第5話 配達のあとで
翌朝、最初の配達を終えて乾物屋へ戻ると、母が帳場で注文票を並べ替えていた。
「ちょうどよかった。今朝の鰹節、やっぱりうちの間違いやったわ」
「え、伝票の数は合ってたよ」
「電話で追加が来たのを、あんたの紙に書き足すの忘れてた。悪いけど、もう一回届けて」
千鶴は自転車の鍵を握ったまま、今朝訪ねた家の玄関を思い出した。注文したはずの品がないと言う女性に、伝票には載っていません、と二度も答えてしまったのだ。
「先に電話しといて。私、ちょっと言い方きつかったかも」
「何て言うたの」
「伝票にはありませんって」
「それだけ?」
「二回」
母は包装紙の端を揃え、追加分を千鶴へ渡した。
「伝票が間違うとらんからって、注文が間違うとるとは限らんやろ。品物届けて、ちゃんと謝っといで」
「わかった。先に電話だけお願い」
千鶴は紙袋の口を二度折り、住所を見直してから自転車に乗った。途中で、小さな子どもが親の手を振りほどいて横断歩道へ出かけたため、ブレーキをかけて一度降りる。袋を荷台へ積み直していると、スマートフォンが鳴った。母から、先方には連絡がついたという短い知らせだった。
女性はもう昼食の支度を始めていた。千鶴が追加分を差し出して朝の言い方を詫びると、「だから言うたやろ」と袋を開けて確かめた。
「すみません。うちが追加の注文を書き忘れてました」
「まあ、足りたからええわ。お代はこれで合っとる?」
「合ってます。ありがとうございます」
千鶴が財布を片づけると、女性は台所から冷えたお茶を入れた紙コップを持ってきた。
「朝から二回も走らされて、あんたも難儀やね」
「自分で二回走ってますからね」
「口は減らんのう」
千鶴は笑って礼を言い、飲み終えた紙コップを女性へ返した。次の家までまだ坂がある。自転車を押して角を曲がると、玄関の引き戸が閉まる音がした。
中尾の家へ着いたのは昼前だった。沖田の葬儀でマルの話をしていた漁師の家には、玄関先に網を干す竿が立ててある。千鶴が注文の昆布を渡すと、中尾は財布を出しながら、今日は榊のところへ行かないのかと訊いた。
「今日はうちの配達の日です。終わったら寄るかもしれませんけど」
「そうか。ほな、榊の兄ちゃんに言うといてくれ」
「犬のこと?」
中尾は釣り銭を受け取り、昆布の袋を板間へ置いた。
「宗さんが探してたころ、あの犬、造船所の裏へよう行きよったんや。葬儀では、そこまで話さんかった」
「なんでです?」
「ほかの人が来たからや。あんたも時間がないやろ」
「それはそうだけど。今、少しなら聞けます」
千鶴が言うと、中尾は網の竿を壁へ立てかけてから、昔の道順を教えてくれた。造船所が動いていたころは裏手に海へ抜ける道があり、宗一郎が海へ出る日にはマルもついて歩いていたという。
「最後まで探したんですか、その道」
「宗さんは行った。わしも途中まではな。雨のあと、斜面が崩れかけとって、奥へは入れんかった」
「今はどうなってます?」
「造船所は閉まって、柵も建て直した。防風林の外側に古い道が残っとるかもしれんが、わしも近ごろ歩いとらん」
千鶴が配達表の裏に道順を書こうとすると、中尾は庭に引いた短い線を指で消した。
「説明だけで行くなよ。いまは私有地かもしれん。榊の兄ちゃんにも言うとけ」
「じゃあ、公開の地図を取ってきます。あとで歩けるところだけ教えてもらえます?」
「家におったらな。夕方には帰る」
千鶴は次の配達へ向かいながら、中尾が示した曲がり角を頭の中で辿った。昔の道の途中には水路があったらしいが、今も開いているとは限らない。何より、家の裏の石とこの場所が繋がるかどうかも、まだわからなかった。
配達を終えてから、千鶴は役場へ向かった。公開資料の窓口で古い地図の写しを申し込むと、担当者はちょうど楓だった。
「千鶴ちゃんが地図を取るなんて珍しいですね。配達先を増やすの?」
「増やしませんよ。旧造船所の裏って、今どこまで歩いていいんですか」
「古い道があっても、通っていいかどうかは今の管理者次第ですよ。境界を見たいなら、公開している図面はここで閲覧できます」
楓は窓口から出られる時間を確かめ、閲覧台へ案内した。千鶴が地図を広げると、造船所の敷地を示す線は道路から少し内側に引かれている。ただし、紙の線と現地の柵が同じ位置にあるとは限らなかった。
「透さんに頼まれたんですか」
「ううん。中尾さんから話を聞いたから、私が見たくなって」
「それなら、なおさら無理して入らないで。古い図面を見たからって、入れる場所にはならないですからね」
「はいはい。二回も言わなくてもわかってます」
「千鶴ちゃん、その『はいはい』が危ないの」
千鶴は言い返さず、写しの料金を払った。領収書を財布へ入れる前に、ここまで来たのは自分の判断だと改めて思った。便利堂の経費にならなくても、この三百円は返してもらわなくていい。
乾物屋へ戻ったのは、母が在庫を数え始めたころだった。千鶴が売上金を差し出すと、母は釣り銭の数を確認し、午前中の追加注文はどうなったか訊いた。
「ちゃんと謝った。お茶ももらった」
「お茶の話は訊いとらん」
「品物は渡したし、お代も合ってたよ」
「なら、今日はもう上がっていい。夕方まで店を抜けるんなら、先に言うといて」
千鶴が犬捜しに行くと答えると、母の手が止まった。
「犬?」
「昔の。もういないかもしれない犬」
「便利堂、そんな仕事まで引き受けたの」
「私が場所を聞きたいから行くの。透さんにはまだ言ってない」
母は納品書を持ち直し、日が暮れる前に戻るよう念を押した。千鶴は自転車の荷台へ地図を括りつけ、中尾の家へ戻った。
中尾は長靴を履いて玄関から出てきたが、道を最後まで一緒に歩く気はないらしい。港へ下る坂の上まで案内し、そこから先は地図の上で教えてくれた。千鶴は二人で確認した防風林の外側へ鉛筆を引き、造船所の柵には線を伸ばさなかった。
「松が何本か残っとるはずや。昔は潮風を避けるのに、あそこでよく休んだ」
「その松の下を歩くなら、柵の中へ入らなくていい?」
「その線ならな。ただ、道が塞がっとったら戻れよ」
便利堂へ寄ると、透は作業台で懐中電灯の電池を換えていた。千鶴が地図を広げると、透はまず中尾の名前を確かめ、彼女が引いた線を指で追った。
「自分で役場まで行ったのか」
「はい。歩ける道だけ、中尾さんにも聞き直しました」
「写しの代金、立て替えた?」
「三百円。経費にならなくてもいいですけど」
「仕事で使うなら経費だよ。領収書、あとでくれ」
千鶴は地図が丸まらないよう、電池を入れ替えた懐中電灯を紙の端へ置いた。
「明日、朝から行けるなら私も行きます。配達が増えたら途中で帰りますけど」
「わかった。危ない場所だったら引き返そう」
「透さん、今の、ちゃんと覚えててくださいよ」
返事の代わりに透が靴箱から長靴を出してきたので、千鶴は明日の出勤時刻を紙の余白へ書いておいた。




