第84話 顔を見ない約束
「何を手伝えばいいの」
楓は仕事帰りの上着を椅子へ掛け、手を洗ってから作業台の向かいへ座った。透の出した湯飲みが二つある。片方は、祖父の代から使っている縁の欠けたものだった。
「母の最後の声を思い出した。俺に向けた言葉だった」
「……覚えてなかったの?」
「聞いたことも、あのとき何も返せなかったことも、昨日までうまく繋がってなかった」
透は記憶として書いた紙を見せた。黒瀬の話を横へ並べ、他人が見たことと自分が思い出したことを分ける。楓は紙を読んでも、どうして今まで忘れていたのかとは聞かなかった。十五年という時間を、ひとつの理由で説明できるわけではない。
「それで、わたしに何を頼みたいの」
「この言葉を、俺からいったん離せるならと思ってる」
「わたしが代わりに言えばいいってこと?」
「代読や電話じゃ届かない。そんな都合のいい仕事じゃないのは、楓も知ってるだろ」
楓は紙を閉じた。父の義信が久保田の言葉を一度拒んだとき、声は聞こえても受け取るとは限らないのだと知った。透がこれまで届けてきた言葉についても、家族に知らせるか知らせないか、宛先本人に選ばせられなかった例がある。
「わたしが持ったら、透さんの言葉になるの?」
「ならない。母が俺へ言ったものだから」
「じゃあ、わたしが何か答えを出す必要もない?」
「ないと思う。楓に預かってもらうこと自体、できるかもわからない」
透の返事は頼りなかった。楓は壁の時計を見て、帰宅してから夕飯を作るには間に合うか計算していた。明日の勤務のために夕飯を作っておかなければならないが、いま引き受けるかどうかを決めずに帰れば、透はまたひとりで帳面を開くだろう。
「その前にひとつ」と楓は言った。「わたしが受け取ったとして、すぐ透さんへ届くの?」
「真の宛先に会ったら、止められない。今までと同じなら」
「今までと同じなら、ね」
楓は湯飲みを両手で持った。幼いころから知っている相手の頼みだからこそ、仕事場の返事のように即答できなかった。明日は自分も窓口に立つ。今夜、透の家で起こることを役場の案件にする気はなかった。
「わたしは、透さんのお母さんの代わりにはなれんよ」
「そんなこと頼んでない」
「念のため言うてる。帰ってから、父さんへ今日のことを話すつもりもない」
「俺も、そうしてほしい」
透はうなずいた。楓は自分が引き受けたあとに、何が起きるかを正確には知らない。それでも、透がその言葉を自分で聞きたいと言ったことだけはわかった。
「やってみよう。できなかったら、それもそのとき考える」
楓はもう一度透の渡した紙を読み、最初の舟にいた人の名前が途中で空欄になっていることに気づいた。黒瀬の便箋には、救助された三人のうちほかの二人について本人が名を出さない理由が書かれている。透が覚えているのは、母の袖と、戻った舟の灯りだけだ。
「ここ、黒瀬さんが見てないって書いてある」と楓が言った。
「うん。二度目の目的地を俺も聞いてない」
「なら、そこを想像で繋ぐのはやめとこ。話すなら、透さんが本当に思い出したことを先に聞きたい」
透は机の上に置いた両親の死亡記録を、楓の前へ少しだけ寄せた。楓は書かれた日付を確かめても、詳しい死因や誰かの責任を読み取ったふりはしなかった。
「母の言葉は、もうここにある。話したら覚えていられる。でも、自分で自分へ届けることはできない」
「だから、わたしに頼んだんやね」
「もしできなかったら、そのまま帰っていい。俺が頼んだからって、楓の中へいつまでも残っていいわけじゃない」
楓は、自分が引き受けてから何かを失うかもしれないのかと尋ねた。透は、同じことを試した前例がないと答えた。七日以内に届けなければならない通常の預かり方と同じだと考える根拠もない。それでも、もし声が渡らなければ自分の記憶は残るし、楓を責めるつもりもないと伝えた。
楓は湯飲みを置き、明日の勤務表が鞄に入っているのを確かめた。帰宅が遅くなると父へ連絡する必要がある。その前に、透が本当に自分へ預けようとしているのか、もう一度目を見て尋ねた。
透は楓の前へ、預かり屋の記録を一冊だけ出した。ほかの家族の事情が載った頁を飛ばし、日付と宛先の確認方法だけ書いた見開きを示した。
「通常は、誰かが亡くなる前に声を預かるんやろ」と楓が言った。
「そう。今回は俺が持ってるものを楓に渡すことになる。祖父がやった記録も残ってない」
「できるかどうかわからんのに、どうしてわたしに頼んだの」
「俺のことを知ってるから、ってだけなら頼まなかった。楓は、聞きたくないと言えるやろ」
「父さんは、あのとき一度断った。だから、わたしもいま断ってええんよね」
「うん。楓が嫌なら、今日はここまでにする」
「うちのお父さん、今日もこの話をしたら、きっと久保田さんのことへ戻ると思う」と楓が言った。
「そうだろうな」
「でも、今日わたしが決めたことは、父さんのためにやることと違うから」
「うん。誰かに説明するつもりもない」
楓は仕事帰りの鞄を椅子の下へ寄せ、携帯電話を裏返した。帰宅が遅くなると父へ連絡するなら、この場で済ませておこうと考えた。父に伝えたのは、用事が長引くので夕飯は先に食べてほしいということだけ。誰と会っているか、何を預かろうとしているかは書かなかった。
電話を伏せると楓は透を見た。いままで自分が知っている預かり屋の仕事は、透が別の家へ言葉を届けに行くことだった。今日は自分が受け取る側にもなる。その違いをわかったうえで、次に背を向ける時機を透と確認してから、作業台の向こうへ戻った。
台所で湯が沸き、楓は空になった湯飲みを持って立った。透は作業台に残り、彼女が流しへ背を向けるのを見ていた。雨で膨らんだ窓枠が、外の風を受けて少し鳴った。
透は誰にも渡せなかった母の言葉を、初めて自分の外へ向けようとした。声にして説明することはできたはずなのに、実際に起きたことは、そのどちらでもなかった。
楓は流しに湯飲みを置いたところで手を止めた。聞き覚えのない女の声が、自分の内側にはっきり残っている。口にしようとしていないのに、その言葉を自分から口にしようとすると、まだ何も出てこなかった。
「透さん」
「……うん」
「いま、そっちを向いていい?」
透は作業台の上に手を置いた。母の声が胸の奥から離れている。だが、桑島から預かったものの沈んだ場所は、変わらずそこにあった。
「いいよ」




