第9話 鏡の向こう
園田佐知子は、美容室のシャッターを半分だけ上げて、向かいの青果店へ声をかけた。
「明日の段ボール、置いといてくれる? 濡れてないやつがええんです」
「何箱いるの」
「五つ。いっぺんに運べんから、あとで取りに来ます」
青果店の主人は、また店じまいの話かという顔をした。佐知子は聞こえないふりでシャッターを最後まで上げ、ガラス戸の内側に貼った閉店の案内を指で伸ばした。
二十八年続けた店を週末で閉める。春に建物の更新の話が出て、ひとりで計算した結果だった。膝を痛めてからシャンプー台に立ち続けるのがつらくなり、娘の家にも空いた部屋がある。娘に言い出される前に、佐知子が電話して決めた。
最初の客は、いつものように十分遅れて来た。七十を過ぎた常連で、今日は襟足を短くと言う。
「前もそう頼まれて、帰りに寒いっておっしゃいましたよ」
「あれはあんたが切りすぎたんや」
「夏も冬も同じ長さにしたら、そうなりますわ」
「今日は暑いからええねん」
佐知子は客の首に布を巻き、鏡で後ろの形を見せてから鋏を入れた。以前なら客の話を聞きながらでも刃を動かせたが、膝が痛む日は、鏡の下の足置きへ自分の片足を載せ替えなくてはならない。そのたび客が、まだ続けられるやろうと言う。
「新しい店、どこになるん?」
「店はやめます。今月いっぱいで」
「娘さんのとこ行くんやろ。孫の世話でもするんか」
「孫は学校へ行っとります。私はしばらく昼寝したい」
「どうせ向こうでも、人の髪切るで」
「そこまで言うなら、今日の料金、倍にしときましょうか」
客はようやく口を閉じた。耳の上を揃えるころにはまた別の噂話が始まり、佐知子は黙って櫛の向きを変えた。
閉店を知らせてから、皆が店をやめる理由を当てようとする。娘が迎えに来るから、膝が悪いから、賃料が上がるから。どれもまるきり外れではないが、理由を一つ答えると、その一つだけを解決する提案が返ってくる。それが面倒で、最近は「決めました」とだけ言っている。
昼前、娘から電話が来た。引っ越しの荷物をどれだけ持ってくるつもりなのか、車の大きさを決めたいという。
「私の荷物は段ボール十箱くらい。店の椅子は置いていく」
『小さい鏡も? うち、廊下狭いよ』
「鏡は一枚持っていく。壁に掛けんかったら、部屋に置けるやろ」
『お母さん、私の子どもの髪、切ってくれると思ってた』
「本人に訊いてからな。あの子、短いの嫌がるやろ」
娘は、明後日なら荷造りを手伝えると言った。佐知子は大きな器具の運搬は別の業者へ頼むので、車は自分の荷物が積めるもので十分だと答えた。電話を切ってから、店の予約帳に残った客の名前を確かめる。週末まであと六人。急に空いた枠へ、最後だから無料で切ってほしいと電話してきた人の名前は入れなかった。
※
午後、佐知子は予約の合間を縫って診療所へ行った。
立花トキに会うのは半年ぶりだった。冬には店へ緑色のヘアピンが届いた。若いころ、立花家の鏡台から持ち出してはトキに取り上げられたもので、手紙には「捨てるなら自分で捨てなさい」と一行だけ書いてあった。佐知子は捨てるつもりで袋を開け、結局、店の棚へ置きっぱなしにしている。
病室の前で手を洗っていると、川辺がワゴンを押して通りかかった。トキはさっきまで新聞を読んでいたと教えてくれたが、どんな話をしに来たのかは訊かなかった。
「奥さん。起きてはります?」
「その呼び方、まだ変わらんね」
トキは顔を上げ、佐知子が椅子を引くのを見た。床には息子が持ち込んだ新しい室内履きの袋がある。
「康夫さん、帰ってきはったんやね」
「どこで会うたの」
「お茶屋さんで聞いたんです。町の人、よう見てます」
「本人はまだ、自分で帰ってきたつもりでおるんやろね」
佐知子は持ってきた紙袋を開け、店で使っていた小さな手鏡を出した。柄の塗装が剥げ、鏡の縁には細いひびが入っている。
「これ、奥さんのですよね。昔、店を始めたとき借りたままで」
「まだ使うとったんか。柄を直す言うて、あんた何にもせんかったでしょう」
「手元の鏡なら、別にあるんですけどね」
「なら持って帰りなさい。古いものを病室へ増やさんといて」
せっかく持ってきたのに、と佐知子は言いかけたが、紙袋へ戻した。トキは昔から、要らないものは遠慮なく断った。佐知子が学校の進路を相談したときも、働きに出ると決めたときも、「そう」と言ってから必要なお金を封筒へ入れた。
「店、閉めるんやってね」
「今週末に。建物の更新もありますし、膝もあかんし」
「娘さんとこ、住むんか」
「はい。しばらくはのんびりするつもりです」
「それは、ええことや」
あんたが決めたなら、という続きが来るかと思った。トキはテレビの音を一つ下げ、水を飲んでから窓のほうを見た。
「出ていくときも、そう言うてくれはりましたね」
「何を」
「よう頑張ったね、って」
佐知子は手鏡の紙袋を膝へ載せた。高校を出て立花家を離れた日、トキは玄関先までついて来て、荷物が多すぎると文句を言いながらその言葉を口にした。新しい暮らしを楽しみにしていた佐知子は、そのときは笑って返したはずだった。
「足らんかったこと、いろいろあったやろうね」
トキが先に言った。佐知子はどう答えるべきか分からず、紙袋の折り目を押さえた。
「ご飯も食べさせてもろたし、学校も行かせてもろた。店を始めたときだって、お祝いくれはったでしょう」
「そういう話やないんです」
「ほかに何の話があるんです」
トキは答えない。代わりにテレビを消してくれと頼んだ。佐知子はリモコンを取り、黒くなった画面に病室の椅子と自分の上半身が映るのを見た。
「私、夕方に一人予約があるから、もう帰ります」
「髪、切りすぎんようにね」
「それ、いつも言わはりますね」
トキの返事はなかった。佐知子は紙袋を持ち直し、ベッドの横に置かれた新しい室内履きを、足を引っ掛けない位置へ寄せてから病室を出た。
※
夕方の客が帰ったあと、佐知子は店の鏡の前へ座った。
棚には緑色のヘアピンが残っている。留め具を開くとばねが弱っていて、髪を挟んでもすぐ落ちた。子どものころはトキの鏡台にあったものが、いまは店の隅にある。二十八年かけて集めた鋏は、その横の引き出しへ一本ずつ収まっていた。
立花家で暮らした九年間、佐知子は朝になると康夫たちと同じ玄関から学校へ行き、帰れば同じ食卓へ座った。運動会の日は、トキが家にいる者の弁当をまとめて作ってくれた。砂糖の多い卵焼きは苦手だと何度言っても、次の年も甘かった。
学校から渡された家族欄のある用紙には、立花の姓を書くのをためらったことがある。トキに訊けばよかったのかもしれないが、訊いて答えを聞くのが嫌で、欄を埋めるたびに自分で書き方を決めた。
佐知子は机から閉店までの予約帳を取り出した。明日来る人の欄に赤い線を引き、最後のページへ、貸したタオルをまだ返していない客の名前を二人書いた。店を閉める前に、電話を一本ずつ掛ける必要があった。




