第87話 前の日の用事
十四日の夕方、常光寺の白木は本堂の電球をひとつ交換していた。明日の朝も人が来るから、切れたままにはしておけない。踏み台を畳んでいると、透が軽トラックでやってきた。
「明日、祭りですけど」と白木が言った。「今年はいつもの荷物、もう頼まんでいいですよ。檀家さんが運んでくれることになりました」
「じゃあ修理のほうだけ。先週、椅子がまだ二脚残ってるって聞いたんで」
「こっちは急ぎません。今日は早く帰ったらどうです」
透は、直した椅子を縁側へ置いた。白木は受け取りの印を押し、明日の法要の時間を確認する。十五年前にも法要はあったはずだが、透は当時の準備をほとんど覚えていない。覚えていないことを、いまから住職に尋ねて埋める気はなかった。
「明日の夕方、仕事が終わったら祭りへ行きます」
「ええ。あんまり長く店を開けてると、修理に来る人が増えますよ」
「それは困るな」
白木は笑い、透が車を出すまで見送った。
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白木は透が帰ったあと、直した椅子の脚をもう一度動かした。寺で使う椅子には、足の悪い人が立ち上がるとき手を掛けるものもある。ねじが締まっているだけでは安心できないので、実際に自分が腰を掛けてから棚へしまう。
寺の手伝いへ来た女性が、明日の供養の受付表を持ってきた。昔から毎年欠かさず来る人が何人かいて、今年は時間を勘違いしているらしい。白木は電話を一本ずつ掛け直し、駐車場が満車ならどこへ案内するかを確認した。
「榊さん、祭りへ行くんですかね」と女性が訊いた。
「行く言うてましたよ。まあ、店を閉められたらでしょうけど」
「いつも仕事優先ですから」
「仕事があるんは結構なことです。頼んだ椅子、また直してもらえますし」
白木は受付表の余白へ椅子の数を記し、明日の朝までに玄関へ出しておく位置を決めた。
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乾物屋では、千鶴が祭り用の値札を袋へ入れていた。母は明日の朝早くから店に立つつもりで、配達の控えを娘へ渡している。
「これ、うちの分やから。便利堂の伝票と混ぜんといてな」
「今日は混ぜない。明日はもっと混ぜない」
「その言い方、去年も聞いたよ」
千鶴は値札を二枚確認し、足りなかった細い昆布の札を作り直した。透が裏口から注文していた乾物を引き取りに来ると、母は代金を受け取り、千鶴に明日の集合時刻を念押しした。
「透さん、明日は夕方まで仕事しないでくださいね」
「午前の一件が終われば閉めるよ」
「今日もそう言うてましたけど、もう夕方です」
「今日は急ぎの椅子があったんだ」
千鶴は透の手元を見た。寺の受け取り印が付いた紙がある。自分から言い出した予定ではないのなら、とりあえず今日の遅さについては見逃すことにした。
乾物屋の裏では、祭りのために出す箱を母親が二つ開けていた。千鶴は棚から同じ種類の昆布を取り、値段の札と一緒に一箱ずつ確認する。透はそのあいだ、母親から頼まれた配達伝票の控えへ受領日を書いた。客として買った昆布の代金と、以前に引き受けた店の網戸修理の代金が同じ帳簿へ記入されないよう、千鶴は別のクリップを渡した。
「透さん、これ、うちの売り上げのほうですからね」
「わかってる。勝手に便利堂の控えへ綴じない」
「去年、それやってました」
「今年はやらない」
母親は二人のやり取りを聞きながら、祭り用の箱を紐で結んでいた。売れ残りが出たらどうするかは、当日の客足を見てから相談することになっている。
千鶴は乾物屋の帳簿を閉じ、出店へ運ぶ箱を一度持ち上げてみた。大袋をまとめた箱は思ったより重く、底に貼ったテープが引っ張られている。母は車ですぐ運べると言ったが、会場では二人で台から下ろすことになる。
「これ、半分ずつ運ぼ」
「一往復増えるやん」
「車の横で底が抜けるよりええやろ。台車も積んどく」
透が仕事で帰ったあと、千鶴は母と箱の中身を分け、使いかけのテープを貼り直した。家の台車は車輪の間に細い紐が絡まっていたので、千鶴がしゃがんで外した。母はそのあいだ、翌朝最初に売り場へ出す商品を、小さい方の箱へ詰めていた。
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そのころ梶は、畑で採れた茄子を二つの袋へ分けていた。隣家の人へ届ける分には大きいものを入れ、便利堂へ持っていく分は、透が食べ切れるだけにするつもりだった。袋を結んでから、自分の台所に卵を置いたままだと気づき、いったん家へ戻った。
隣家の人は翌朝、家族を迎えに車を出すという。野菜を渡すなら今日がいい。梶は家の前で袋を手渡し、祭りへ来るなら夕方より少し遅い時刻にしてほしいと頼まれた。別に一緒に行く約束をしていたわけではないのに、車を出してくれと言われるかもしれないと思い、梶は念のため自分の草刈りの予定を伝えた。
「わしも昼までは家の用事がある」
「お互い様やね。会場では勝手に会うやろ」
茄子を届け終えると、梶は卵を一パックだけ自分の袋へ移した。便利堂で何を話すかより先に、明日の朝食に使う卵を買い直さずに済むよう考えていた。
夕方、透が便利堂へ戻ると、梶が入り口の脇で新聞を広げていた。自宅用の卵を一パック、透の冷蔵庫へ入れてしまったらしい。
「明日の朝、取りに来ますよ」と透が言った。
「明日は野菜持ってくるんや。ここへ置いといたほうが忘れん」
「俺の家を保管庫にしないでください」
「使うたらええやろ。古くなる前に」
梶は帰り支度をしたが、透が祖父の帳面を棚へ戻しているのを見ると、戸口で少し立ち止まった。
「聞きたいこと、残っとるか」
「あります。でも今日、全部聞くのはやめました」
「なんや、ようやく」
透は帳面の八月と九月の空白へ、一枚だけ紙を挟んだ。自分が直接覚えていること、人から聞いたこと、どちらでもないことを分けて書いた紙だ。祖父が何のために港へ通っていたかは、今日も全部はわからない。朝、自分に焼き飯を作ってくれたことと、仕事の帳面を書かなかったことは、同じ夏の出来事として残しておける。
「明日は来ますよね」
「あんたが野菜要らん言うても持ってくる」
「それは聞かなくてもわかってます」
梶は戸を閉め、自分の家へ帰った。
透は次の日の工具を揃え、古い新聞の未読分を棚の下へ戻した。町の調査は続く。誰かが後から確認できた事実は、また正式な紙へ書かれるだろう。けれど、今夜読める記事を全部読んだところで、明日の網戸は直らない。
机の横には、母の声を預かっていたころの記録と、今朝書いた作業表が並んでいる。透は先に作業表を畳み、十五日の欄へ小さく「午前中に引き渡し」と書き込んだ。




