第85話 返事
楓が振り向いた。
透はその顔を見た。声が出るより先に、楓の喉が小さく動いた。本人が言い方を選ぶ時間はなかった。
「透。ごめんね。行ってくるね」
透が記憶の中で聞いた声と、同じだった。台所の流しから水滴が落ちる。楓は片手を縁へ掛けたまま立っている。自分の口から出た言葉を、すぐには繰り返そうとしなかった。
透は、母が濡れた袖を片方だけ絞っていたことを思い出す。十二歳の自分が手を伸ばす前に離れていった肩。岸を出る舟の灯り。あのとき、自分が何も言わなかったこと。
「行ってらっしゃい」
声にしてみると、いつもの言葉だった。作業へ出る千鶴を見送るときや、梶が野菜を置いて帰るときにも言えたはずの短い言葉だ。けれど、十五年前の岸では、一度も口にできなかった。
透は湯飲みの置かれた机へ戻り、椅子を引いた。母があの夜どうして謝ったのかは、今もわからない。もう一度舟を出ると決めたことか、十二歳の子どもを岸へ置いたことか。それとも、出発する前から別のことを考えていたのか。本人に尋ねる相手は、もういない。
楓は流しから戻り、透の向かいへ腰を下ろした。
「届いた?」
「うん」
「聞いたのは、わたしやのに」
「楓が聞いたのも、本当だよ」
透は水を飲んだ。言葉を受け取ったときと同じように、何かが消えたあとの手触りを確かめたくなったが、それをするための動作はない。
「ありがとう」と透は言った。
「礼を言われても、わたしもまだ、何をしたのかわからん」
「それでいい。明日の仕事、間に合う?」
「帰ればね。ご飯だけ炊いてから寝る」
楓は、椅子の下へ置いた鞄を取ろうとして手を止めた。上着のポケットへ入れていた携帯が鳴り、父から帰る時刻を尋ねる連絡が来ている。短く返事を打つあいだ、透はコップを二つ流しへ運んだ。
「水だけでも飲んで帰る?」
「うん。いま帰ったら、運転しながら何を考えるかわからん」
透は冷蔵庫から水差しを出した。以前はなかった容器なので、楓がいつ買ったのか尋ねる。梶が持ち込んだものだと答えると、彼女はいつのまにか便利堂の台所に物が増えていると笑った。透が二つのコップへ水を注ぎ、テーブルの端へ並べる。楓は自分の方だけ手を付けた。
「透さん、あの人のこと、写真でしか知らんと思っとった」と楓が言った。
「子どものころ、うちへ来たことあっただろ」
「覚えとるのは、台所が今より狭かったことくらい。棚も違う」
「祖父が一回作り直したからな」
棚の端には、木ねじを打ち直した古い穴が残っている。透が指で示すと、楓はここで祖父から饅頭をもらったことを思い出したと言った。透は同じ菓子を食べた覚えがない。楓は二つもらったはずだと主張したが、どちらが本当か調べるために古い帳面を開こうとはしなかった。
「透さん、今日のこと、千鶴には話す?」
「まだ決めてない。楓が困る話まで俺が先に言うことないし」
「わたしは、父さんにも何も言わんで帰るよ」
「うん」
「聞かれたら、透さんの家に寄ってたとは言うけど」
「それは別に隠さんでいい」
楓が飲み終えたコップを置くと、透は畳んであった布巾を取り上げた。乾いているつもりで手を伸ばした布巾が、朝に洗ったままのものだった。楓に指摘され、透は流しへ置いて別の布巾を取ってくる。
「明日、玄関の取っ手の修理があるんやろ」
「部品は揃えた。店を開ける前に、ねじの長さだけ見とく」
「そこまでやるなら、もう一回数えといて。透さん、帰ってきてから困ること多いから」
「今日は千鶴もおらんかったしな」
「人のせいにせんといて」
透が道具箱を開けると、短いねじと長いねじが同じ仕切りに入っていた。楓は立ったまま手伝おうとしたが、種類を知らないので透の指示を待った。透は見本の部品を机へ置き、長いものだけ別の袋へ移す。
「ありがとう。帰り、何か買う?」と透が聞いた。
「スーパー。父さんが卵買い忘れとる気がする」
「梶さんが余分に持ってきた分なら、ここにある」
「それ、勝手にもらったら、あとで二人とも怒られるやろ」
楓は上着を着て、鞄の持ち手を確かめた。透が表まで送ろうとすると、靴を履きながら首を振った。
「今日は家の前まででいいよ。透さん、火を消してから寝て」
「わかってる」
「この前、鍋焦がしかけたの、千鶴から聞いた」
「言いつけるなって言ったのに」
楓が車を出せるよう、透は門の脇にあった工具箱を店内へ戻した。運転席に座った楓は携帯の目覚ましを確認し、窓を一度だけ開けて手を振った。彼女が角を曲がると、透は戸の鍵を掛けた。
楓は曲がり角をひとつ過ぎたところで、運転席の窓を少し開けた。冷たい風を入れてから、路肩の安全な場所に車を止め、父へ帰宅の連絡を入れる。向こうでは食器を洗う音がしていた。
『そろそろ帰るんか』
「うん。遅くなった。父さん、ご飯は?」
『先に食べた。煮物は冷蔵庫や』
「帰ってから自分で温めるわ」
いま透が何を話したか、父は尋ねなかった。楓も、自分の口から出た声のことを説明する言葉を探さない。路肩から車を出すとき、いつもならすぐ点けるラジオは消したままにした。信号で止まると、自分の手がまだ少し冷たいことに気づいた。
家の明かりが見えるころには、明日の勤務で朝一番に確認する書類のことを考えていた。玄関前に車を止めたとき、楓は助手席の鞄から筆記具を探した。いつも職場で使うものを取り出しかけ、戻す。今日のことを役場の書類に書く必要はない。
家へ入ると義信は食器を拭いていた。台所の鍋には楓の分だけ煮物が残してあり、上から小皿を伏せてある。楓は礼を言って鍋を弱火に掛けた。父が「遅かったな」と言うので、「うん」と答える。帰りにどこへ寄ったのかは、尋ねられなかった。
寝る前に明日の仕事用の鞄を用意し、母の声とは関係のない書類が揃っていることを確かめた。今日の出来事をすぐに誰かへ説明する気にはならなかったが、透から連絡が来たら電話に出るつもりだった。
※
ひとりになった便利堂で、透はさきほど分けたねじの袋を道具箱へ戻した。梶が持ってきた曲がった茄子の残りは、冷蔵庫に入れたままだ。
母の声は、もう預かっていない。そのことはわかった。けれど桑島の一言が沈んだ場所は、何も変わっていない。いつもの三文字を口にしようとすると、やはり出なかった。
祖父が名前を呼べなかった理由も、母の声が自分に残っていた理由も、いま資料に書ける事実は少ない。透は家族の封筒を元の引き出しへしまった。
透は道具箱の蓋を閉じ、明日の午前に修理する玄関の取っ手を作業表へ書いた。それから台所の火を消した。




