。
備考(相馬個人):
このノートを読めば、誰でも分かる。
九条がやった。
でも証明できない。
「何をしたかは、書かない」という一行が——全てを守っている。
書かれていないことが、証拠にならない。
おかしい。
でもそれが——現実だ。
異常は認められない。
⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿
廃病院を出た。
外に出ると、光が戻った。木の間から空が見えた。青かった。
九条が先を歩いた。手錠をかけられたまま、穏やかに歩いた。
「一つだけ、聞かせてください」と九条が言った。
「聞く」
「奥様の声を——聞けましたか」
「聞いた」
「良かった」九条が言った。本当に良かった、という声だった。「奥様は——最後まで、幸せでした。見つけてもらえた、と感じながら」
「お前がそれを作った」
「はい」
「妻を騙した」
「騙した、とは思っていません。本物の感覚をお届けした、と思っています」
「本物か偽物かを決める権利は——お前にはない」
「そうですね」九条が頷いた。「でも——奥様は幸せでした。それだけは、確かです」
真壁は答えなかった。
答えられなかった。
妻が幸せだったことを——否定できなかった。
否定したくなかった。
それが——一番、辛かった。
*
車に乗った。相馬が運転した。九条が後部座席に座った。真壁が助手席に座った。
山道を下りた。誰も喋らなかった。
しばらくして、九条が後部座席から言った。
「真壁さん」
「何だ」
「結菜さんのことを、大切にしてください」
「……お前に言われる必要はない」
「そうですね。でも——言いたかった」
「なぜだ」
九条が少し間を置いた。「結菜さんは——田中との関係で、何かが開きました。開いたものは、九条がいなくなっても残ります。良いものが開いたと思っています」
「良いものかどうかを——お前が決めるな」
「そうですね」
沈黙が続いた。
「一つだけ」と九条がまた言った。
「まだあるのか」
「田中については——私が動けなくなれば、田中も止まります。少なくとも、しばらくは」
「しばらく、とは」
「私が動けない間は。でも——田中は私ではない。田中自身の意志で動くこともある」
「どういう意味だ」
「田中は——最初は私の設計で動いていました。でも途中から、自分の意志が混ざり始めた。結菜さんのことを、本当に気にかけるようになった部分がある」
「それは——お前の設計か」
「最初は。でも今は——分かりません」
真壁は九条を見た。バックミラーに、九条の顔が映っていた。穏やかだった。
「お前は——今でも設計しているのか。この会話も」
「……分かりません」九条が静かに言った。「自分のことは、観察できないので」
「分からない、とよく言うな」
「自分のことだけは、本当に分からない。それだけは、嘘ではありません」
真壁はバックミラーから目を離した。
前を見た。山道が続いていた。
九条の言葉が、本当か嘘か——最後まで、分からなかった。
分からないまま、山を下りた。
*
署に着いた。
九条を取調室に入れた。弁護士を呼んだ。
令状の請求を始めた。その間に、真壁が取調室に入った。
*
取調室は白かった。
蛍光灯の光が、均等に広がっていた。影がなかった。
九条が向かいに座っていた。穏やかだった。手錠を外してある。逃げない、と分かっていたから。
「改めて聞きます」と真壁は言った。「山田義雄の最後の夜——何をしましたか」
「会いに行きました」
「それだけですか」
「一緒に温かいものを飲みました。話しました。それだけです」
「翌朝、死んでいた」
「はい」
「因果関係は」
「ありません」と九条は静かに言った。「私が帰った後、山田さんは一人で死んだ。それだけです」
「宮本さくらの最後の夜は」
「マンションの前に立っていました。インターフォンは押しませんでした。ドアも開けませんでした。ただ、立っていました」
「それだけで、翌朝死んでいた」
「はい」
「三島壮介の失踪前夜は」
「会いに行きました。話しました。それだけです」
「全員——最後の夜にあなたが会いに行って、翌朝消えるか死んでいる」
「偶然の一致です」
「偶然」
「はい」九条が真壁を見た。「証明できますか」
真壁は答えなかった。
できなかった。
「一つ、聞いていいですか」と九条が言った。
「聞く」
「奥様のことを」
真壁の手が、止まった。
「奥様は——六年前に亡くなりましたね」
「関係ない話だ」
「関係あります」九条が静かに言った。「私にとって」
「どういう意味だ」
「奥様に、声を届けていました。三ヶ月間。毎晩」
「それは——山岡から聞いた」
「でも——」九条が少し間を置いた。「奥様が亡くなった夜のことを、あなたは正確に覚えていますか」
真壁は九条を見た。「何が言いたい」
「覚えていますか、と聞いています」
「……覚えている」
「全部、覚えていますか」
真壁は答えなかった。
全部。
全部、覚えているか。
覚えていない部分が——あった。
空白があった。あの夜の空白が。六年間、そこだけが抜け落ちていた。
「……何が言いたいんですか」と真壁は言った。
「あなたの奥様は——最後の夜、何と言いましたか」
「まだなかにいる、と言った」
「その言葉を聞いたとき、あなたはどう思いましたか」
「……意味が分からなかった」
「意味が分からなかった、だけですか」
真壁は九条を見た。
九条が真壁を見ていた。
その目が——読んでいた。真壁の「なか」を。
「何かを、感じませんでしたか」
「……」
「奥様が、あなたではない誰かに、見つけてもらっている、と感じませんでしたか」
部屋が静かになった。
蛍光灯の音がした。
真壁は手帳を閉じた。「関係ない話だ」
「関係あります」九条がまた言った。「あなたが今、私を追っている理由と——深く関係している」
「私が追っているのは、お前が人を殺したからだ」
「殺した、とは言っていません」
「やった」
「証明できません」
「でも——やった」
九条が少し間を置いた。「あなたも——やりましたか」
真壁の体が、固まった。
「何の話だ」
「奥様の最後の夜の、空白の話です」
「……」
「空白がある、と顔に書いてあります。六年間、そこだけ抜け落ちている。それは——なぜだと思いますか」
「出ていけ」と真壁は言った。
「まだ取調べ中では」
「弁護士を呼べ。今日はここまでだ」
九条が立ち上がった。椅子を引いた。音がした。
ドアに向かう前に——振り返った。
「真壁さん」
「何だ」
「私とあなたは——似ています」
「似ていない」
「孤独だった。見つけてほしかった。でも見つけてもらえなかった。その夜に——何かをした」九条が静かに言った。「私も。あなたも」
「出ていけ」
「違いは——私は書かなかった。あなたは——忘れた」
ドアが閉まった。
取調室に、真壁一人が残った。
蛍光灯の音がした。
影のない部屋に、一人で座っていた。
九条の言葉が、頭の中で鳴り続けた。
「私も。あなたも」
「私は書かなかった。あなたは——忘れた」
あの夜の空白が——今夜、少し大きくなった気がした。
空白の縁が、少しだけ——輪郭を持ち始めた気がした。
真壁は手帳を開いた。
今日のページ。
書こうとした。
ペンが、止まった。
何も書けなかった。
手帳を閉じた。
*
松田が来た。「どこまで行ける」
「分かりません」と真壁は言った。「でも——時間を使います。その間に田中を追います。その間に証拠を固めます」
「固まるか」
「……分かりません」
松田が煙草に火をつけた。「正直だな」
「正直に言うしかない」
「そうだな」松田が煙を吐いた。「やれるだけやれ」
「はい」
「お前の勘は——今回も正しかった」
「でも証明できていない」
「それが現実だ」松田が言った。「おかしいが、それが現実だ」
真壁は頷いた。
おかしい。でもそれが現実だ。
その言葉が——今夜の全部だった。
*
夜、相馬が来た。
「令状は——難しいです。裁判官に見せましたが、ノートの記述だけでは根拠不十分と」
「そうか」
「課長。九条を——釈放しなければならないかもしれません」
真壁は答えなかった。
「任意同行の限界があります。令状が取れなければ、明日の朝までには」
「分かっている」
「……本当に、おかしい」相馬が言った。「あのノートを読めば誰でも分かる。でも証明できない。そんなことが——」
「ある」と真壁は言った。「それが現実だ」
相馬が拳を握った。「悔しいです」
「俺も悔しい」
「課長は——悔しそうに見えない」
「悔しい。でも——妻が最後に幸せだったことが、否定できない。そこで止まっている。止まったまま、動いている」
相馬が真壁を見た。「それは——九条の設計じゃないですか」
真壁は少し間を置いた。「……そうかもしれない。でも——感じていることは本物だ」
「本物でも——九条が作ったものなら」
「作られた感覚でも、感じた事実は本物だ」
相馬が黙った。
「それを——九条自身が言っていた。俺は否定できない。否定すると、妻の最後の時間を否定することになる」
「……辛いですね」
「辛い」と真壁は言った。「でも動く」
⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿
九条玲司 個人記録(続き)
██年██月██日
真壁恒一に見つけてもらえた。
廃病院で。ノートを読まれた。全部、分かった顔をしていた。
分かっている。
でも証明できない。
「何をしたかは、書かない」——その一行が、全てを守る。
書かれていないことは、証拠にならない。
これは——最初から、そういう設計だった。
真壁に見つけてもらう。でも捕まらない。
見ていてもらいながら、続ける。
それが——私の望んでいたことだったのかもしれない。
自分のことは、分からない。
でも——今夜、取調室で真壁を見た。
怒っていた。悔しそうだった。でも——どこかで、止まっていた。
妻が幸せだったことを、否定できないから。
その矛盾の中で、止まっていた。
その顔が——良かった。
見つけてもらえた顔の次に、私が好きな顔だ。
分かっているのに、動けない顔。
真壁恒一は——これからも追ってくる。
追ってくることが、見ていてくれることだ。
見ていてくれる人間がいる。
それで——十分だ。
まだなかにいる。
真壁の「なか」に。
妻の声と一緒に。
ずっと——なかに。
異常は認められない。
⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿
翌朝。
令状が取れなかった。
九条を釈放した。
取調室のドアが開いた。九条が廊下に出てきた。
真壁が廊下で待っていた。
「釈放します」と真壁は言った。
「ありがとうございます」と九条は言った。
「また来る」と真壁は言った。
「はい」
「証拠が取れるまで、何度でも来る」
「はい」九条が微笑んだ。「待っています」
「待っている、とはどういう意味だ」
「そのままの意味です」
九条が歩き始めた。廊下を。署の出口に向かって。
真壁は見ていた。
九条の背中を見ていた。
遠くなった。
角を曲がった。
見えなくなった。
見えなくなってから——真壁は動けなかった。
廊下に立ったまま、動けなかった。
相馬が来た。「課長」
「……分かっている」
「また来ます。九条は——また誰かに近づきます」
「分かっている」
「止められなかった」
「今回は。でも——次は止める」
「次も、証拠が取れないかもしれない」
「それでも止める」
相馬が真壁を見た。「どうやって」
真壁は少し間を置いた。「分からない。でも——追い続ける。それしかできないから」
相馬が頷いた。
「……一緒に追います」
「余計なことを言うな」
「余計じゃないです」
廊下が静かだった。九条がいなくなった廊下が。
「まだなかにいる」が鳴った。
今夜の声は——九条だった。
釈放した。でもまだ、なかにいた。
まだ——なかにいる。
それが——今夜の、一番怖いことだった。
*
夜、真壁は帰宅した。
結菜が待っていた。
「遅かったね」
「ああ」
「どうだった」
「……釈放した」
結菜が少し間を置いた。「捕まえられなかった?」
「証拠が足りなかった」
「そっか」結菜が真壁を見た。「悔しそうじゃないね」
「悔しい」
「顔が、そうじゃない」
「……止まっているところがある。悔しいのに、止まっているところが」
「どこで止まってるの」
「お母さんのことだ」
結菜が静かになった。「どういうこと」
「九条が——お母さんの最後の時間に関わっていた。それは許せない。でも——お母さんが幸せだったことを、否定できない。そこで止まっている」
結菜がしばらく黙った。
「……そっか」と結菜は言った。「それは——止まって当然だよ」
「当然か」
「当然だよ。悔しいのと、お母さんが幸せだったことが、両方本当なんでしょ。どっちかを消せないなら、両方抱えるしかないじゃん」
「両方抱えたまま、動けるか」
「動けるよ」結菜が言った。「だって今日、帰ってきたじゃん」
帰ってきた。
「……そうだな」
「ご飯食べた?」
「食べていない」
「じゃあ食べよ。私も食べてない」
二人で台所に立った。結菜が冷蔵庫を開けた。何かを取り出した。真壁はそれを見ていた。
普通の夜だった。
九条が釈放された夜なのに。まだどこかにいる夜なのに。
結菜が隣にいた。
それだけが——今夜の、確かなことだった。
*
夕食を食べながら、結菜が言った。
「田中さんから、連絡が来なくなった」
「知っている。田中は動けなくなった」
「九条先生が捕まったから?」
「一時的に。また動くかもしれない」
「田中さんは——本当に計算だけで動いてたのかな」
「なぜだ」
「なんか、途中から、本当に気にしてくれてる感じがしてたから。最初は違和感あったけど、途中から——本物になってった気がして」
「九条も、同じことを言っていた」
「え、九条先生が?」
「田中は途中から、自分の意志が混ざり始めた、と」
結菜が少し考えた。「じゃあ——田中さんの気持ちは、本物だったのかな。最後は」
「分からない」
「でも——本物だったかもしれない」
「そうかもしれない」
結菜が箸を置いた。「なんか、全部が——本物とそうじゃないものが混ざってて、どこで線を引けばいいか分からなくなってきた」
「俺も分からない」
「お父さんでも分からないの」
「分からない。でも——感じたことは本物だ、とは思っている」
「田中さんへの気持ちも?」
「お前が感じたことは、本物だ」
結菜が少し黙った。「そっか」
「それを作り出したのが誰であれ、お前の中から出てきたものだから」
「……うん」
夕食が終わった。皿を洗った。結菜が自分の部屋に戻った。
「おやすみ、お父さん」
「おやすみ」
ドアが閉まった。
真壁は一人になった。
リビングで、コーヒーを飲んだ。
苦かった。
ICレコーダーを取り出した。机の上に置いた。
再生しなかった。
ただ、置いた。
そこにある、という事実だけが——今夜は十分だった。
*
深夜。
廊下で音がした。
今夜は——確認しなかった。
結菜かもしれなかった。別の何かかもしれなかった。
どちらでも——まだなかにいる。
結菜も。妻の声も。九条も。
全部が、まだなかにあった。
「まだなかにいる」が鳴った。
今夜の声は——複数だった。全部が混ざっていた。
混ざったまま——どれが本物か分からなかった。
分からなくていい、と思った。
全部が、なかにある。それだけだった。
真壁は目を閉じた。
九条は今夜——どこかにいる。
まだ動いているかもしれない。
また誰かに声を届けているかもしれない。
でも——証拠がなければ、動かせない。
動かせないまま、見ていることしかできない。
見ていることが——今の、全部だった。
「次は止める」と言った。
止められるかどうか、分からなかった。
でも——追い続ける。
それだけが、今の真壁にできることだった。
目を閉じた。
眠れるかどうか、分からなかった。
廊下でまた音がした。
今夜は——音がしても、怖くなかった。
まだなかにいる。
それだけだった。
音がするたびに——まだいる、と思った。
まだいる。
それが——今夜だけは、支えだった。




