第88話 まだ渡さない頁
十四日の午後、久保田美和が父の家から持ち帰った手提げ袋には、ノートのほかに写真の封筒が三つ入っていた。家族の写真を見せてほしいと親戚から電話が来たのは、ちょうど袋を広げているときだった。
『明日の祭りで会うやろ。昔の写真、持って来られん?』
「写真だけなら探してみる。父の帳面のことなら、まだ人に渡せんよ」
『帳面は要らん。あの人が若いころ、荷車の横で写っとるやつ、なかったか』
美和は受話器を持ったまま、封筒の表へ書かれた年を確かめた。探している写真には心当たりがあったが、同じ封筒には知らない人が何人も写ったものも入っている。親戚は、父ひとりが写った写真で構わないと言った。美和は持っていけるかどうか、夕方に返事をすると約束して電話を切った。
夫が米を研ぎながら、台所から声を掛けた。
「明日の分、いま選ぶんか」
「今やらんかったら、祭りへ出る直前に探すことになる」
「写真を持っていったら、返ってこなくなるかもしれんで」
「だから原本は出さん。家の複合機で一枚だけ写す」
美和は古いアルバムを机へ置き、背表紙の破れたところを両手で押さえた。親戚が言っていた写真は後ろから二枚目に挟まっている。若いころの父は上着の袖をまくり、荷車の後ろへ片足を掛けていた。同じ封筒には知らない男と並んだ別の写真もあったが、渡すのは父が一人で写っている方に決めた。裏に日付はない。親戚が覚えている場所と一致するかは、明日会ってから聞けばよかった。
「おじいちゃん、これ、働いとったとき?」
子どもが宿題を抱えて寄ってきた。美和がわかる範囲で答えると、今度は祖父のノートを見たいと言う。学校で昔の暮らしを調べる課題が出ているらしい。
「こっちはまだ調べとる途中。読めるとこだけでも、勝手に友達へ見せたらあかんよ」
「じゃあ写真は?」
「一緒に選ぼう。おじいちゃんしか写っとらんやつなら、誰に見せるか決めやすいやろ」
子どもは父が一人で草刈り機を持っている写真を選んだ。明日の祭りで親戚に渡すものとは違うが、美和はそれも一枚複写することにした。父が使っていた機械の名前を、まだ子どもへ教えていなかった。
複合機へ写真を並べかけて、美和は父のノートが机の下に置かれたままなのに気づいた。以前、役場で相談したときに付けた目印が、表紙から少しだけはみ出している。写真と間違えて蓋を閉めないよう、別の鞄へしまった。提出を求められている頁が確定したら、複写範囲を家族と相談する。それまでは書類を取りに来る人がいても、家の中を探してもらうつもりはなかった。
写真の複写が終わると、子どもは裏側へ日付を書こうとした。美和は手を添えて止めた。
「それ、撮った日やないで。今日、写した日やろ」
「でも、どっかに日付ないとわからん」
「ほんなら袋の方へ書いとこ。写真には書かんでええ」
子どもは封筒へ今日の日付を書き、父の草刈り機の写真を入れた。夫は炊飯器のスイッチを入れてから、明朝、親戚へ確認の電話を掛けるなら車を出す前に済ませようと言った。美和が話しているあいだ、自分は子どもの弁当箱を洗っておくという。美和は写真の封筒だけ祭り用の鞄へ入れ、古いアルバムを棚へ戻した。
※
夕方、夫と子どもが買い物へ出ると、美和は父の家へ短い用事を済ませに行った。押入れ棚の修理はまだ頼まないと決めているが、物置の戸の鍵が掛かるか、最後に確かめておきたかった。
庭の金柑はまだ青い。玄関の横へ置いた脚立は、冬に父が枝を切ったときの高さで留めてあった。美和が畳もうとすると金具が固く、しばらく手間取った。無理に閉めて指を挟むより、今度来るとき潤滑油を持ってこようと思う。
部屋へ入ると、父が使っていた筆記具の入った缶が台所に残っていた。役場へ持っていったノートをここへ戻すか迷ったが、まだ用事がある。美和は缶の蓋だけ閉め、窓から入る風で古い新聞が散らないよう上へ重しを載せた。庭木の剪定に透を呼ぶのも、今日はやめておく。
携帯電話が鳴った。夫から、夕飯に買う予定だった魚が売り切れていたという連絡だ。
『鶏でもええ?』
「子どもに聞いて。私、家に戻るの少し遅れる」
『こっちは炊飯器のスイッチ入れたで』
「さっき自分で入れる言うたもんな」
美和は勝手口の鍵を回し、いったん引いて確かめた。父が亡くなってから、この家の戸締まりをした回数は数えていない。いまはノートをどう使うか決めるより、雨が降る前に物置の隙間へ板を一枚当てたかった。
軽トラックで資材を運んでいる近所の人を呼び止め、余っている板を一本譲ってもらえないか尋ねた。手持ちに余りはないが、同じ寸法の板なら建材店に置いているらしい。荷台の端を見せてもらい、美和は幅と厚みを控えた。鉛筆を探して缶を開け、新聞の余白へ数字を書いた。
通りへ戻りかけたとき、隣家の女性が庭の木を見て、枝を一本切ったほうがよいと声を掛けてきた。人が通る側へ伸びているので、風が強くなると気になるという。父が元気だったころは自分で剪定していたが、美和は道具の扱いに慣れていない。
「今日のうちに切れそう?」
「下から届く枝なら。でも上の方は、やめとく」
「業者さん呼ぶほどでもないと思うけどね」
「落として道路塞いだら、もっと困るやろ」
相手は少し不満そうに家へ戻った。美和は脚立を立てようとして、さっき金具が固かったことを思い出す。伸びた枝を引っ張れば葉が落ち、掃除の間に暗くなるだろう。次に頼む庭木の仕事は、父がいつも呼んでいた人へまず見積もりを頼むことにした。透に相談するかどうかも、いま決めなくていい。
玄関先の土を掃いているうちに、道路へ出ていた葉が数枚見つかった。美和はそれだけ拾い、ゴミ袋へ入れた。明日は祭りで町内の人がここを通る。枝の下に荷物を置かずに通れる程度には、家の前を片づけておこうと思った。
※
戻る途中、役場の前を通ると、祭りのための案内板が歩道に並んでいた。以前の連絡表では父が使っていた場所が、今年は別の担当者名になっている。美和は駐車場へ入らず、そのまま自宅へ向かった。役場へ渡す紙は、窓口の開いている別の日に持っていけばいい。
家へ帰ると、子どもが自分で選んだ鶏肉を皿へ載せようとしていた。美和は手を洗い、台所の端へさっきの寸法を記した紙を置く。夕飯が終わったら、棚の上段に父のノート用の場所を作る。その話を夫へすると、彼はもう年末の封筒を下ろしていた。




