第81話 十二歳のまま
千鶴の実家では、祭りに出す昆布の箱が一つ足りなかった。朝、乾物屋へ届いた納品書には正しい数が載っていたから、千鶴は店の棚を全部開けて確かめた。最後の一箱は、母親が贈答用に取り置きした分の下へ入っていた。
「これ、ここに置くなら伝票にも書いてよ」
「昨日、帰り際に言うたやろ」
「私が自転車に乗ったあとでしょ。聞こえんよ」
母は一度考え、それなら今度から取り置きの札を別の色にしようと言った。千鶴が赤い札を探すと、袋の底から去年のものが出てくる。隅に書いた売価だけが古いままなので、新しい紙を上から貼った。
乾物屋で注文票の書き直しを終えた千鶴は、便利堂へ持っていく薄い昆布の見本を二袋だけ選んだ。以前、ハツの家へ間違えた品を届けて以来、袋の形だけで選ばないようにしている。今朝は母が倉庫から同じ銘柄の違う厚さを取り出していた。
「売り場で聞かれたら、どっちが煮るの早いって答えればいい?」
「そりゃ薄いほう。でも、出汁を取るなら厚いのを勧めたら」と母が言う。
「お客さんが何作るか聞いてからにする」
千鶴は価格札の色を分け、店頭へ並べた。午後に便利堂へ行く前に、配達先の家から電話があり、今年は家族が帰省しないので贈答箱の数を減らしたいと言う。すでに包装を始めている分が一つある。千鶴は母と相談し、包装代が掛かった箱だけそのまま引き取ってもらえるか尋ねた。先方は、渡す予定がなくても自宅用に買うと決めた。
千鶴は包装紙の隅を折り直し、渡す予定がなくなった箱には受け取り予定日を自分の字で書いた。
※
昼前、透は航の工場へ寄った。棚の扉はまっすぐ閉まり、追加で付けた金具にも緩みはない。航は透にドライバーを渡し、最後のねじを自分で確かめろと言った。
「完成ですな」
「いや、お前が開け閉めしたときに変な音せんか見ろ」
透が扉を動かすと、航は車の下へ潜り込んだ。エンジンを掛けたままの車が工場の外で待っている。話を始めるなら、目の前の仕事が終わってからだった。
昼休みになり、母親が二人分の弁当を持ってきた。卵焼きと茄子の煮物が入っている。透は弁当の蓋を見ただけで、祖父が作った焼き飯を思い出した。
「また港のことか」と航が聞いた。
「昨日行ってきた」
「何かわかった?」
「母が帰ってきた岸には、たぶん立ってた。けど、そのあとのことが抜けてる」
「俺はお前がしばらく学校休んだことしか覚えてないぞ。先生も、こっちへ何を話せばええかわからんかったんやろな」
透は卵焼きを一口食べた。小学生のころの航は、家まで遊びに来たことがある。祖父が戸を開けて、今日は帰れと言った。あの日、透は部屋で寝ていたのか、起きていたのか。航は勝手に家へ上がらなかったので知らない。
「俺、聞かんかったやろ」と航が言った。「いまでも、全部言えって頼むつもりはない」
「うん」
「ただ、うちの工場で昼飯食う約束は守れよ。食う気がないなら最初から言え」
航の母が麦茶を置きに来たので、透は弁当を食べ終えてから礼を言った。帰り際、床に落としてしまった箸袋を拾う。口からいつもの三文字が出かかったが、手前で止まった。
「申し訳ない。汚してしまって」
「拭けばいいよ」と航の母は言った。
透は床を拭いた。桑島の言葉が腐ってから、自分が代わりの謝り方を選ぶまでに、ほんの少し時間が掛かる。今日もその時間を、航は何も言わず待っていた。
※
今日は便利堂の勤務日でもある。午後の約束に遅れないよう店の配達を済ませ、千鶴は自分で決めた時刻に作業台へ戻った。透は裏で網戸の枠を洗っていた。
「透さん、祭りの前日はうちの店にいるんで、こっちの注文を増やさんといてくださいよ」
「見積もり出した分しか増やさない」
「いまのうちに署名もください」
千鶴は予定表へ透の印をもらい、祭りの売り場用の札を隣へ広げた。太い昆布と薄い昆布を間違えないよう色を変えた札だ。ハツへ薄い方を届けてしまった日のことは、もう仕事の失敗として片づけた。しかし竹岡家の前を配達で通るとき、門を見ないようにしている自分に気づくことはあった。
「佳代さんの分、請求書どうなりました?」
「発送はした。入金はまだ確かめてない」
「私から聞いたほうがよければ言ってください。でも配達のついでに催促はしませんから」
「それでいい」
千鶴は振込の照合日だけ帳簿に書き、別の色の付箋を貼った。催促の電話が必要になったら、透自身が掛けることになる。店の配達をしている彼女が、竹岡家の玄関先で代わりに話をする用件ではなかった。
透は、今日引き取った網戸の部品代を伝票から拾い、仕入れ先の請求書と照合した。千鶴が「そっちの数字だけは自分でやってください」と言うので、二人は別々の作業台へ戻った。
透は網戸の水を切った。千鶴は伝票の脇へ小さく確認日を書き、次の仕事へ移った。
伝票の照合が済むと、透は修理した網戸の引き取り札を探し始めた。客が帰る時間は決まっているのに、昨日の伝票へ別の紙を重ねてしまったらしい。千鶴は棚の下から札を出し、渡す前に見積書と番号が一致しているか確かめた。
「私がおらん日のぶん、あとで見つけやすく分けてくださいよ」
「今日も見つからんかった」
「それで私が見つけるから覚えないんじゃないですか」
透は言い返さず、棚の中の順番を入れ替えた。千鶴の話では、乾物屋では今年の祭りに合わせて売り場の札を新しくしたという。透が見に行くと言うと、彼女は買い物へ来るなら客として来てほしいと笑った。
「手伝いに来て、勝手に値段変えんといてくださいね」
「そんなことするか」
「前にサービスした網戸の代金、うちの母に怒られたばっかりでしょ」
ふたりが帳簿を閉じるころ、竹岡家の近所の客が古い窓の部品を持ってきた。透は預かって後日に直せるか確かめ、客の都合を聞いて伝票を書いた。千鶴はハツの家の名前が出ても、そこへ立ち寄ろうとは提案しない。庭木の請求書の入金を確認する仕事と、家族へ会いに行く用件は別だとわかっている。
店を出る前、千鶴は祭り当日の約束をもう一度確かめた。透が夕方まで修理を引き受けたら、自分は待たずに楓と出掛けるつもりだと言う。透は朝の一件だけで終わらせると答え、念のため自分の手帳へも予定を書き込んだ。
※
夕方、便利堂へ帰る途中で雨が降った。透は旧船着き場へ曲がりかけ、ハンドルを戻した。濡れた岸へもう一度立ったところで、失った十五年が戻るわけではない。
家へ着くと、祖父が使っていた小さなフライパンを出して焼き飯を作った。底は何度磨いても黒いままだ。卵を落とす順番を間違え、米が少し固くなった。十二歳の自分なら、焦げていないところを先によそってもらっただろう。




