第8話 名前を言わない
トキは枕元に新聞を広げ、前日の相撲欄を読んでいた。
「九十歳になっても、負けた力士の言い訳だけはわかりますわ」
透が病室へ入ると、立花トキは眼鏡を外さずに言った。脇の椅子には誰かが買ってきた新しい室内履きが載っている。朝の検温が終わったばかりらしく、川辺が体温計を片づけながら、本人の話せるうちに用事を済ませるよう透へ目配せした。
「今朝は息子さんたちも来てると聞きました」
「二人とも。来てくれるのはありがたいけど、こっちが何でも忘れたと思うとる」
「困ることもありますか」
「そりゃ困ります。テレビの音まで勝手に決めるんやから」
透は丸椅子を引き寄せた。新聞は途中まできちんと読まれていたが、トキは同じ欄を何度も開いている。息を整えるため、行と行のあいだで休んでいるようだった。
「冬にお約束した仕事、まだお考えは変わりませんか」
「変わるなら、あんたを呼びません」
「宛先は、そろそろ聞いておきたいです。ご本人の気持ちが変わらないうちに、行き先だけでも」
トキは新聞を畳むと、すぐには答えなかった。川辺が水差しを新しいものに替えて出ていき、廊下の音が遠くなるのを待っている。
「うちの、あの子です」
「康夫さんか、お兄さんですか」
「名前を言わんと、困るんでしょうね」
「探す範囲が変わります」
「でも、今日は言いたない。あんた、仕事やからって何でも先に片づけようとする」
透には言い返す言葉があった。トキがいつ頼めなくなるか分からず、言葉を受け取れば七日しかない。ただ、今その話を持ち出しても、相手は知ったうえで名前を隠しているのだろう。
「ご家族への連絡だけは、川辺さんと確認してもいいですか」
「そこはもう済んどります。さっき二人で来て、室内履きを置いていきました」
「お気に召さなかったんですか」
「前のがまだ履ける。滑る言うけど、長年履いたら滑る場所も覚えますわ」
透は値札が残った室内履きを見た。濡れた床のある診療所では、息子が買ってきたほうが安全そうだった。だが、トキが今ほしいのは履き物の相談ではなかった。
「夫のときは、あんたのお爺さん、何度も家に来てくれたんです」
「修理に伺った記録が残ってました」
「玄関の戸や、畳や。うちが何も話さん日でも、お茶だけ飲んで帰った」
「俺には、そのやり方が正しかったのか分かりません」
「そう。あんたはあんたのやり方でええんです」
トキは眼鏡を外し、ティッシュで拭いた。二十二年前の夫の言伝を祖父が届けたとき、家の時計が止まっていたのを覚えているという。時計が止まった日と、声を聞いた日が同じだったかどうかまでは曖昧らしい。
「今度は、あの子が先に身構えんようにしたいんです。呼んでもらえば、私が何を言うつもりか、あの子は分かるでしょう」
「呼ばれた理由が分からないまま会うのも、怖い人はいますよ」
「そうなら、そうと言うてくれたらええ」
透は病室を出る前に、家族が夜も付き添う予定だと確認した。トキはもう新聞を開き、今度は取組表の勝敗を指で数えていた。
※
昼前の待合には、ネクタイを結び直している男がいた。透が受付で面会の終了を伝えると、男が立ち上がった。
「榊便利堂の方ですか。立花の次男、康夫です」
「榊です。お母さんから、冬に仕事の予約をいただきまして」
「家の電気を直す話かと思うてました。予定表に名前が書いてあったもんで」
康夫は今朝、兄と交代して実家へ戻るところだった。駅から家、家から診療所へと行き来しており、電話の着信に気づかないことがあるという。
「母さん、何を頼んだんですか」
「ご本人がまだ話したくないとおっしゃってます。俺から勝手にお伝えできなくて」
「母さんらしい。説明を聞こうとすると、逆にこっちの仕事の心配をするんですよ」
康夫は苦笑したが、母の予約内容をそれ以上尋ねなかった。代わりに、家の台所の蛍光灯が一本切れていることを思い出した。梯子はあるものの、器具が古く、買うべき管の種類が分からないらしい。
「それでしたら、午後、空いた時間に見に伺います。器具ごと替える必要があれば、電気屋さんへ回します」
「助かります。母さんが帰ってこられるかは分からんけど、暗いままにしとくのも嫌で」
透は連絡先と家の鍵を康夫本人が持っていることを確認し、午後に玄関で待ち合わせた。康夫は買った缶コーヒーを開けないまま立っており、透を見送ってからようやく椅子へ戻った。
※
午後二時、透は立花家の台所で脚立を立てた。
康夫が照明のスイッチを切り、透は蛍光管を外して型番を確認した。幸い、器具そのものはまだ使える。近所の電器店に在庫があり、透が新しい管を買って戻る間、康夫は棚の上を拭いておいてくれた。
「母さん、何でも吊るしますやろ。輪ゴムも袋も」
「うちの祖父も、釘一本捨てずに缶へ入れてました」
「使うときに限って、欲しい長さがないんですよね」
取り替えた管に明かりがつくと、康夫は同時に戸棚の扉を開けた。蝶番が緩み、右の扉だけが斜めに下がっている。透は別の作業として見積もりを告げ、了承を得てから金具を締め直した。
作業が終わるころ、康夫が布巾で拭いていた写真立てに透の目が止まった。若い女性が、成人式の着物らしい服で立っている。写真の横には、立花夫妻と学生服の男の子二人が並んだ、もっと古い一枚があった。
「娘さんですか」
「いや、昔、家におった子です。母さんがずっと飾ってたんで、片づけずに残してあります」
「ご家族ではない?」
「うちで育ったんですけど、そう簡単には言えんですね」
康夫は額縁の裏に入った埃を指で払った。立花家でその子が暮らしていたのは、康夫たちが学校へ通っていたころまでだという。透がもう少し聞こうとしたとき、康夫の携帯が鳴った。兄から、診療所の面会時間について確認の電話だった。
「すみません、また後で。ああ、引き出し、閉めといてもらえます?」
透は自分が作業に使ったねじ箱だけ片づけ、写真には触れずに台所を出た。トキの言う「あの子」が写真の女性である可能性はある。ただ、写真立て一枚を根拠に、生きている人間の連絡先を息子へ問い詰めることまではできなかった。
帰り際、康夫が次の仕事を頼めるかと訊いた。母の荷物を片づけるようなことになったとき、どこまで自分たちで運ぶか、兄と相談しておきたいという。透は見積もりの前に、残すものに印をつけてほしいと伝えた。
「なんでも持っていってくれると思うてました」
「依頼された物だけです。勝手に捨てたら、立花さんに怒られますから」
「母さんより僕らに怒られますわ」
康夫はその言い方には笑った。玄関まで送ってくれたが、病院へ戻る時刻が近く、あらためて女性の話を聞く時間はなかった。
夜の便利堂で、透は祖父の控え帳を開いた。二十二年前の頁に、依頼者として立花源三、届け先にトキの名がある。言葉を記す欄は、ほかの依頼と同じように空白だった。隣の頁には勝手口の戸車交換の料金が書いてある。
千鶴が翌日の乾物屋の納品票を取りに寄り、机の上の領収書を指で揃えた。
「立花さん、何か進みました?」
「宛先を聞けなかった。あと、蛍光灯と蝶番を直した」
「順番が逆やないですか」
「家の仕事はちゃんと依頼されたからな」
透が台帳を閉じると、千鶴は店の雨戸へ目を向けた。朝と同じ音で、戸ががたついた。
「この戸だけ、誰も依頼してくれないんですね」
千鶴は納品票を鞄へしまい、実家の夕食の時間に間に合うよう帰っていった。




