第7話 予約
半年ほど前、立花トキが榊便利堂へ来たのは、雨戸の修理が一段落した冬の午後だった。
榊透は店先で外した戸車を油に浸していた。山から吹く風は冷たかったが、臥雲町では雪にならない。敷居の外で杖の音が止まり、顔を上げると、トキが買い物袋を片手に立っていた。
「立花さん。勝手口、また引っ掛かりますか」
「するすると動きますよ。あれだけ直しといて、二日で壊れたら怒りますわ」
「よかった。中、どうぞ」
「油の手で座布団を出さんでええ。自分で座れます」
九十歳になるトキは、杖を椅子の横へ立て掛け、袋から細長い封筒を取り出した。薄い茶色の紙に、店の名前と電話番号が書かれている。透が渡した領収書の裏を切って作ったものらしかった。
「言伝の予約をしに来ました」
透は作業台に敷いた新聞紙を折り、戸車を端へ寄せた。修理なら予定表へ書けば済むが、この仕事に予約を入れられるかどうかは本人の状態にもよる。
「川辺さんに頼まれたんですか」
「私が考えたんです。医者の先生には、まだしばらく家で暮らしたいと言うてあります。倒れてから、あんたを探してもらうのは困るでしょう」
「今、何か預かるわけにはいきませんよ」
「そんなこと、知っとります」
トキは湯呑みを出そうとする透を手で制した。昼に医者から水分を取れと言われたばかりだと、鞄から自分の水筒を取り出す。蓋を開ける手が少しもたついても、透には渡さなかった。
「うちの人が亡くなるとき、あんたのお爺さんが来はったんです。覚えてますか」
「二十二年前の控えがあります。俺はまだ子どもでしたけど」
「そうでしょうね。あの人、玄関の建てつけを直したあと、ずうっと居間におった。お茶を出したらおかわりまでして」
夫の源三が亡くなって、トキは祖父の口から夫の声を聞いた。何を言われたかは口にせず、飲み終えた水筒の蓋をきちんと締めた。
「私も最期くらい、自分で決めておきたいんです」
「誰へ伝えたいか、今から決めておくということですか」
「もう決めとります。あんたには、まだ言いません」
「先にわかれば、探す時間が取れますよ」
「早う知らせたら、あの人が先に来てしまう」
透は予定表の裏から白い紙を一枚取り、訪問の連絡先だけ書いてもらった。トキは診療所の川辺に話を通してあり、病室での面会も本人が望んだときに限るという。
「ご家族には?」
「入院の話はしとります。それ以上は、私の口で話すことや」
「ご家族と川辺さんが別の判断をしたら、俺は病室に入れないかもしれません」
「なら、入れるときに来たらええ。それで間に合わんかったら、私が選び損ねたんです」
聞き分けのよい老人を演じているわけではなさそうだった。トキは入院した際の連絡と、息子が町へ戻ってこられる日程を、別々の紙へ控えていた。足取りは遅くても、誰に何を知らせるかは自分で仕切るつもりでいる。
帰り際、トキは自分の封筒を透に渡した。中身は予備の電話番号と、連絡してほしい人を自分で書き直すための白紙だった。金を入れた別の封筒も差し出したが、透が受け取らなかったので、渋々鞄へ戻した。
「ただでやる商売なんて、長持ちせんよ」
「雨戸の修理代はいただきました」
「うちのじゃない。あんたの店の、あれ」
トキが杖で指した先には、開けるたびにガタガタ鳴る便利堂の古い雨戸があった。透は明日直すと言った。トキは、たぶん忘れるだろうと決めつけた顔で戸口を出ていった。
※
沖田宗一郎の飼い犬を葬ってから九日目。便利堂の雨戸は、まだ同じ音を立てていた。
午後の配達を済ませて来た千鶴が、戸を開けるなり顔をしかめた。
「いつ直すんですか、これ。うちの店やったら、お客さんが入る前に直してますよ」
「音だけだし、閉まる」
「音だけって言う人が、お客さんの戸は取り替えるんですよね」
千鶴は乾物屋の配達袋を机の脇へ置き、未送付の請求書を三通取り出した。今日は便利堂の勤務日だが、夕方には家の店へ戻って商品の棚卸しがある。透が草刈りの伝票を探している間に、彼女は宛名と金額の食い違った請求書を一枚、元の束へ差し戻した。
「これ、沖田さんの家の分。草刈りと遺品の作業を一緒に請求しかけてます」
「分けて書いたつもりだった」
「つもりのほう、印刷されませんから」
透が書類を受け取ったとき、机の引き出しから細長い茶封筒が落ちた。冬にトキが持ってきたものだった。千鶴は何も書かれていない裏面を見て、古い見積書の束から外した。
「立花さんの予約、こっちに入れてたんですか」
「日付を変えるかもしれないと思って」
「それなら、変えた日付を書く紙を一枚足せばいいでしょう」
千鶴は薄い封筒を出し、修理の伝票とは別の引き出しへ入れた。預かる言葉の中身も宛先も聞かず、連絡先の紙だけをもう一度確かめる。トキの予約がいつになるか分からないからといって、実家の配達を後回しにはできない。千鶴は母親に交代を頼める日を勤務表の隅へ書き足した。
電話が鳴ったのは、透が二通目の請求書を書き直している最中だった。
『榊くん、川辺です。立花さんのこと、覚えとる?』
「はい。何かありましたか」
『本人が、明日の朝に来てほしいって。今日も相撲の勝敗に文句言うとったけど、長う話せる日が続くとは思えん』
透は受話器を持ち替えた。川辺は病状を必要以上に伝えず、面会できる時間と、本人が希望していることだけを確認した。家族も今夜には顔を揃えるらしい。
「明日の午前なら行けます。公民館の戸車だけ、日を替えてもらいます」
『夜勤にも伝えとく。時間が決まったら、朝もう一度電話して』
電話を切ると、千鶴が予定表を回して見せた。公民館の担当者へ連絡する前に、交換する戸車の型番を訊かれた。部品はもう仕入れてあるので、延期しても困らないと伝えればよさそうだった。
「明日、私、実家のほうが先です。店を開けるなら、午後からにしてもらえます?」
「それでいい。電話の転送だけ頼めるか」
「それなら帰る前に設定します。立花さんのことは、電話があったら透さんに直接」
千鶴は取り消し線を引いた仕事の横に、改めて部品の保管場所を書き込んだ。透はその間にトキの封筒を取り出した。冬に受け取ったときのまま、宛先も言葉も空白だった。
※
その夜、立花家の次男・康夫は、町へ戻ってきた。
兄から実家の鍵を預かり、まず冷蔵庫の電源と水道の元栓を見た。母が暮らしていた台所には、食べかけの佃煮と、輪ゴムで留めた薬の袋が残っている。流しの取っ手には、同じ輪ゴムが何本も掛かっていた。
壁の予定表の翌日の欄に「榊便利堂」とあった。何を直すのか母に聞いていない。兄に電話すると、病室には明日の午前中に行くつもりだという。
『母さんが書いたなら、そのまま置いといてやれ。勝手に消したら、あとで怒られるぞ』
「この家、もう本人おらんのに?」
『おらんでも、怒るときは怒るやろ』
康夫は電話を切った。蛍光灯が一本切れているのに気づいたが、明日の予定表には書き足さなかった。買ってきた室内履きは、今度こそ病室へ持っていくつもりで玄関の鞄へ入れた。




