第83話 宛先
透は午後の仕事を終えてから、祖父の机へ座った。必要なのは、思い出した場面を見失わないうちに書くことだった。母の袖、岸の物置、父の結び直していた紐。声を掛けた人の名や、二度目の舟の行き先については書かない。自分の記憶にはないからだ。
写しを取った黒瀬の便箋は、左へ置いた。そこにあるのは黒瀬が岸から見た二度目の出航だ。両親が何をしようとしたかについて、本人も推測でしか話していない。
透は紙を二つ折りにし、古い帳面から少し離した。母が何を言ったかを思い出したとき、奇妙なことがあった。自分がずっと誰かから預かったまま、宛先を知らずにいた感覚が、初めてひとつの名に結び付いたのだ。
自分の名だった。
沖田宗一郎からマルへ、立花トキから佐知子へ、北野修一から早瀬昭三へ。預かった言葉は、真の宛先の前へ立つと本人の意思にかかわらず口から出た。桑島の相手には会えず、七日目に言葉が腐った。以来、謝るときには別の言い方を探している。
母が自分へ宛てた言葉は、どこへ届ければいいのだろう。
自分の前に立つことはできない。鏡に向かっても、受け取る側と預かる側は同じ身体のままだ。祖父の控え帳にも、自分自身が宛先だった例は載っていなかった。
透は紙に母の名を書きかけ、やめた。祖父が死ぬまで自分を名前で呼ばなかったことが、あらためて気に掛かった。あの人も届け損ねた言葉を抱え、呼べない名があることを知っていた。
※
透は引き出しから、祖父が使っていた細いメモ帳を出した。子どものころ、修理の見積もりを取る前に祖父が寸法だけを書いていたものだ。新しい数字は上から下へ並び、書き損じには大きな斜線が引いてある。透の名前を文字で書いた古い紙は何枚か残っているが、声にして呼ばれた記憶はない。
中学へ上がったころ、祖父は自分を「オマエ」と呼び始めた。その前の「チビスケ」とは違い、家の外で大きな声で呼ばれると腹が立った。名前で呼べと言い返したこともある。祖父はそのたび目を逸らし、結局一度も発音しなかった。理由を聞く前に祖父は亡くなった。
透は今、自分の名を紙に書いてみた。文字はすぐに書ける。言葉を預かった人間がどこかへ向けて歩くとき、宛先の名は住所より確かな手掛かりになることもあった。ところが自分の名が宛先だとわかった瞬間、歩くための方向がなくなる。
机の端では、桑島の預かりが終わったときの伝票の裏が少しめくれていた。声を失った翌日から使い始めた言い換えの書き付けだ。今も「ごめん」の文字そのものは書ける。祖父の気持ちをすべて理解したわけではないが、呼べない名前を目の前へ置いたまま暮らす不便さなら、前よりはわかる気がした。
透は、祖父の帳面が書かれた順に仕事の記録を数え直した。七月の見積もりから十月の網戸修理まで、一つも記入がない。あの人が亡くなった人の言葉を預からなかったから空白になったとも、逆に、何か預かったから書けなかったとも決められない。
昔の自分を思い返すと、祖父が店へ帰ってくる音を覚えている日がある。軽トラックのエンジンが止まり、玄関の戸が開く。食卓へ出された焼き飯に卵が混ざっているときもあれば、鍋の底に焦げた部分が残っているときもあった。あの人が何時に出掛け、何を調べたかを十二歳の自分が気にしていたはずもない。
いまの透は、桑島の言葉を届け損ねた日からの自分の仕事帳を開いた。ごく普通の修理代と、電話を掛けた相手の名が並んでいる。七日目に何が起きたかを知らない人が見れば、いつもの便利堂の一週間にしか見えないだろう。声を失った事実も、帳面の金額からは読み取れない。
自分の母が帰らなかった夜を知る人は、まだ町にいる。黒瀬は岸から二度目の舟を見送り、梶は翌朝以降の食事を覚えている。けれど、母が自分へ向けた言葉を、あの夜の自分の代わりに受け取れる人はいなかった。祖父が孫を名前で呼べなかったことは、いまになっても腹立たしい。だからこそ、言えなかった理由だけを知って、それで許したつもりになる気もなかった。
透は祖父の帳面を閉じ、自分の記憶を書いた紙だけ机の端へ残した。楓が来る前に湯を沸かそうと、やかんへ水を入れた。
※
梶が夕方の野菜を持ってきた。今日は箱の底に葱が入り、上に新聞紙を敷いて茄子が二つ載っている。
「この前の煮びたし、もう食うたか」
「食べました」
「卵足したか」
「足してない」
「そら惜しいことしたな」
梶は冷蔵庫の中を見て、勝手に卵を入れかけた。透は、紙を片づけるのをいったんやめて声を掛けた。
「あの夏、祖父に俺の名前を呼んでもらいたいって、言ったことありました?」
梶は卵を棚へ戻した。
「何べんか言うたよ。あの人、よう怒っとった。字では書けるのにな」
「俺は、あの夜から祖父に何かを聞けましたか」
「はじめは、舟は戻ったかとばっかり聞いてた。何日もな。……わしが知っとるのは、そのくらいや」
透は、祖父が二か月間仕事を書かなかった理由を尋ねかけたが、やめた。梶が直接見たのは朝飯を作る祖父と、昼に店を留守にした祖父だ。そのあいだに何を考え、誰と会ったのかは、いまさら梶を問い詰めても増えない。
「名前で呼んでほしかったんやろ、あんたは」
「そうですね」
「わしが代わりに呼ぶつもりはなかった。あの人が生きとるうちに、何とかせえと思うとったから」
「俺、名前を呼んでもらいたくて、変なこと言いましたか」
「覚えとらん。あんた、そのころわしに何でも言うわけやなかったから」
「そうですか」
「聞きたいんやったら、わしの知っとることは話す。けど、あの人が何を考えとったかまで代わりに喋れん」
梶は野菜の箱を閉じかけ、葱を一本だけ台所へ持っていくよう言った。透は祖父の字が残る帳面を棚へ戻し、受け取った葱の土を新聞紙の上で払った。
梶は野菜箱を持ち上げ、底の新聞紙が濡れていないか確かめた。透は土を払った葱を台所へ運び、野菜室へ入れた。
※
楓が来るまでに、透は仕事の帳面を閉じた。今日書いた母の記憶の紙は、黒瀬の便箋と混ぜず、家族の書類を入れた封筒へ収めている。桑島の言葉が深いところに残っている感覚は変わらない。
自分の内側にあるもうひとつの声を、どうやって届ければいいのか。名前だけがわかっても、配達の道順は見つからなかった。
表で車の止まる音がした。楓が仕事帰りの鞄を肩から下ろし、便利堂の戸を叩いた。




