第6話 連れて帰る
六日目の朝、透は懐中電灯と小さな移植ごてを荷台に積んだ。
千鶴が地図を広げ、昨日中尾と確かめた道を指した。旧造船所の柵を回り込み、防風林の外側を海へ下りる道だった。早朝から蝉が鳴いており、軽トラックの窓を開けると湿った土の匂いが入ってくる。
「ここ、車じゃ無理ですよね」
「途中から歩く。草が深かったら戻ろう」
「戻るんですか。明日で七日目なのに」
「無理して探して怪我したら、明日動けなくなるだろ」
透は下草が予想以上に伸びているのを見て、草刈り機を積まなかったことを少し後悔した。ただ、ここは二人がすれ違うにも狭い道だ。千鶴から渡された虫除けを腕に吹きつけ、袖口を閉じて歩き出した。
防風林へ入る手前で、透は地図をもう一度確かめた。境界を示す低い杭が並び、その向こうは昔から町が管理している遊歩道になっている。旧造船所のフェンスには、あちこちに錆が出ていた。
「中尾さん、昔はこの先まで普通に歩けたって言ってました」
「今は足元が見えないな」
透が枝を持ち上げ、千鶴を先へ通した。砂混じりの土に足を取られながら進むと、林の切れ目から海が見えた。潮風が直接当たらない斜面には松が何本か残り、その根元だけ草の伸びが低かった。
千鶴が立ち止まる。
「この辺ですかね」
「犬がここへ来たかどうかもわからない」
「そうですけど、ほかより少し涼しいですね」
彼女は帽子のつばを持ち上げ、松の根元を覗き込んだ。地面には何年も積もった針葉が敷かれ、枯れ枝と古い釣り糸が絡んでいる。透は移植ごてを置き、まず落ち葉を手で払い始めた。
昼前、千鶴の携帯が鳴った。実家からで、配達の荷物が一つ増えたという。彼女は透を見た。
「いったん戻っていいですか。夕方ならまた来られるんで」
「もちろん。こっちは続けるけど、危ないところへは入らない」
「ほんとにですよ。透さん、仕事になると時間忘れるから」
千鶴は来た道を戻った。透はその背中が木の間へ消えるまで見送り、もう少しだけ林の奥を調べることにした。
風が通らない側へ回ると、一本の松の根が地表へ大きく露出していた。根と根のあいだに茶色い布のようなものが挟まり、透はしゃがんで枝をどけた。
布ではなかった。
赤い首輪の切れ端だった。色はほとんど抜け、革は土と一緒になっている。錆びた留め具の横に、小さな金属の札が残っていた。
透は付着した土を親指で拭った。
マル。
片面に彫られていた。裏側には、摩耗して読みにくくなった沖田の文字がある。
透はそれを握ったまま、根の下を覗いた。細い骨が何本か、落ち葉の下からのぞいている。首輪に近いところには歯の残った顎の骨らしきものもあった。
宗一郎が探していた犬だとすれば、家からここまで自分の脚で来たのだろう。あるいは誰かが運んだのかもしれない。十数年前の出来事を、この場所だけで決めることはできなかった。
透は首輪から手を離し、枝の分かれ目へ自分の手拭いを結んだ。露出した骨の位置を覚えておくため、木の根の形を携帯で撮る。犬のものと決めつけて掘り上げるのは避けたかった。
林の外まで戻り、白木へ電話を掛けた。
「犬の骨らしいものがありました。宗さんのマルという札も出てきて」
「場所はどこです?」
「旧造船所の外の防風林。遊歩道の脇です」
「わかりました。今から行きます。勝手に触って片づけずに待っててくださいね」
白木は午後の法事の前に時間を作り、作務衣のまま木の匙と薄い布を持って来た。透の案内で松の根まで進み、首輪の札と露出した骨を確かめた。
「骨が全部残ってるとは限りません。土も一緒に持ち帰りましょう」
「お願いできますか」
「頼まれたのはお葬式ですけど、こっちも宗さんの家のことですから」
二人は根を傷めないよう、露出していた骨と周囲の土を少しずつ集めた。首輪の札は布で包み、別に持った。白木が用意した小さな木箱へ収めると、箱の底にまだ余裕があった。
「和尚さん。宗さんの言葉、ここで出ないです」
林へ入ったときも、札を手に取ったときも、喉には何も起きていなかった。透は持ち上げた箱を下ろし、白木が布の端を結ぶのを待った。
「まだ行く先があるんでしょう」
「宗さんの家には、墓石があって」
「だったら、一緒に帰りましょうか」
白木は長靴の泥を落とし、透が車へ箱を運ぶのを待っていた。
夕方までに、町内会の世話役を通じて親族と連絡が取れた。家の裏にあるマルの石の前へ、見つかった骨を埋めてよいという返事だった。透は電話を切ってから墓石の周りの草を刈り、土の深さを確かめた。
千鶴は配達を済ませて戻り、穴を掘るための小さな鍬を持って来た。
「やっぱりいたんですね」
「首輪の札は見つかった。骨も一緒にあった」
「宗さん、自分でここまで探しに来たのかな」
「どうだろうな」
千鶴は水を運び、透が掘る場所の周囲へ伸びた草を集めた。木の根を避けて浅い土の状態を調べておき、埋葬は白木が来られる明日の朝にする。箱は世話役と相談して家の仏間へ置き、病室から持ち帰った餌皿も写真の横へ戻した。
七日目の朝は薄い雲が出ていた。町内会の世話役が鍵を持って来て、仏間の箱と皿を一緒に確かめてくれた。
梶も顔を出したが、犬の骨が見つかった話を聞いてからというもの、余計なことを言わない。足元に転がった石を拾って、穴の縁へ並べていた。
白木が短く経を読んでから、透は木箱を抱えて石の前へ膝をついた。宗一郎から預かった声は、六日間、喉の奥で動いていない。透はマルの札を箱の上に載せ、前日に用意した穴へ納めた。
「マル。ええ子や」
手を離した瞬間だった。宗一郎の声が透の口から出た。指についた土を落とすことも忘れ、透は自分の喉へ手を当てた。六日前から預かっていた声が、そこにはもうない。
白木は経本を閉じ、千鶴はじょうろの注ぎ口を地面へ向けたまま動かなくなった。梶が穴の脇へ並べていた石を一つ置く音がした。透は箱の上へ土を戻し始め、途中から千鶴も水をかけて手伝った。
「……今の、宗さんですよね」
千鶴が訊いた。
「うん」
「でも、犬は」
彼女は足元の土へ目を落とした。透もそこを見る。
「わからない」
透が石の溝へ入った土を指でかき出していると、千鶴もじょうろを置いてしゃがみ込んだ。
梶は立ち上がり、土のついた膝を払った。
「あんたの爺さんが聞いたら、何て言うやろな」
「梶さん、わかります?」
「わしにわかるか。たぶん、また帳面を出して来よるわ」
白木は経本を鞄へしまい、使った道具を軽トラックまで運んだ。千鶴はじょうろの水がなくなってから流しへ戻り、内側へ残った泥を洗っている。梶は車に積んだ草袋の口を結び直していた。
透は石の前で埋めた箱の位置を確かめ、親族へ渡す作業記録に日付と場所を書いた。マルが死んだ日はいまだにわからない。石に彫られた二文字の下は、空いたままにしておいた。
家の戸締まりを済ませて出ると、千鶴が餌皿の置き場所を訊いた。
「宗さんの写真の横へ戻したよ」
「水、入れとけばよかったかな」
「家、しばらく誰も来ないから」
「ですよね」
千鶴は空のじょうろを車へ載せた。帰りに実家へ寄ると言い、途中の坂で降ろしてもらう。透は便利堂へ戻り、草刈りの請求書と、宗一郎の家の見積書を別々の封筒へ入れた。
帰宅する前に、透は千鶴が立て替えた地図代を精算した。三百円の領収書に便利堂の支出と書き足していると、昨日の見積書を催促する電話が鳴った。透は受話器を肩ではさみ、机の引き出しから請求書の控えを探した。
千鶴が帰ってから、机の上へ置いた町内会報を見た。
若いころのマルが、写真の外にいる宗一郎を見上げている。先方から頼まれた見積書を封筒へ入れ終えるまで、透は会報を開いたままにしておいた。




