第80話 港へ行く日
楓が便利堂へ来たとき、透は机の上に古い書類を広げたままだった。靴を脱ぐより先に茶を出そうとするので、楓は鞄を作業台へ置かず、戸口で待った。
「また仕事とごっちゃになってる」
「今日は俺の家のことしか広げてない」
「だから困るんです。休めって言いに来たのに」
透はやかんの火を消し、二人分の湯飲みを持って戻った。楓は祭りの日の勤務表を見せ、当日の担当が終わるまで会場へは行けないと話した。野添が作った連絡表は所定の部署へ届いているという。
「十五年前のことは?」
「私が担当してないの、知ってるでしょう」
「うん」
「父さんの話なら仕事のあとに聞けます。でも、父さんが見ていないことまで、私に埋めさせないで」
透は机の端に重ねた封筒を一つどけた。古い記録の不一致を追っているうち、楓の父親が話せばもう少し先へ行けると期待していたのは事実だった。本人が知っていること以上を聞くつもりはないと答えると、楓は湯飲みを手に取った。
「この前、黒瀬さんが母の話をしたんだ。最初の舟が戻ったとき、岸にいたって」
「それ、知ってたと思ってた」
「知ってた。……いや、たぶん、知ってた」
楓は小学生のころの透が、両親が戻らなかった夜のことをあまり話さなかったのを覚えている。けれど透自身が何を見たかについては、彼女も聞いたことがなかった。
「港へ行ったら、思い出す?」
「わからない。ただ、あのとき俺がどこに立ってたか、確かめたい」
「明るいうちに行って。明日、私は夕方まで仕事だから、一緒には行けない」
「連れて行くつもりで話したんじゃないよ」
「知ってます。顔色がよくないから言っただけ」
楓は帰り支度をしながら、机に積まれた書類のうち今日の仕事に使うものが何か尋ねた。透が封筒から取り出したのは、翌朝の雨戸修理の見積書だった。持っていく部品の数が二つと書かれているのに、工具箱には一つしかない。
「もう一つ、車の中かも」と透が言う。
「かも、で現場へ行く気?」
「今、確かめる」
二人で表へ出ると、軽トラックの荷台の隅に小箱があった。透が封を開けるあいだ、楓は車の脇で帰宅後の夕飯を考えている。部品の型番が一致すると、透は雨よけのシートを掛け直した。
「じゃあ明日。うちへ何か聞きに来るなら、父さんがいる時間を先に聞いてね」
「わかった」
楓は車で帰り、透は古い書類を一枚ずつ封筒へ戻した。黒瀬から許可を得た画像だけは、翌日港で見返せるよう自分の携帯にも保存してある。夜更けまで照らし合わせてもわからないことは残る。透は明日の客へ連絡する必要がないか確認し、店の灯りを消した。
※
翌朝の仕事先では、雨戸の戸車が錆びついて外れなかった。透が潤滑油を出そうとすると、家の主人が台所から古い油差しを持ってきた。
「うちのを使うたらええ。前の職人さんもこれで直しとった」
「中身、いつから入ってます?」
「引っ越す前からやないかな。蓋も固くて開かんけど」
透は礼を言って油差しを返した。古い油の状態は確かめられないし、持参したものがある。主人に植木鉢を二つ移してもらって作業場所を空け、敷居の下へねじを受ける浅い箱を置いた。錆びを落とすのに時間が掛かり、交換する前に枠の歪みも確かめる。途中で主人の娘が鍵を掛けて出かけると言いに来たので、引き渡しは父親が立ち会うことになった。
「正午には終わりますか」
「戸車の交換までは。雨戸を外した状態では帰らないので、仕上げを確認してもらう時間だけください」
古いねじは一本だけ頭が潰れかけていた。透は別の工具に替え、木枠を傷つけずに抜いてから新しい戸車を据えた。主人には雨戸を三度動かしてもらい、引っ掛かりがなくなったところで伝票に印をもらった。
帰り際、主人が処分を頼んだ部品を袋へ分ける。透は台所に置かれた古い油差しを持ち出さないよう、念のため主人へ「これはそちらのものです」と声を掛けた。
※
旧船着き場へ向かう途中、父が軽トラックを停めていた道を通った。現在は歩道が広がり、当時より車道が狭い。透は港の駐車場に車を入れ、フェンスの外側を歩いた。
十五年前に使っていた岸の一部は埋め立てられ、足元には新しい手すりが付いている。干された網の重りが風でコンクリートに触れる。黒瀬の便箋には、最初の舟が三人を岸へ降ろし、両親が二度目に出るところまで記されていた。その先は黒瀬が人づてに聞いた話だ。
透が古い物置の位置を探していると、漁協の宮下正巳が水揚げの伝票を持って通りかかった。
「こんなところで何しとる」
「昔の物置、どのあたりだったかと思って」
「今の柵より向こうやったと思うけど、工事で位置も変わっとる。正確なんは昔の図面やな」
「その場所から舟は見えました?」
「角度によるやろ。わしがあの夜そこにおったかどうかは、また別やで」
正巳は事務所へ伝票を届ける途中だったので、そのまま道を曲がった。透は礼を言って、足元の舗装が切り替わった境目を見た。名札の付いた新しい倉庫を覚えているのか、昔の物置の屋根を思い出しているのか、自分でも判然としない。
事務所の前では漁具を洗う人がホースを取り合っていた。片方は網についた泥を落としたいと言い、もう片方は午後の積み込みまでに台車を乾かしたいらしい。透が昔のことを訊ける相手はそこにもいたが、今日は通りすがりの人へ手当たり次第に話を聞く気にはなれなかった。
帰る前に駐車場の管理人へ、古い岸の図面が公開されている場所を尋ねた。管理人は施設の管理担当がわかるだけで、十五年前の資料まで保管していないと答えた。透は掲示板にある町の窓口を控え、無理に話を引き出さず軽トラックへ戻った。
水面には昼の光が残っていた。透は立ち入り禁止の柵を越えず、手すりから岸を見下ろした。子どもだった自分の背丈なら、向こうの倉庫の屋根しか見えなかったかもしれない。雨を避けられる軒がどこかにあった気もする。父が船具を積んでいるあいだ、そこへ腰を下ろしたことなら何度もあった。
母は戻るたび、濡れた上着を脱いで干す場所を探していた。二度目の舟に乗る前も、袖を片方だけ絞っていたような気がする。ただ、それがあの夜の記憶なのか、別の日に見た動作なのかはまだわからなかった。
車へ戻って携帯を開くと、楓から短い連絡が来ていた。
『行けた?』
『行った。場所は少しわかった。明日また仕事してから考える』
透は助手席に広げた地図の角を折り、携帯と一緒に鞄へしまった。工具箱の脇に置いていた古い戸車は、処分用の袋へ移した。




