第82話 二度目の岸
翌朝、透は濡れたフライパンを乾かしてから店を開けた。夜の雨で作業台の下の板が湿っている。台所の窓の桟から水が入り込んだらしく、雑巾を持ってしゃがむと、濡れた木と油の匂いが鼻についた。
雑巾の端を絞り、敷居に手を掛けたところで、十五年前の物置の床が浮かんだ。
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十二歳の透は、船着き場の物置で祖父を待っていた。雨が横から吹き込み、長靴の中まで濡れている。大人たちは低い土地へ取り残された人を迎えに行く舟があると話していたが、誰がいつ戻るのか、聞いてもまともな返事は得られなかった。
祖父は透に外へ出るなと言い、表へ向かった。物置の引き戸は閉まりきらず、割れたガラスの隙間から岸が見える。透はそこへ立って、通る人の長靴を数えていた。泥が跳ねるたび、水たまりに違う足跡が増えていく。
床の一角だけ、いつまでも乾いた木が残っていた。透はそこへ父の古い手袋を拾って置き、戻ってきたら渡そうと思った。子どもの自分には大きすぎる片方だけの手袋だったが、いつも物置にあったから捨てる気にはならなかった。
外から「綱を持ってこい」と声がした。誰が言ったのか見えない。物置の奥に短い綱が一本あったので、透は抱えて戸まで歩いた。祖父に動くなと言われたばかりなのを思い出し、戸を開けかけたところで止まった。綱を運ぶ大人はほかにもいるはずだ。
しばらくして、見慣れない男が雨合羽を脱ぎながら物置へ入ってきた。透が綱を差し出すと、男は濡れた荷物を抱えているから持てないと言う。綱が必要なら外へ置いておいてくれと頼まれ、透は戸の内側へ巻いて置いた。
「ここ、閉めといたほうがええぞ」
「じいちゃんが、出るなって」
「なら中におれ。戻ったら声掛けてもらえるよう言うとく」
男は戸を閉めたが、割れたガラスまでは塞がらない。濡れた木の匂いと船外機の音が、ときどき波の音を越えて届いた。透は手袋の下に綱が入り込まないよう置き直し、もう一度戸へ寄った。
やがて、父の舟が戻った。父が紐を投げ、母が乗っていた人をひとりずつ岸へ降ろしている。濡れた服の男が岸に上がって振り返り、ほかの二人も荷物を受け取っていた。そのうちの一人が黒瀬だったと知ったのは、ずっと後のことだ。
父は舟の縁にかがみ、紐を結び直した。母は降りる人を支え、最後の荷物を岸へ押し上げた。誰かがもう出るのかと尋ねたような気がする。しかし父が何と答えたかは、ガラス越しには聞こえなかった。
透は引き戸を少し開けた。岸へ行けば母が気づくかもしれない。けれど祖父の姿は見えず、大人たちは手が空くと別の場所へ走っていく。足元に転がる石をよけながら、透は物置から二、三歩出た。
母は濡れた上着の袖を片方だけ絞っていた。顔を上げ、透を見つけると、叱るかと思ったのに何も言わずに近づいてきた。手には濡れた縄の繊維が付いている。透の肩へ置く前に、自分のズボンへ一度こすりつけた。
「透。ごめんね。行ってくるね」
母は身をかがめて肩に触れた。透がその手をつかもうとしたとき、岸から誰かが父を呼んだ。母は振り返り、舟へ戻った。
透は何も返せなかった。長靴に入った雨水が足首を冷やす。さっき物置に置いた綱を取りに戻ったほうがいいのか、母が舟へ乗る前に追い掛けるべきか、考えているうちに船外機の音が大きくなった。綱のことなど、もう誰も呼ばなかった。
父と母の舟が岸を離れた。船尾の小さな灯りが雨に滲み、見えなくなる前に祖父が透を物置へ連れ戻した。祖父の袖は透の肩と同じくらい濡れていた。
「そこで待っとれと言うたやろ」
「父ちゃんたち、また行った」
祖父は何か言いかけ、透の長靴を見た。脱いで水を出すよう促し、手袋を拾って奥の棚へ置く。透が取りに戻った綱はそのまま戸の内側にあった。
そのあとの記憶は切れ切れだ。朝まで舟の灯りが戻らなかったこと。祖父が誰かに呼ばれて何度も外へ出たこと。自分がいつ家へ戻り、誰から乾いた服を受け取ったのかは、まだ繋がらない。覚えているのは、物置の戸を押した掌のざらつきと、母が肩へ触れた重さだった。
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現在の台所で、透は雑巾を持ったまましゃがんでいた。窓の外を車が通り、濡れた道をタイヤが踏んでいく。掌をひっくり返しても、傷ひとつ残っていない。
母が岸へ戻ったのは最初の舟のあとだった。自分はそこにいた。父と母が二度目に出た舟で転覆し、帰らなかったことは後の記録で知っている。あの夜、自分が見たのは岸を離れるところまでだ。
透は雑巾を流しへ置いてから、使い古した作業用手袋を探した。棚の奥にあったのは、左右が揃った自分の手袋だった。母の声だけが、作業台に戻っても耳から離れない。
注文していた戸の取っ手を受け取りに、近所の金物屋へ歩いて行った。いつもなら古い品番を言えば店主が倉庫から探してくれるが、今日は若い店員が対応している。透は携帯に残した写真を見せ、寸法を確認してから部品を選んだ。受け取り票へ名前を書いたところで、昔この店へ祖父と来た日を思い出す。けれどそれが高潮の夏だったかは、確かめようがなかった。
「取っ手、一個でいいんですね」
「もう一つは取り替えたばかりなので。ねじだけ予備をください」
「同じ頭のやつ、ありますよ」
店員が棚を探すあいだ、透は店先へ出した網戸の見本を触ってみた。枠が軽くなったと店主は言っていたが、金具の位置が違う。今使っている戸へ合うかどうかは、寸法を測らないと判断できない。透は写真を撮らず、手持ちの注文用紙へ品番だけ書いた。
戻ると、台所の濡れた板は朝より少し乾いていた。これ以上水が入らないよう窓を閉め、雑巾を外へ干す。昼からの戸棚修理に使う蝶番を荷台へ積み、祖父の帳面は見開いたままにせず引き出しへ戻した。
昼を過ぎて現場へ着くと、戸棚の蝶番を直してほしいと頼んだ家主が、外した扉を廊下へ置いて待っていた。透は取り付け穴の位置を測り、歪んだ蝶番を新しいものへ交換した。家主が試しに扉を閉めると、今度は棚板の角が少し当たる。
「棚板まで直さなあかん?」
「まず調整します。今日の見積もりにない交換まではしません」
蝶番の位置を少しずらして閉まり具合を確かめ、家主にもう一度動かしてもらった。透が受け取った伝票には、作業終了の時刻を自分で書き込んだ。
家主から受け取りの印をもらって外へ出ると、日はまだ高かった。透は道具を軽トラックへ積み、便利堂へ戻る道で車を止めてから楓へ電話を掛けた。
「今日、会えるか」
『仕事が終わってからなら』
「俺、あの夜のこと、ひとつ思い出した」
楓は電話で詳しく話すようには求めなかった。終業後に便利堂へ寄るとだけ答えた。




